村上裕徳 日本現代舞踊の起源13

 「あの人は性来非常に陽気な質です。非常に嘘つきで恰度狐を馬に乗せたような人、いまここで嘘を言ったかと思うと又向うで嘘を言うという調子でした。だがあの人は女にかけては一種の魔力とでも言うのですか、それは色男ですよ」──明治四四年十一月十一日『東京日日新聞』掲載の烏森《浜の家》女将の談話による音二郎評である。また劇評家の水谷幻花は、「ヤニを嘗(な)めた青大将の様な顔はしているが、川上もあれで一寸色男」(『演劇風雲録』大正十一年刊)──と評している。
 ところで音二郎は、写真を見てもいわゆる美男子というタイプではない。いつもどこか笑っているような顔は、相手をなごませる愛嬌を感じさせるが、アメリカで日本のプリンスではないかと誤解されたという桃介の俗事から超然としたような気品のある容貌と比べると、メンクイの女性連からは何故に貞奴が夢中になったのかと疑問になって来るであろう。ただし、美男子というなら桃介に限らず貞奴の贔屓(ひいき)客であった歌舞伎役者なども該当するに違いなく、幻花や浜の家女将の言う「色男」ぶりは、それとは別の魅力となって来る。
 ところで一般的な音二郎の評価は現在でも、場当たり的なケレン味と即興の妙味だけの、主に《オッペケペ》だけが当たった、山師でホラ吹きの人物のように考えられて来た。倉田喜弘の『明治大正の民衆娯楽』をのぞいては、本当は時代風潮を先どりし、そうした状況を作りあげたのが音二郎であるにもかかわらず、時代に便乗し歴史に残ったダケのように記述されることが多い。まるで雑芸人のような評価も少なくない。音二郎から十年前後を経て始まる坪内の歌舞伎改革や小山内の新劇運動に比べて、理論的な裏付けが明確でないために、アカデミズムの世界では先駆者として《仕方無く》名を記しても、芸術的評価としては無内容の娯楽、あるいは肯定的見解でも社会風刺の芸能として《処理》される場合がほとんどである。しかし山師もホラ吹きも同時代に数々居ながら、理論より先に行動に移し時代を先どりし、蜘蛛の子を散らすように拡がっていく明治を舞台にした現代劇としての大衆劇を、運動として拡大させる駆動力であり起爆剤であり続けたのは、毀誉褒貶(きよほうへん)ありながらも、やはり音二郎だった。また《オッペケペ》で芸者や権妻(ごんさい)(妾)などの観客を揶揄(やゆ)しながら、そのカラカイの相手からも愛されるような愛嬌のある魅力を、多くの芸人達は持たなかった。それのみならず演劇界を変革するために、劇場そのものから変え、環境を変える事で観客の意識のありようを変え、そこでやっと新たな演劇を作る事が可能になると考えていたのは、当時の日本に数人にすぎない。しかもそれを、最も早く実践したのは音二郎であった。チョンマゲでない断髪の劇を、一般大衆が違和感なく観る基盤を全国に波及させ、音二郎自身にも本邦初演が数あるが、西洋演劇の一般普及に貢献した、言わば音二郎は、そのパイオニアであった。むろん時代状況による限界もあり、時期尚早であったり経済力の面で失敗もあったが、そこを持ちまえのタダでは転ばぬ向上心と、失敗をも次へのステップとする楽天的な陽気さで、音二郎は明治の演劇界をリードしていく。この現状に甘んじないで利害を離れて現実変革を成そうとする新精神は、周囲からホラ吹きや山師と叩かれもしたが、確実に同時代の誰も考ええないような、他の人が持っていない音二郎の魅力であった。また、その大風呂敷のホラも、弁舌さわやかで軽快かつユーモラスな音二郎の話術にかかると、妙に現実的な迫真力を帯びて来る。そうした意味で、金子堅太郎が言うように、まさしく音二郎は「快男児」であった。それらの魅力に、貞奴はコロリと参ったのであろう。
 二人が正式に結婚するのは明治二八年だが、これから貞奴は音二郎の所に通いつめ、芸者勤めを続けながら、一座ぐるみの面倒をみて、晴れて音二郎と結ばれる日を心待ちにする。いっぽう人気者になった音二郎は、堅物と思いきや、後年(明治四三年三月『俳優鑑』)のアンケートに「娯楽──芸者買い」と返答するように、日本橋の小かね、新橋のとん子や清香など、現代で言うとアイドルであった花柳界の名妓と浮名を流し、そのゴシップは新聞を賑す事しきり。貞奴も気がかりであったろうが、藤沢浅二郎(音二郎の片腕)の回想によれば、「奴は世間の嘲笑の的となり、座敷へ出ても冷やかされる。可愛い男を一人前に仕上げなければ私の一分(いちぶ)が立たないと力んで」、浮気については眼をつぶり、音二郎の男気を見込んで身代一切つぎこみ、この何に成るかわからぬ男の野心達成のために、縁の下の力持ちとなって協力する事になる。
この頃の貞奴は、後に自分が女優になろうとなどとは露ほども考えていない。