平井玄 フリーター階級をめぐって 3

まあそういう「フリーター階級」的状況というのは、それをもちろん労働現場から見ればいいように使われて、いいように使い捨てられるという状態な訳ですから、旧来の労働運動的な在り方で批判していくという事は非常に重要なんですけど、それだけじやなくて逆にそこから別の可能性を作り出していくという事を考えようというのが、フリーター階級とかポストモダン・プロレタリアという言い方の中に込められた合意なんですね。少なくともそれは、企業奴隷的な生き方やエディプス的な家族からの自由でしょう。
 そうするとやっぱり階級って言葉が皆さんにとっては非常にわかりにくい、今どき何で階級なんだっていう、当然ながらそういう疑問がいっぱい出てくると思うんです。最近あちこちに書いてる人で金子勝さんっていう経済学者がいます。この人は東大時代は日本共産党にかなり近かった人ですけども、今どちらかっていうとヨーロッパの社会民主主義的な方向で日本の経済システムをもっと市民的な、民主的な社会の基礎になるような形に変革すべきだと主張している。それでそれなりの説得力と影響力を持ち始めている人です。彼が『市場』という本を去年書きまして、その中で階級否定論を非常に説得的に展開してるんですね。彼が言ってるのは、階級っていうのは単に所得が多い少ないとか、それから所有、つまり生産手段、企業を持ってたり機械を持ってたりして、自ら物を生産する手段を持ってる持ってないとか、そういう事だけでは階級としての意識っていうのは生まれない。実はむしろ宗教的なコミュニティーとか、それからエスニックな少数民族のコミュニティーとかそういうものを前提として初めて生まれるんだというわけです。つまり「労働者階級」というのは、宗教的、民族的なマイノリティの擬態だった。だから今やもう階級って言い方では、資本主義を越える主体はつくりだせないという事を、かなりはっきり書いてるんですよね。でそれはそれなりに説得力があると思います。確かに今日本では沖縄の人達とかアイヌ系の人達とか、あるいは在日朝鮮人の人達を除いては、その種のコミュニティーつていうのは徹底的に解体され尽くしてますから、労働者階級っていう集団性によって次の社会をつくりだす為の人間関係の母体とするというような発想は取りにくいと思います。しかし例えば在日朝鮮人の社会でも階級分化、金持ちとそうでない人との差は非常に大きくなってますし、アイヌ系の人達の中でも、あるいは沖縄の人達の中でも実際にそうなっています。それを考えると確かに金子さんが言うように、共同体的な階級形成っていうのは難しいかもしれませんけれども、逆に言うとバラバラにされた分刻みの個人と言いますかね、もう十九世紀以来の旧来の人間概念では捉えられないような、僕ら自身の生き方の中からもっと身軽で遊動的な、動きが早くて今までの家族とか企業とか学校とか、そういう単位にとらわれないような新しい運動の在り方とか、階級の形成のされ方が在り得るんじやないかと。まあそれをノマド的な階級形成というふうに僕は考えてるんですけれども、そういう事も可能なんじゃないかというふうに最近は思い始めています。いわばそういう合意を含めて、そういう希望的な意味を込めてフリーター階級っていうような事を、とりあえず今投げかけてるというところなんです。
 もう一点、今やグローパリゼーションっていう形でアメリカ的な資本主義の在り方が全世界を覆い尽くそうとしているんですが、例えば仕事で大学間係の出版物を作る仕事に多少関係しているんですけれども、それを読むととにかくIT革命、国際化、英語力、コンピュータの技術を覚えなきゃなんない、というような事ばっかりです。学生数が減り出してますし、あと数年経つと受験人口が百万人を割る。統廃合の嵐の中で大学が生き残っていく為には異常なまでにそういう方面の学部を新設・拡充して、大学に入ったらID番号を与えてブック型コンピュータを貸し出すという状態になってる訳です。大学は少数の大学院大学と一定の中間管理職大学、そして大多数のフリーター大学に三分される。もちろんまだ過半数は高卒なわけで、こういう分化しつつある場所で『ゴーマニズム宣言』は読まれている。そういう中で金子さんや日本でまだそういう資本主義でいいのかというような事を考えている人達は、ヨーロッパ的なゆるやかな形で、それ程の貧富の差も差別もない社会をつくりだそうというような考えを取るようになってるんですね。実際ヨーロッパの多くの国がいわゆる社会民主主義の政権になってます。ネオナチや自由主義史観派を抑止するためには、そういう方向しかないということで、日本でも今まで労働運動や左翼運動をやってた人達は大きくそういう方向になびいている訳ですけど、これは事態の始めにまで戻って考えてみなくてはならない。
 実は一九一八年にマックス・ウェーバーという人が、オーストリア軍の将校団を相
手にした演説をしているんです。これは一九一八年の六月にウェーバーが、職業軍人のエリート達を前にして、第一次大戦後ロシア革命が起こってドイツでも革命が起こるかもしれないというような、非常に逼迫した情勢の中で社会主義批判をやったもの。『社会主義』という演説はそういう内容なんです。彼は、社会主義者達の決定的な誤りは、資本主義であろうと社会主義であろうとサラリーマン層が増大していかざるをえないことが見えていないことだと言うわけです。これだけ複雑な技術と複雑な社会システムになれば、現場で物を作り出す労働者だけではなくて、むしろそれを管理していくサラリーマン層、ホワイトカラー層が拡大するだろうと。そういう人達と労働者の接点がだんだん曖昧になっていって、その社会の全体にいかにして生産を回復し支配と被支配の関係を緩やかにしていくか、その事の方がずっと問題なんだ。従って社会主義は失敗するし、その革命は阻止されなければならないっていう事をオーストリアの将校団を相手に話をするというような筋書きです。まあそこからマックス・ウェーバーは『支配の社会学』というその歴史的な形態を分析するという方向に向かうんですけれども、今ヨーロッパの社会民主主義運動がたどりついたところっていうのは、いわばウェーバーの位置に非常に近いんですね。ウェーバーはこういう時代を予言してたと思っているかもしれない。しかしウェーバーのおもしろさっていうのは、その中に一言限定を付してることなんですね。それはどういう言い方かというと、社会の管理・調整システムが大きくならざるを得ない、そういう人間集団は必要だ、その際、社会主義者達の理想の実現は「現代技術の性質上それは不可能な事である」という言い方をしているんですね。「現代技術の性質上」という留保の言葉を使っているんですね。
 一九一八年っていうのはもちろんコンピュータありませんし、パンチカード方式の会計計算機みたいなのが開発されてきた時代なんですね。つまりカフカみたいな小説家が訳のわからない官僚的な人間やシステムをああいう寓意的な小説に書いた項ですけれども。そういう時代、そういう技術をベースにした官僚システムが肥大してた時代なんですね。しかし二〇世紀の終わりに起こってる事はどういう事かっていうと、例えばドットコム企業とか、いろんな言い方をされてますけども、いわば現代の技術によってそういう中間的な管理システムがだんだん縮小されてきているような生産と労働の環境じゃないのか。つまり一握りの企業家、アントレプレナーみたいな、つまりマイクロソフトの社長みたいな奴ですね、そういう人間と、あとは膨大な数のオペレーターたち。ただひたすら眼精疲労ばかりが重なるようなオペレーター達と一握りのアントレプレナー、それが直結しているような、例えばアマゾン・ドットコムみたいな企業ありますけれど、そういう社会にだんだんなりつつありますね。アメリカナイズされたグローバリゼーションっていうのはまさにそういう世界を目指している訳で、そうなってくるとマックス・ウェーバーの予言は確かに当たったかもしれないけれど、現代技術の制約上っていうその現代技術が変容をしている。つまりウェーバーの予言は的中したが故に外れている。逆に言うとまさに新しいタイプのプロレタリア、新しいタイプの階級がそこに勃興してきて、彼らの技術と創意とですねぇ、自分自身の意思と活動によって物を作り出したり、新しい人間関係をつくりだす、言ってみれば社会の基盤を新しくつくり直すっていう事が可能になるような事がこれから先展望できるかもしれないという状態にあるんじゃないかなと思います。実際、僕らはコンピュータという生産手段・流通手段を持っている。ウェーバーはもちろんそんな事は全然意識して言ってる訳じやないですけれども、その限定を付したという二言にやっぱりウェーバーの非凡さがある。逆に読む事が可能な文章、講演を彼はしてるんですね。
 まあそういう意味を込めて、もちろんこういう事はなんら今現在の段階で運動になって出てきてる訳でも何でもないんですが、例えば去年の一二月、ちょうど一年位前にシアトルで、そういうグローバリゼーションを推し進めようとするような政府や企業の代表者達が集まる会議を、いろんな人達が集まって決議不能に陥れてしまうというような運動が一つあった訳ですね。もう一つ、それからもっと数年前にメキシコのサパティスタという先住民の人達を中心にした運動が生きるための闘いを起こしていく訳ですけれど。サパティスタの人達の運動も、以前の例えば先住民の権利回復運動、もっと昔の言い方だと第三世界的な民族解放運動というふうに捉えるよりも、むしろグローパリゼーション下で起こったポストモダン・プロレタリアの運動というふうに捉えた方がずっと見通しが良くて彼らがそう意識してそういう言葉を使ってるかどうかに関わらず、先が見えやすいような捉え方ができるんじやないかっていう気がしています。まあこういう例にはたぶん事欠かないと思うんですけども。そういうような希望的な観測と自分の生き方、その労働現場を見つめる中で出てきた予見って言いますかね、自分にとって今体を動かしていく大きなモチーフとしてフリーター階級とかポストモダン・プロレタリアートという言葉を語りたいという気持ちが非常に強いですね。
◎平井玄 新刊「暴力と音」──その政治的思考へ
二つの暴力論を語り、「事件」としての音楽を聴き取り新しい「階級」を構想する。
人文書院 075-603-1344