村上裕徳 日本現代舞踊の起源5

貞奴の御乱交には実のところ理由があった。気位の高いワガママはもとよりだが、少々捨鉢気味に見えるのには、ある経緯(いきさつ)が有ったのだ。
 貞奴がまだ半玉の頃、成田詣での帰途、野犬の群れに襲われ、騎乗した馬から振落とされそうになった事があった。それを救ってくれたのが慶應義塾の学生・岩崎桃介(ももすけ)であった。この桃介に貞奴は商売ぬきでゾッコンになってしまう。ところがこの桃介、貞奴を憎からず思っていた事は確かだが、遊びはともあれ芸者を女房にしようという気はさらさらない。
 埼玉県荒子村で農業と荒物商を営む家に明治元年生まれた桃介は、将来、大実業家になることを夢見ていた。頭脳明晰・容姿端麗・加うるに実用を重んじ、他の塾生を違って常に洋服を着用していた桃介は、当時の最も進歩的で合理的な学生であった。これは師である福沢諭吉の影響もあるのだが、ある面、非情で功利的あることを意味する。桃介の考えからすれば当然に、妻帯するにあたっても、自身の将来的地位をオトシメぬ然るべき処から‥‥という思いがあった。博文をはじめとする明治の元勲(げんくん)の多くのように、芸者を女房にする時代ではないと考えていた。幸いというべきか、桃介の策謀も有ったのだか、塾長の諭吉の娘ふさ子が桃介に夢中になった。そして暫くジラした後で桃介は、当然のように養子縁組をし、結婚を前提として諭吉を後盾にアメリカ留学をしてしまう。
 渡米した桃介は福沢家の財産を浪費して、女性関係も華やかに遊蕩三昧(ゆうとうざんまい)。その噂も諭吉の耳に入るが、御乱交を隠そうとしない婿養子の度胸に、かえって新時代人の頼もしさを感じたのが実情のようだ。門閥(もんばつ)を持たないがための功利的な理由で福沢桃介になったにしても、その功利主義は諭吉直伝のものであった。一般の父親のように娘への溺愛から状況判断を誤る諭吉ではなかった。また桃介も、遊びは派手であったが福沢家の体面を損なうような男ではなく、万事落度(そつ)無く熟(こな)した。帰国後は諭吉の紹介で北海道炭礦鉄道会社に就職。結婚したふさ子を伴って札幌に就任。その後の桃介は結核などによる人生の浮沈さまざまあれど、さすがに諭吉が見込んだ男だけあって、自力で結核すらも克服。知力と胆力をモトデに明治の戦勝景気の波に乗り、日本屈指の相場師に成り上がる。王子製紙の重役をはじめ数々の要職についたが、特に電力界の雄として斯界(しかい)に君臨する大実業家になった。ついでながら、その膨大な事業のホンの一端が帝国劇場の経営であり、帝劇会長であった事もあった。
 話をもとに戻そう。桃介に袖にされた貞奴は役者狂いも激しくなるばかり。パトロンの博文にしても、貞奴が〈浮気〉の間は大目に見ても居られるのだが、桃介の場合は〈本気〉であり、しかも貞奴が蔑(ないがし)ろにされたこともあっては、後盾としての沽券(こけん)にかかわる事であった。しかも相手は社会的地位もない二十(はたち)にも満たない学生であり、断りの理由が、芸者を妻には出来ぬ──とあっては、芸者を妻にしている博文にとって面白くある筈もなかった。  また私見ではあるが、明治十四年の国会開設に関する政変以降には博文と袂(たもと)を分かった大隈重信一派の参謀と目されたために、博文が政府新聞を、当初予定だった諭吉に任せなかった事情から考えても、桃介に対する博文の思いには、義父である諭吉の裏切りに対する反感も二重になっていたと考えられる。また、かなり込み入った話だが、この政変時に博文一派であった福地桜痴が自由民権派に担ぎ上げられて、民権派の旗手にされてされてしまい、中途で人気絶頂にもかかわらず博文の意向から慌てて矛(ほこ)を納め、もとより反意は無かったために博文の同調者(シンパ)に舞戻る経緯があるのだが、この桜痴の諭吉に対するライバル意識が、少なからず貞奴の一件に関しても影響を与えていると私には考えられる。  貞奴が音二郎と出会ったのは『明治を駆けぬけた女たち』(中村彰彦編著)によれば、失恋の痛手から芝居通いが始まり、貞奴が音二郎を見染めた事になっている。また杉本苑子の小説『マダム貞奴』では、大川で水泳中に溺れかかった貞奴を音二郎が救い出す、きわめて魅力的なトップシーンから幕を開ける。しかし杉本苑子・渡辺淳一対談によれば、この場面は創作であるという。つまり『旅芸人始末書』をはじめ類書にあたっても、二人の初対面が何時何処(いつどこ)であったか記されていないのである。

 ところで、ここからは私の推論だが、二人を結びつけたのは福地桜痴ではないかという説である。桜痴は初代奴の贔屓(ひいき)はもとより、没後に『花柳史上の桜痴居士』という本が出版されるほどの男である。当然、貞奴が芸者時代にも面識があったと考えられる。しかも音二郎は壮士芝居以前の政談演説の弁士時代(明治十六年)には、桜痴などが結成した帝政党の一員だった。帝政党は翌年に解散し、音二郎は自由党に入党し自由童子を名乗るのだが、それからが二転三転。明治二十三年に一座を率いて東京での初公演。人気急上昇で、〈俳優志願者続出に川上音二郎参る〉──という記事が『東京日日新聞』に出たのは二十四年八月。この新聞社は二十一年まで桜痴が社長だから、まんざら無縁とも言えまい。

 私の憶測によれば、貞奴を中に挟んだ桃介と音二郎の一件は、政党以来対立する伊藤を大隈、幕末以来ライバル関係にある福地と福沢の、プライドを懸けた代理戦争であったと思われる。文久元年(一八六一年)遣欧使節で同行以来、福地源一郎(桜痴)と福沢諭吉の二人は翻記官や通訳官として、明治五年頃までに洋行三四回の日本屈指の西洋通であった。その先鞭は万延元年(一八六○年)の威臨丸で渡米の諭吉が一年はやいが、回数なら桜痴が勝る。共に幕臣であり、階級としては七歳下の桜痴の方が上であった。明治十一年に桜痴東京府会議長時代、副議長を辞退したのは諭吉である。しかも諭吉の自伝や著作には、接触の多かったはずの桜痴の名が、タダの一度も登場しない。明らかに眼の上のコブであったのだ。洋行以来の芝居通であった桜痴が演劇改良会を起こすのが明治十九年。諭吉年譜には二十年の項目に、〈新富座で初の芝居見物〉──とあるのは、ただの偶然とは思えない。明治二十二年桜痴は歌舞伎座創設。対するに諭吉の養子桃介は、後年帝劇会長に納まっている。桜痴・諭吉ともに没後であるが、欧化主義者で脱亜論者の諭吉の面目を、実業家の養子である桃介は、こうした形で果たしたのである。