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publication Record |『plan-B通信』1982-2004

1982年〜2004年まで発行していた月刊『plan-B通信』
その中で、2000年〜2003年の文書を掲載!

トーク・エッセー No1〜No10 
灰野敬二

日本現代舞踊の起源 No1〜No14
村上裕徳

雑話 No1〜No10
合田成男

フリーター階級をめぐって No1〜No3 
平井玄

This is “The plan-B monthly publication communication”
that It published from 1982 through 2004.
★We are sorry that, Only Japanese

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灰野敬二 トーク・エッセー 1


 実際批判になっちゃうんだよね。批判でも、いい批判家、批評家っていうのは自分がやってると思う。批判して批評だけならば、19世紀最後までやってたいわゆる「評論家」がまだ良かったと思う。いま物書く人って、何もしないからかなりひどくなってる。それよりも、批判しつつやってるならさ、自分が、いい時も悪い時も状態はあるけどさ、自分が何かを見せたい、聞かせたいってことは、「俺が」っていうのがある訳でしょ。それが「俺も」になっちゃぁ、やるテンションが落ちちゃうと思うし、ただ「俺が」「俺は」って言った時、やなヴァイブレーションを与えないようにいかにできるかだと思うから表現者っていうのは。それが「俺がー」ってやった時に、何もかもがイヤーな空気になってしまって、みんな知らないうちに、いい悪い以前に、悪い意味での魔術にかけてしまうっていうのはやりたくないと思う。けど、時によって誤解をされるっていうことはそういうことでしょ。ある人にとってはいいヴァイブレーションを感じられなければ、それは押さえ込んでるような‥‥。
 俺は今まで色んなこと言って、結局来た雑誌社そのものを解体するようなことを言う訳だから──、もう露骨にいえば「資本主義だね」。もちろん反対側がいいとは言わないよ。さらに音楽の雑誌はどこも出してくれないけど、俺以外に「誰が安保反対の音楽をやってんだ」って言い切ってる訳。ジョークとして載せることは今後もあるかもしれないけど、本気でそれを言ったならば、ひょっとしたら雑誌が出せなくなるかもしれないからね、表現の自由って言いながら‥‥。
 その一人だけじゃないでしょう。結局、きっかけで亀裂ができりゃあ、初め亀裂が大きくならないことはできるけど、開いた亀裂は絶対に防ぐことはできないよね。無理矢理とんでもない力で亀裂を防ぐとしたら、漫画と同じでダムなんかの場合は他の所から出てきてしまう訳で、絶対にその恐さは、30年色んなところ喋り続けて、何にも出さないな。好意的ではある。評論家もある意味では敵にしたくないっていうのがあるんだろうけど。
 多分こいつにはわからないだろうと言って、何回も何回も言ってダメだとと思って、それで切ったらば状況は何か変わる?何ていうのは大それたことだけど、微かに揺らせるぐらいの、たった一行にでも引っかかればいいじゃない。言い切るけど、現状をいいって思ってる奴なんかいないから。いいものを売ろうともうしてないも。売れるものがいい。僕の幻想かもしれないけど、60年代の後半というのは磁場が違うことは明らかだけど、でもやる側は何かの部分では信じたものをやっていたと思う。どう考えたって、ジミヘンとジム・モリソンと個人的だけどシド・バレットって、やっぱり凄いも。今の次元から見ても、そのロックのサイドから見て、悪いけど僕はその世代は認めるからね。
 御存知のように俺はすごいレコード・マニアな訳で、とりあえずロックの世界だけ言うと、あれぐらいのオリジナリティーのある奴がいわゆる無名の中にいないのよ。これがねぇ、時代のせいにしたくないということなの。ジム・モリソンくらいってあえて言うけど、存在感がある奴は僕が探した限りではいない。レコードにならなかったのかもしれない。これだけ再発されていて、たったシングル1枚でも再発されてる訳じゃない。いわゆるその時代だってありさえすれば、幻のバンドとしてシングル1枚くらいは出したと思う。これだけ発掘されて出てこないロックの世界で、それでも出てこないっていうのは、やっぱり彼らはほんとにアヴァンギャルドであり、正道であり、表現者であり、音楽の部分で、何かの力を持ち得た人たちだったと思うのね。それを、時代がピッタリ合ったという言い方をしたくないけど、プロデューサーがこれはいいと思った音楽に対してのメッセージじゃなくて、メッセージは嘘に近づくから、何かのアプローチを持っていたと思う。ところが今やっている人間は、育てようという気が、自分たちの表現が何だって押さえて、捉えてそういうことをしようする人種がいない。

灰野敬二 トーク・エッセー 2

いないっていうのは、やりたいんだけど、売るっていうことが頭にあるから。イイものを売る以前に、まず売らなきゃいけないという至上命令があるから。
 それは全部含まれていて、ライブハウスのノルマ制も全部そこなんだ。
 もうねぇ、ある友達はすべて三流の時代だと。死語みたいな言葉だけどね。だからその前の表現を生み出す時代なんてもうないって。ロックはあれでいいの。それ以上になる必要がない訳。サイケデリックでも何でも、ある時に終わって、終わったということはそれ以上になれない訳でしょ、留まってしまったということは。それ以上か、そうじゃないことをやろうとすることは現在生きている人間のある意味では使命にちかい訳じゃない。プロっていう意識は、人を呼んで産業にするプロ意識じゃない。作る、違うものを作ってというか、本物だよね。本物をやろうという時にその意識を芽生えさせない。
 17歳の高校生が、ライブハウスを「ああ、そこに100人入れたらライブできるんだ」って思って、2クラス集めればいい訳じゃない。そうするとノルマは払わなくてもいいし、バンド2つくらいあると150人集まっちゃう訳よ。そうすると多少のギャラもらえる訳よね。音楽ってこういうことなのかって入っていけば、当然レコード会社入って、1万枚売らなきゃギャラもらえないよなって言ったら、1万枚売るために計算をしだす訳。初めからそういうものと捉えて考えていれば、サウンドもここでツ、ツ、ツ、タよりもツツツタッの方がいっぱい売れると、曲も作り出す訳よ。時代のニーズを本人が考える、という以前に考えられちゃう。頭の中でそういうシステムがそう回路されてるんだもん。
 昔は、アンダーグラウンドは、日本にサイケデリックっていう時代の産物なんて、「サイケ」って言葉しかなかったんだ。あんまり乱暴に言いたくないけど、グループサウンズで問題意識がちょっとあったような奴等は、それをちょっとやっただけで、今からは、本当のサイケデリックからは考えられないけどちょっとカラフルな服を着ていただけで……。
だからね、僕なんかに言わせればここがまた罠なんだけど、今ひょっとすると、僕は真面目に考えてるけどアメリカで起きた60年代最後から70年代の問題意識としては、根底のない問題意識としては日本人に切実な問題としてある。これは僕がよくいう例えで、30年前のアメリカの映画を見てごらん。そしてキッチンを見てごらん。キッチンがレンジとかオーブンとか(日本では)ようやく5年ぐらい前からあるの。エンゲル係数じゃないけど、人間の生活水準を測るのはじつはそこで、人間が何を食べてるか、どういう余裕を持っているかということ。冷蔵庫があるかっていうのは20年前までで、レンジとかオーブンていうのは5年前にやっと日本人の生活の中に、アパート暮らしの一人住まいじゃない普通の4人家族の家庭の中で起きている状況っていうのは、ホントに30年前のアメリカだからね。罠っていうのはね、ほんとに張り巡らされててほとんど気付かないし、それは個人が作るものじゃなくて、暗黙の了解に、知らないうちに結託されてしまうもので……資本主義ってそんなことだから。誰かが資本主義を追い出そうなんて今言い切らなくてもいきなりぶっ潰されて終わる訳だから。
(レコード会社に買われる)そのことは我々の時代にはもう下世話なことだったのね。僕がいまだ信じてるロックからするとね、冗談じゃないと。とりあえず俺たちは何のために始めたんだと、ドロップアウトしてね。もう全てに対して「NON!」と言ってた訳だから一回は。そこから始まっていたはずなんだ。それはもう僕が勝手に信じている部分ではあるけど、だって彼らはそのことに気付きようがないんだもん。できちゃうし、そのことで、いちばん企みとか罠があるのが歌詞だよ歌詞っ!
 「私は私らしく」って言ってるその言葉自体は凄いんだよ、実は。アルトーに匹敵するのよ「私は私らしく」っていうことは。ところがそれが言葉じゃなくって、どこがやってるかって言ったら100分の1%もない。ところが本人達はそう思い込んでるし、思い込まされてるスゴさ。異端児がいたって本人が気付かないところで含まれてしまう訳。「私は私」って言うね、僕に言わせたらたった一言しかなくて「私も」なのよ。この一言で全ては終わるはずなのに、「私は」って平気で言えちゃう訳。「私は」と「私も」の違いに気付いてない。今、あなたは個性がないですねって言われたら、ミュージシャンやれないよ。本人たちは「個性」があると思い込んでるし、個性があるって思い込まされてるんだから、それをホントに全て崩すような理論、理論体系をもって発表できる場所があれば誰にでも話したい、俺ホントに崩せる自信があるも。
 例えばかつて、はっぴいえんどっていうバンドがあって日本のロックと言い放った訳よ。ところがそこにおいてビート感とか日本語の発音の仕方っていうのは、どっこにも「日本」なんてない訳。でも彼らは、日本のロックとして明らかにいま神格化されている訳じゃない。俺はあれを崩す自信じゃなくって誠意がある、崩す誠意が──。

灰野敬二 トーク・エッセー 3

いま主流といわれるバンドは丸コピーしていて恥ずかしさはないんだろうか?だから今回の『哀秘謡』のオビには露骨に書いてある、挑戦状として。「日本において、ロックとはこのようにして始まるべきだった」。ま、本人たちがロックというものをどう捉えるかっていうことはもちろんあるけど、ただ彼らが気付いているいないに限らず、あの歌詞っていうのは僕からみてロックだから。
 ラブソングであろうと、やはり巧妙に言葉だけをうまく作ってきてるのよ。松本隆のあの歌詞はすごいも。歌謡曲の中に彼の歌詞が入ったことによって、歌詞があきらかに変わったの。例えばよ、すごく何でもなく、私はジュースを飲みましたが、私はキラキラ輝くからだの中に内出する液体を飲んだという言葉まではした訳よ、ただのオレンジジュースを(笑)。すごくどうでもいいようなことだけど、シュールなところまでは行った訳よ。そういう意味では言葉としての表現をしたかもしれない。言葉だけの部分であって、「私が私になる」のはある覚悟とリスクをしょう訳よ。リスクをしょわない部分でのことやった奴は全てインテリになるの。インテリってそういうことでしょ。リスクをしょわないで表現する奴はみなインテリで終わるの。
 だから、これも僕の中で言い放ってしまうことだけど、ビートルズまではインテリなの。彼らはロックと言ってるけど、僕にとっては作曲家だから。ひょっとしたら20世紀最大の作曲家かもしれない。バッハになりうるかもしれない。あの時代、あらゆるものを60年代に、ある意味で60年代は世紀末までは至らないけど、20世紀っていう十世紀単位でみた時にはもう彼らは世紀末な訳。そういう意味で彼らは勉強はしていたからあらゆる時代の音楽を総括して作曲をしたんだ。ビートルズのレコードって10枚くらいは、ほんとに聞いてもみんな違う曲なの。他のバンドってのは、いっくらあがいたってLP1枚の中に似た曲がいっぱいある訳。それはパンクにいたっては皆無だからね。本人たちが俺達は音楽の才能がないって言う、あれはもう自己弁護以外の何物でもなくて、どんどん音楽が狭まっていくのよ。アヴァンギャルドなんて言葉が出てきたことはもうとんでもないことで──。どんどんどんどんみんなズレていった訳、言葉遣いとか。
 まさに挑戦がなくなったし、それ以前に音楽が好きでないんだも。絵好きな人でなければいい絵描けないでしょう。踊り好きな人は踊りが好きじゃなきゃ踊れないはずだし、それは音楽にとっても全くそうだから─、好きじゃないんだも。それで何かをやるには総合的でなきゃいけないっていうあざとい単語を見つけて、また自分達がやれない弁護をしだす訳でしょう。音楽をやるためには美術も学ばなきゃいけないし、もちろん文学も知らなきゃいけないとか、そんなのはねぇ、やってればみんな分かることで、言葉にした瞬間に全てはそこで消えてしまうんだから……。
 ビートルズは僕にとってロックでないの。ロックは、十字架であり、やっぱりリスクだよ。というのはね、ロックが好きなあの世代というのは、みんなブルースが好きなのよ。ブルースを両親として、生みの苦しみの中からロックが生み落とされたの。それはブルースにしてみれば、また違うね、僕たちがまだ知らされてないアフリカの歴史とかにいくのかもしれない。少なくとも僕があえてロックから感知できるのはブルースまでだから。ブルースってのはタメがどうとかね、使う音がどうのこうの以前に、よく勘違いされるのは、表現法とスピリチュアルという部分ね。その部分でのブルースを感じた人間ていうのはどうしてもやっぱりロックを生み落としたのね。
 僕はあえていつも言ってるけどね、僕のパーカッションっていうのはロックから生み落とされたものだと思ってるから、そういうものってどんどんどんどん元に近づくんだと思う。その元っていうのはスピリチュアルっていう言葉になっていくかもしれないし、ある意味では音の塊ね。いつも僕は言い切っているけど、音楽なんて今ほんとに一部分しかないから、それを狡い奴らは何とか他のもので補おうとして、トータルとかね、インターメディアとか、全部を通して一つで音楽はこの部分ていう勘違いのやり方ね。そうじゃなくて音楽っていう塊を作り得るとしたならば、そうやった時に文学であり、彫刻であり、踊りであり、そういうものだと思うから、その塊を違う方からアプローチするのがダンサーだと思うし、そのことを考えながらものを書くのが作家だと思うのね。そこで自分に足りないものを見た時に、ほんとの意味で共同作業が始まるんだと思う。

灰野敬二 トーク・エッセー 4

今ミュージカルなんていうのは利害関係で結びついて、お互いにないものをお互いに傷の舐め合いとしてもうテンションを上げるんじゃなくて、100%のうち60%でも70%でも接点があればいいと思うよ、そんなんじゃないも。このへんの20%のところで何とかこう癒着しているようなことと全く同じだからね。だからミュージカルとか本気でやるならば、お互いが自分のやってる表現に対して至上主義にならざるを得ない。でもぉ、なんか知らないけど邪魔だけど踊ってる奴がいるとか、詩書いている奴がいるとか、じゃー何なんだよオメエよって言った時に、お互いが言って全然やってることは違うんだけど何か接点があるじゃない。
 やっぱ接点っていうのは、僕はリスクだと思うのね。リスクであり、微かでもいいから、陳腐な言い方だけど、ほんのちょっとでも世の中を少しでも良くしたいっていうね、とりあえず悪くしたくないと。それこそ傷ができているのはもう事実な訳だから、それをもうどうせなら全部拡げちゃえと、傷拡げてしまえば宇宙になれるじゃないかと。ある同志がいないと言葉で戦えなくなっちゃうし、一人じゃできないよ。一人でやるっべきなんだけど、一人じゃできない。だからこそ仲間が欲しい訳だから。
 ここなんだよ問題は。あのね、やっぱりわかってんだよ(音楽評論家は)。わかってんのと、人間の本当に哀しいサガで、自分の生活ね。でも何でもそうだけど、みんながそうだって言えばいいんだよね、よくないって。だって今のJ-POPをいいって言う奴はひっとりもいないよ。聞かされてる子たちは別ね。彼らはいい悪いじゃなくて、子守歌としてかけられてる訳だからドンドン育ってくる訳よ。
 評論家っていうか、言い切れないけど、いまだに日本の場合は30才でいまだに音楽を聞いてる人だからね。この違いだよね。イヤな言い方だけど、日本じゃないところではやっぱロックやるのよ。なんで僕が日本にロックないとか、作らなきゃいけないっていうのは、1年に1回でも2回でも(欧米に)行くと、去年来た‥‥こういう言い方をしよう。10年前行った時に、髪の毛が既に白っぽかった人がいる。10年たってその人が禿げてんのよ。どう考えたって同じ人で、あの時白髪だから少なくても30、10年たって40だよね。40の奴が来てウワァーってやんだよ。頭トンガってんのが来てウオォーってやんのと違うんだよ。要はここが面白いんだけど、ウオォーは同じなの。日本の場合とは質が違うウオォーで、質の違う客なんだ。だからロックがあんのよ。昔ジミヘンを見てるなら42、3歳はいってると思う。そういう人間が、やっぱり10年たっても1年に1回かもしれないけどほんとにライブハウスに来るのよ、ロックを聞きたくって。これは日本にないもほとんど。言わせてもらえば、僕のお客さんがかすかではあるけど何人かはいるけどね。やっぱり悔しいと思うし、なんで日本にロックないんだってね。
 ある時に不失者のことはああ皆わからないって、僕の中でもうしょうがないと。不失者を聞かせる前に、もし不失者がロックから生み落とされたものだとすれば、とりあえず不失者を生み落としたものを一度は見せなきゃいけないっていうので哀秘謡を始めてるから。ほら、例えば既にある曲をその通りやるのはこれはもう絶対ロックなんかじゃないから。ジミヘンにしたって、ドアーズにしたって、自分たちのサウンドにした訳だからねブルースを。とりあえず、僕の信じているギリギリのロックを見せて、そこで反応が起きなかったら、またやり方を考えなきゃなって。
 何でそこまで俺がやらなければならないんだっていうのはあるけど、やっぱりロックが好きでロックにこだわっていたいっていうのがあるんだもぉ。ジャズなんてどうでもいい。フリージャズが消えようと、モダンジャズが腹減ろうと俺は構わない。俺はお世話になってないから。俺の中に知識として、それこそリズムの取り方とか、裏の間の取り方とかね、確かにモンクを聞いて勉強してその方向に向かっていったのは明らかだけどね、俺のなかでは先生ではあるけど、仲間ではないんだよ。
 いいロックっていうのはそれこそジミヘンとか数は少ないけど、でも彼らだって先生の教えを受けてるし、やはり時代っていうのはどうにもなんなくって、やっぱり昔のものの遺産の上にいるのよ。時代としてじゃなくて、モンクを聞いた人間がモンク以上とは言わないよ、モンクのあのオリジナリティーに匹敵する奴なんていない。それを盗み、勉強しつつ、本人たちがどういうパーセンテージの消化を定義するのかわからないけど、モンクに対してね。でもみんな勉強してる。あいつら評論家と一緒なんだよ。でもやっぱり、すごいと言わないんのよ初めは。ところがある時期にすごいと言うのよ。なぜかと言ったら、すごいと言ってしまえば、自分がすごくなってすむから。これが罠なんだよ。

灰野敬二 トーク・エッセー 5

音楽評論家っていうのはね、たぶんギター弾いてたと思う。普通の奴より音楽が少しは好きなんだから。露骨に言うけど途中で挫折してるの、みんな。そういう人間も、それ以前に今のほとんどのミュージシャンもね、独創的な音楽で自分をアピールしたかったの初めは。ところがだんだん挫折していって、自分の位置とかを作り出すと、露骨に言うけど、僕のことをすごいって言ってしまえば楽なの、やらなくてすむんだも。そこでリスクをしょわないってことは、すごいって言ってしまうことだし、これは問題発言かもしれないけど、キリスト教とか宗教と全く一緒。みんなジーザスに、イエス様に憧れたり、人がイイことをしているの見てイヤだって奴はまずいないと思うのね。イイことってやっぱりみんなしたいのよ。できなくなるタイミングっていうのはある。それは具体的に言うならば、自分の位置だよ。それを言うことによって百人に睨まれるのは怖いわけ。
 今日も電車に乗ってて、若い娘が席を譲ったのお年寄りに。それはすごくイイことなんだよね。ところがすごい照れてんだよ。なんで照れなきゃいけないのか、照れるからできなくなっていくんだよ──。照れるべきじゃないんだよね。イイことをした訳じゃない。座ることのできたお婆さんは「どうもありがとう」って言って感謝してる。それが位置なんだ。人の目を気にしなきゃいけない。それはここでダメ、つまらないって言ったならば、評論家連盟があるかどうかわからないけど、そっから睨まれるわけでしょ。問題発言になるんだろうね。
 確かに日本が「村」「島」っていう感覚をすごく持つけど、誤解されたくないけど、足を引っ張るとか、他人の批判をするとか、それはどこにでもあると思う世界中。ただ批判される元ね。例えば正しいって思って、正しいって言い切った時に批判されるのはヨーロッパとか日本じゃないかもしれない。日本人の場合は、まだこれが正しいと思えるものが形成されていない。もう、か、前からかわからない。だって全て情報で知らされてる訳だから、自分で見つけて美味しいって言える人ほとんどいないも。そのことの方が怖い。例えば、実際に向こうの40歳の人が来てくれて、僕の音楽を嫌いな人だってもちろんいる。一回聞いて冗談じゃない、これはロックじゃないって思う奴はブーっていう訳だし。ただしそれはハッキリしてるよ。自分のものを持ってると思うよ。アメリカに住んでる人に聞いてビックリしたんだけど、お母さんが「他の子と違うことやれ!」って言って子供育ててるって。そうしないと目立たないから。

灰野敬二 トーク・エッセー 6

アメリカでは)お母さんが「他の子と違うことやれ!」って言って育ててるって。そうしないと目立たないから。やっぱり、こんなこと言っていいのかわからないけど、イギリスから流されてきた彼らが、生き残る術だよね。押しのけるだよ。結局他人と違うことをやれっていうのは、他人を押しのけてでも自分が生き残れっていうことだから。ニュアンスは違うけど、そこにおいてのオリジナリティーはある。オリジナリティーってことに関して言えばね。それは俺たちと違うよ。学校でチーチーパッパってやったらみんな同じうた歌わなきゃいけない訳じゃない。僕の世代なんか特に、できるだけみんなと同じようにしなさいって育てられた訳だよ。
 表現っていう言葉にしても、何かを表に現すことでしょ。ていうことは、それは隠れてることだよね。ここの物がここに現れていたら現す必要はなくて、乱暴な言葉になるけど、どっかから引きずり出すとか、それこそイメージとしては闇だよね、闇とか、言葉でいうと陳腐になっちゃうけど神秘とかね。それをどういう形っていうか、見てもらおうとする訳、聞いてもらおうとする訳だから。そこにおいて、ちょっと話が飛びすぎるけど、僕の考え、ある人たちは考えてると思うけど、やっぱり現在の自分の身体なんか癒す必要なんて全然ない訳で、ズーッと流れ続けてる一種の、本来は一つだったはずの魂を癒そうということだと思うよ。
 僕は最近元気づけられたんだけど、ダライ・ラマ。ダライ・ラマは癒すことはできないってNHKで言ったんだよ。それ見てああやっぱりコイツいいやって。俺アイツ好きだから。アイツって言っちゃうけど、全然気取ってないじゃない。飄々として、人のいいオジサンなんだけど言う時はちゃんと言うのね。で、すごい面白い話があって、癒して下さいって来るんだって、人が。「えっ、私癒すことなんかできませんよ」って、仏教の国際会議の時に。ダライ・ラマが好きなのは悪戯っぽいんだよね。キュートなのよ、失礼だけど。それで、ある時に国際会議かなんかで、なんかここに皮膚炎ができたんだって、ラマさんが。それで「誰か癒せるか、会議が終わった後に私のこと癒してくれませんかねー」って、会議終わった後誰か湿布持って来たんだって(笑)。だからそんなもんですよってね。
 例えばだけど、(レコード店の)ヒーリング・コーナー入りたいなぁ。「癒すって何ですか?」って。癒しのコーナーがあるんなら、反対に癒せないかもしれないってコーナーがあってもいいかもしれない(笑)。打ってみなきゃしょうがない。みんな騙されてる。
 NHKで面白いテストをやってたんだけど、若い子とおじいさんに同じ音楽を聞かせてα派が上がるかどうかって。でもそれは好みなんだよ。歯医者さんとか病院ではよくヒーリング音楽かけてるじゃない、人によっては迷惑だよね。若い子なんかは、ジャガジャガとかラップとかをかけた方がやっぱりいいα派が出てきたっていうものね。おじいさんは、無理ジャン。それを一個一個検証していって、あれがいかにインチキかってわかるじゃない。その作業をやろうか。一個一個崩していけばいいんだから。
 例えば、喜多郎が砂漠で旅をしてあらゆる苦難を受けて、だから人が嫌がる音っていうのは全部わかるっていうけど、わかってるのかと。まずそれが罷り通るのがおかしい訳で。あとね、みんな癒されたいっていうけど、僕に言わせたらば癒されるほど痛んじゃないって言いたい。これもホントに罠で、自分が被害者意識でいる時っていうのは安全なのよ。加害者意識になった時に両方の悪い方が出る訳で、被害妄想と誇大妄想が両方出る訳だ。被害者意識させとけば安全なんだ。前から言ってる、パンクが出た時、あれはもう世界中の資本家のトップが大喜びして拍手したのは、彼らはあそこで遊ばせて暴れさせりゃいいんだも。あそこでエネルギーを放出させてそこでマスターベーション、って言い方はちょっと違うと思うけど、本人たちが体制に対して抗議をしているっていう部分を満たせてあげりゃ良かった訳だから。これも何回も言っててつまんないけど、それも後から暴露されてる訳だからね。それにトップといわれる奴がそれに乗っかった訳でしょう、セックス・ピストルズとか。あれレコーディングには一番いい訳じゃない。あれがたぶん最後の発売禁止だね。
 ああいうのは、イイ悪いは別にしてキレ者がいるのよ。キレ者がイイ方にいないのよ。やっぱりドラマ見ても最終的な結末っていうのは、俺たちはまだまだ見られないことで、途中にいる訳じゃない。そうすると悪い方のキレ者が仕切っている。実際にそうだよね。でも僕は諦めてないからね、とりあえず。微かにでも、ホントに一年に一人僕の音楽を聞いてくれる人がいるだけでできるから。でもお客さんの立場になれば、僕たちの音っていうのは、恐らくお腹が80%くらい膨れちゃうと思うのよね。そうすると、一年に1回や2回にならざるを得ないかもしれない。やっぱりこう、ワーワーワーワー行って騒げるところは、何となく行ってまた騒げるじゃない。これはどうしようもなく人間の本性としてあるから、やっぱり単純にメリットと考えて自分は責任取らなくていい訳だから。

灰野敬二 トーク・エッセー 7

 ワーワーワーワー言って騒げる所は、何となく行ってまた騒げるじゃない。これはどうしようもなく人間の本性としてあるから、単純にメリットと考えて、自分は責任取らなくていい訳だから。
 今言ったのは、そもそも聞く側って、たぶんポップスなんかを聞いている子たちは、2年もたてばCDは売っちゃうと思うんだよ。それはさっき言った生まれ出すこと、生み落とすことにこだわっているかどうかっていうことだけど、それと、客側が勝手なんだからやる側はもっと勝手にやらないとダメなんだよ。これが新しいことに段々変わるというより動いて行くんだから──。
 NYで僕は最後のムーブメントと思ってるんだけど、「NO NEW YORK」(以下NNY)っていうのがあったでしょう。あれだってお客さんがそこに来ていて、掛け声とかつまんねぇーとか、とにかく一方的なステージングじゃなくって、お客さんが一緒にたった10ドルでも絶っ対に楽しんで帰るから。5ドルであろうと。まぁ予定調和、普通の何万人も集められるポップというのは俺にはわからないけど、俺がいまだにこだわるロックの世界ではね、そういう奴等は、例えばロックをやってたとする。客がそこでヤジを入れてピッと止まるとか、チューニングが狂って次の曲をやらざるを得なかったとか、そういう何かもう、やらざるを得ないとかね、やろうと思ったとかじゃなくてならざるを得ない。事故だよね、言ってしまえば。表現ていうのは、さっき言ったリスクという言い方をすると、事故を怖がるなっていうことだから。僕はロックっていうものをそこまで捉えているわけ。
 いい結果ではないけど、ジム・モリソンがマスターベーションをステージでやったとか、ジミヘンが火を燃やしたとか、恐らくあの時点で誰よりもアヴァンギャルドだったはずだよ。どんな絵描きよりも、どんなフリー・ジャズの人よりも、アヴァンギャルドなんだよ。ギターに火ぃ付けてやってないんだから。ジョン・ケージもある曲でやってたかもしれないけど、公然と大衆の前だよね彼らは、少人数じゃないから。何でアイツらやったのかって言うと、やっぱり最後の抵抗として時代の流れから起きたのよ。本人達がどういう意識があったかわからないけど、やらざるを得なかった訳で……。
 NNYはヤジ入れたりとか、チューニングが狂っちゃったりとか、ガーと弾いたりすぐやんなくちゃいけなかったりして、そういうことを駄目な部分として捉えるんじゃなくて、それもよし、がNNYになったの。NNYっていうのは僕は同じ世代だから、ところが日本じゃそんなこと起き得ないのよ。「ロストアラーフ」をワーとやれば逃げていくか、石ぶつけるかでおしまいだから結局。
 CD聞いて同じ音を武道館行って聞いてという…決定的に問題なのは学校教育なの。はみ出ちゃいけませんよっていう。NNYの話に戻すと、結果として面白いのもできた訳。それを我々の観客からみれば受け入れて、一つの表現になった。そうすると彼らとしてはしめたと、これが違うんだよ。お母さんにあなた達違うことやりなさいよって言われて、自分達の才能なんかなかったのにその磁場の中で起こった訳じゃない。それが日本だと、4、5人が来てチューニング狂って、ギター演奏してた、事故だよなで終わる訳よ。
 メシアンの「世の終りのための四重奏曲」って、確か初演はピアノがボロボロ、クラリネットも壊れてた。チェロはたしか三本だったのね、譜面はちゃんとあったけど。そのことで現在の日本人の概念に立ったら演奏できない。あれはもう抵抗のものとしてやらざるを得なかった訳でしょ。そのパワーっていうのは、演奏家がロクな者がいなくったって、作曲としての、メシアンの表現として未だにどこにもない世界がある。それがリスクじゃん。リスクを追おうとしないも。だいたいリスクっていう言葉、日本語でなんだっけってね、そのことは既に僕にとって危険な訳じゃない。リスクとして自分が反応している訳だから。我々が日常で使うヘンな英語を、直訳でなく日本語で喋れる人がいったい何人いるんでしょうって言いたいよ。「テーブル」とか言っちゃう訳でしょ、机ってもう言わないじゃない。(コップを見て)コップはしょうがないか。

灰野敬二 トーク・エッセー 8

ほんとに日本人ってやっぱり特殊だと思う、僕から見て。人種っていうか、概念の持ち方だよね、いかに盗もうかっていう。こうね、ほんとに分析して、どうしようもないと分析しきってしまった後に何かできると思うよ。やっぱりみんな怖いんだも。 その評論家も面白い曲作ったかもしれない、コード、リズムにしても一曲くらいわね。落ち込んで、日本人ていうのは猿真似が得意だと。猿のように真似が得意なんだと。これは我々の血なんだから、オリジナリティーとかを突き詰めるとかは無理があると、そういう諦めの所から評論家って出てるんじゃないか。だってとてもいやすいも。時代に合わせていい訳だから。
 でも気を付けた方がいいってあえて言うけど、間章は自分の場所を作ろうとしたの。それは自分の場所っていうのは時間が立てば独裁になるの。こっちを巻き込もうなんてしなかったんだから、それはそれでいいって言う言い方をしていた。やっぱり同じ地点に立った時には、やだけどポップスがあるのよ。これとの関わり合い。昔言ったけど、ビーフハートでありながら、僕の日常をあらわすのはマレーネ・ディートリッヒがある。あえてビリー・ホリデイとは言わずにディートリッヒの歌がある。それは僕にとってお母さんのような音楽なのね、ディートリッヒの歌っていうのは。そのお母さんと言ってしまえば日常性だよね。日常性とロックにとっての一番の異端児キャプテン・ビブハート。これが両立していなきゃダメなのよ。
 僕がなんでパーカッションやるかっていうのは、何となく伝わってきていると思うけど、聞くことと見ることが同時に起きていて欲しいんだよ。舞踏であろうと音楽であろうとそれをひとつのもので放ってないとダメだと言い切るからね僕は。その時点で、今度はすべてにおいて行徳があるわけ。ちっちゃい音や大きい音があるように、日常性があったり、ひょっとしたら暴かれていない非日常性があるのね。これは日常性に非日常性が含まれてないから必要な訳じゃない。こんど日常性が非日常性を含ませることができたらこれは一番凄いことなんだ。そこで俺はポップスをやってるんだ、あえてというか。間章の悪口を言うつもりはない。たぶん僕が一番若い年齢で彼と接してると思う。でもかれは関与してる気がなかった。
 加害者はね、私は加害者ですって言った時に加害者じゃないんだよ。
 僕は自分が被害者だって思ったら大間違いだと、みんな加害者だろうって言っても、加害者を弁護したらばどうしようもないじゃない。加害者になって既に罠にはまってしまったんだも。その罠というのは言ってしまうけど、いわゆるアナーキーとか、そういう言葉に幻惑されてしまったとかドラッグに入るとか。だからさらに露骨な話になるけど、ソクラテスは凄いんだって。自ら毒を飲んでしまったじゃない。飲まなければ実証できないって、俺はやらないよ、でもリスクってそういうものじゃない。毒なんだよ、ドラッグなんて毒みたいなものなんだよ。命なんて賭ける必要ないのよ、命を賭けて風に装えるのよ。それがアナーキーって言葉で終われるの。僕は間章の捉え方は、位置としてはそうだよ、今いる評論家なんて論外だよ。そういう意味では彼は唯一評論したかもしれない。ただ気を付けきゃいけないのは、人っていうのは何かに憧れるんだよ。僕にとっては憧れるっていうことは既に表現者じゃないから。
 アルトーは憧れじゃない。その後からの人っていうのはみんな憧れなんだも、全部とは言わないよ。憧れていた人はやらざるを得ないじゃない。ゴッホなんて実は絵なんて描きたくなかったかもしれない。でも描かざるを得なかった。そういう人があまりにもいない。だいたい僕はロック、ロックが好きっていうのは僕がお世話になったという意味でロックだけど、ロックの良さを、持ち得た力をずっと生きてるけど、ロックがあそこでダメだったのはドラッグってことだ。いま日本が60年代の状況に近づいているというかすごく似てるの。それでいいっていうか、それを一番究極的とかいうバカな奴等が多いから。またその次のことは凄いということを言ってしまって、自分がやらないで済むから。

灰野敬二 トーク・エッセー 9

 〈アナーキー〉って言葉じゃないから――。
 例えばロックという言い方をするならば、またこれしか出てこないけど、ジム・モリソンとジミヘンがいて、どう考えたってアイツら一番凄いのよ。ギターであれ以上のこと誰もやってなかったのよ。悪いけど、僕デレク・ベイリーはやっぱり凄いと思うの。ある意味においては、あの時ベイリーさんが何してたかっていう問題もあるけど。やっぱり位置っていうのは大切なのよ。これは誤解されるかもしれないけど、30人の前でやるパワーと1万人の前でやるパワーは違う。それは両方なきゃいけないのよ。それを用いたのはジミヘンだと思うの。別にジミヘンがすごく好きではないよ。位置としてね、位置は必要なの。一回は百万人の前に姿を現して位置が生まれる。自分の位置ではなくて、自分が全体から見られるべき位置、そこでいわゆるもう無記名性になり得るの。それはジミヘンじゃなくて、あるやったことが重要でジミヘンの必要ではない訳。ただ音楽の中でそういう事実があった訳だから。
 また間章に戻すけど、評論家としてはいなきゃいけない位置だ。でもそれが音楽全てに対しての包容を持ち得たかということにおいて、マニアックで終われちゃうの。それはよく吉沢(元治)さんがよく言ってたけど、我々こそが武道館でやらなきゃいけないって。音楽やってんだから、一生懸命に。なんで一生懸命にやってる人間が、客30人で、家賃どうしようとか考えなきゃいけないのかって。その部分がなくなったならばパワーが落ちていく。もちろん武道館で30人になるよ、現実には。でもその部分を一万人の人にわかってもらおうと思わなければパワー出てこないよね。
 だって僕はplan Bでパーカッションやって、確かに聞こえるっていうか、音のとどく範囲は上まであって、階上から苦情が来るとかね。壊したような音を出したら、「どうしたの!」って来るでしょう。あそこまでうるさくしてたらお巡りが来るよね。でも気持ちとしては宇宙に放ってる。僕にとっては音こそ空気にいったん触れれば、これはもう全部と触れたことになる訳だから、自分の意識の拡がりを持てればね。だからジャンルということにこだわることも怖いし、音楽が何だっていうことも規定する、設定することも怖いけど、それ以前に何か一つだけに留まることが一番怖い。間のやり方にしても、やはりある所をつついてるだけなんだよ。
 赤軍が一人も犠牲者を出さなければもっと凄いことができたの。俺はけして肯定なんかしないよ。内ゲバなんてのはダメな訳。ある人もよく言うけど、人ひとり説得できないで何ができるの? 納得してもらうことはすっごく大変なんだ。でもそれを希望として持たなければ、だって自分たちが世界革命って言ってることは世界の人間を幸せにしようと思ってる訳じゃない。それがたった一人の人間、それも仲間と思った人間と、もめることはいい、ただそれを力関係で刺殺するなんて言ったら誰も説得できないよ。
 ここで主語がなってないからいえるけど、革命なんて何にもないよ。革命っていうのは色んな言い方があるけど、現時点の人間の幸せなんか言い切ること願ってないも。それこそできたらば意識がタイトに戻れて、タイトに戻れるってことは未来に向かい合えるってことだから、そこで何が起きてるとか、何がマズクって悪くなっているのかを知りたいも。ホント冗談みたいだけど、人って対位置線にある人とは仲悪くなるんだよね。俺はね、やらないよ、この関係って手が届くじゃない、だから怖いから仲良くするんだよ。でもこの関係で手が届かないとなると本性が出る。何か言ったって良ければいいとか、痴漢があってかかってくるから対処できるか。この関係って何なの。人って……ミーティングしてる時俺は場所変えるから、こうしている時なんか悪かったんだけど、どうしてこうなったら(座席を移動して)良くなるとかね。ホントに情けないよね。
 なんでそういうふうに……やっぱり怖いのよ。怖いっていうのは究極的に死が怖いの。自分の痛みのわからないことは怖いの。僕は最近若いコとも話できるから思うけど、今のコって孤立することが凄く怖いみたい。だから内輪ぽっくても、嘘っぽくっても同じようにしていた方がいいんだ。でもそれを何とか個性と言いたい訳。僕たちが20年間くらいかけて考えて勉強したことって、二十歳くらいのコって感覚でわかることができるのよ。勉強なんかしなくっても。でも僕たちはどうして悪くなったのかとか、悪いのは何なんだろうって考えてるけど、その時代に彼らはいる訳だから、僕たちが遅れないようにしてなきゃいけない訳だ。さらに十年後のコたちなんてのは実際わかっちゃってるから。わかるってことはイイことと悪いことがわかるんだから、イイことをやりゃあいいのに、照れくさくなる。やっぱり、サティが秘密結社の究極的な姿は慈善団体だって言ってる。あれはね、僕は20年くらい前からひしひしと感じてるけど、そうだよなって思える。なんか始まって変な会議して、世の中が悪いとか言ってるより、みんなで集まって会議終わればいいんだよ。もちろん自分の作品とか作業はすべきだけどね。(終)