合田成男 雑話 7

幕の開かなかった永田町・自民党の政治劇については既に多種多様の意見が現れて、いい尽くされたようにも思うけれど、私は私なりに舞踊批評家として、からだの側からかなり無責任な発言を試みようと思う。からだには自他ともに未知の部分があって、だから発言という二者を結ぶ表現は致し方なく想像や空想、ときに幻想にさえ頼ることとなる。特にこの政治劇登場人物は普段の私から遠いだけに、垣間見たそのことだけが勝負となる。従って私が白といったことも黒といい返されるほどの不安定なものだ。無責任といわざるを得ない。
 からだの側からこの政治劇全体を見渡して、不思議な思いを禁じ得なかったことがある。それは登場人物の誰彼を問わず、からだの持ち主ではなかったことだ。劇を演ずる資格の有無を、まずは問われる程度の役者であったということだ。ここでのからだは、舞踏におけるからだほど厳密ではない。表現のための素材としてのからだと生命を宿した主体としてのからだを一体化する必然を前提とするような厳しいものではない。ごく普通のひとがときに見せる美しい物腰に匹敵する政治家の正しい物腰を身に着けているかどうか、この辺の資格の有無を判断する根拠としてもよいようだ。ところが物腰は日常の感性の積み上げから発するものだから、その政治家の政治の質を顕わすものと秘かに見盗ることができる。
 例えば、暫く前のことだが、英国のブレア首相が森首相を官邸に訪ねたとき、いつも通り、あいさつと握手、向き合う光景をテレビのニュース番組で見ていた。ブレア首相は少しからだを前に掛け、にこやかな表情で話しかけた。森首相は悠然と直立した姿勢で、かすかな微笑で応えた。当然、報道カメラ陣は一斉にシャッターを切った。途端に、まだ、ブレア首相が上体を森首相の方に寄せているにも拘わらず、森首相は顔をカメラマンの方に向け、にこっと笑った。からだは半身、開いてである。その反応はVサインをレンズの前に突き出す小学生低学年と同じだな、と私は呆れ果てた。ブレア首相は手を握られたまま、なにか気恥ずかし気に表情を納めるべく、後ろ向きに顔を伏せようとした。そして森首相に促されて正面を向き、にこやかな表情でその場を繕ったように見えた。軽佻にして愚鈍な行為だけで、英国の首相を迎える儀礼の感性は皆無だった 。
 普通の人がごく自然に振るまって事を成し得る日常的行事からさえ外れてしまう彼のからだとはどういうものか。逆に興味をそそられる。彼の生涯について私は無知無関心である。しかし、密室の謀議で誕生した森首相という存在には、その特異な作られ方に不審を持つという程度の関心を持った。当然、野中幹事長ほかの黒幕たちによって認知の手立てがなされ、森首相は公認された。公認された途端、風呂上がりのようなすがすがしい顔で放言、失言を繰り出し始めた。野中幹事長の表情が次第に硬ばったものとなったのは放言失言のせいではなく、それとともに現れて来た自民党支持率の低下という結果である。二五パーセントに落ちて、突如、加藤元幹事長がこのままでは自民党が駄目になる、日本が危なくなる、党改革を決起する。戦術は野党の不信任案に乗ることだけ。野中の恫喝が響き渡る。「除名」「禁じ手」といった厳しい言葉が飛び交い、また不信任案が否決されても森首相の地位は必ずしも保証されたものではない、という意味の発言が事もあろうに野中から出て、これを森首相の早期退陣の言質として受け取った加藤が決起の姿勢を後退させた、とうことらしい。しかし発言は取り消されたものの、加藤は態勢を立て直すことができず、涙を飲んだ。
 政治劇としては印象深い景があった。野中が先の発言を述べる係りで見せた姿勢である。両肘を椅子の腰掛けに置き、顔をカメラに正対させることなく、むしろ、伏目で顔も伏せて終始した喋りである。もっとも、ある番組のためのビデオの再放送なので時間の程は分らない。語調も普段の厳しさと打って変わって、籠り気味であった。元々、策士めいた昏さを持った人だが、妙にその昏さが形(姿勢)になって顕れており、観る者にいろいろな憶測をさせる力も備えていた。例えば、森首相の去就が混乱するような事態が起これば、劇の焦点が加藤の決起から密室の謀議に移って、その不当性を追求される危険がある、そのような杞憂とか、もっと単純に謀議が勇み足であったという個人的な悔恨とか、ともかく自らのからだのなかを覗き込んでいる姿勢である。ただ、気概を込めて永田町に居着いてしまったので強面になってしまった。役所を自ら狭めてしまったようだ。二五パーセントという数字を決起の根拠とした加藤は、一方で、あの人(野中)より(修羅場をくぐった)経験は多い、とも(報道陣に)答えていた。数字は正確だ。しかしその正確さは結果においてである。その結果は刻々に変わる。なぜなら人のからだはいつも揺れているからである。一歩、歩けば景色はもちろん、気分も、運命も変わるのだ。だのに加藤は第二幕、第三幕までも用意しているといっていた。手痛いキズを負わされた手負いの狼軍団にまず成らねばなるまい。そして、狼籍の限りを尽くす。そのような台本に書き直してみれば。数字は霧散し、そしていつか揺れる数字を確保できるかもしれない。
 森首相については、朝日新聞に載った料亭通いの報道に驚き、感歎し、飽きれ果てた。一ヶ月に二十八晩(?)赤坂近辺の高級料亭やホテルで会食をしているという。料亭政治は止めようという呼び掛けが何年か前にあったと記憶する。また一警察の一部下の会食もチェックされる最近だ。そんなことがチラチラと横切るけれど、そのようなことは誰かに委ねられよう。私が驚き、ときに感歎し、飽きれ果てるのは、特種な場所で、選ばれた人、山海の珍味、美味に囲われて、それをリラックスのための日常的な手段(周辺)とすることによるからだの、変質、庶民との乖離といった政治家としての衰弱がやがて来るような気がすることだ。美味も毎晩、重ねれば美味と感じなくなるのではないか。
 まったく嫌な原稿になってしまった。ああ!