村上裕徳 日本現代舞踊の起源2

ここに一冊の書物がある。外題(げだい)を角書き(つのがき)に『異国遍路』と田の字型に四文字刻んで、本題を『旅藝人始末書』と記されている。著者は別府亀の井ホテルの経営者で宮岡謙二という人である。当初『異国遍歴死面列伝』として昭和二十九年に私家版が少部数刊行され、昭和三十四年に修道社より公刊されたこの本は、幕末から大正末年に至る、有名無名を問わない旅芸人を中心とした日本人の海外渡航列伝である。後に中公文庫に収められ、現代では手軽に読むことが可能になった。好事家の書物にありがちな資料の杜撰(ずさん)さや偏屈さは見られず、アカデミズムがとうてい及ばぬ造詣の深さと、現在では誰も書けなくなった軽妙にして洒楽(しゃらく)な戯作文に裏打ちされた、痛快きわまりない日本人列伝である。海外渡航に関する三千巻にものぼる書物からの知識の集積であるが、それだけに終らず痛切な庶民論や日本と東洋・西洋の関係を深く考察した卓抜な日本人論にも成っている。この手の本としてはおそらく空前絶後のもので、私には神か悪魔でもなければこれほどの本は著せないとすら思われる編年記である。登場する曲芸団つまり現在のサーカスの芸人達、手妻使いつまり手品師、相撲取りなどのスポーツマン、主として邦楽を中心とする音楽家達、講談・浪花節語りなどの寄席芸人、大道芸などを含めた雑芸人、そして万国博などのコンパニオンとして派遣されるの多かった芸者達……。
 場合によっては、それらが渾然一体となって海を渡っているのだ。そのサワリを少し引用すると、<慶応二年の秋、西へ向けて日本を出たもの、すなわち異国を遍路する旅芸人の先頭を切ったのは、アメリカのベンコツに年千両、二年の拘束で買われた独楽(こま)廻し、軽業師、手品師などの男女十四名である。そのなかに、「曲独楽」の十三代松井源水と女房、娘、「自動人形」の隅田川浪五郎、女房の小まん、浪七、「浮かれ蝶」の手品をやる柳川蝶十郎(本名は青木治三郎、初代一蝶斎の弟で二十歳)蝶吉のほか、山本亀吉、同小滝、太郎吉、矢奈川嘉七の名が拾える。八っつと七つの少年もまじる。その道中双六(すごろく)の上りは、もちろんパリの万国博だ。ところが、おもしろいことには、この旅芸人の一行は、幕府がはじめてイギリスに送った留学生十四名──中村敬輔、外山正一、菊地大麓、林薫たち──と、おなじ人数が、しかもおなじ船で、でかけている。あとでは、わすれはてられる旅芸人と、明治文化史に大きくクローズ・アップされる留学生が、下等上等船室の区別こそあれ、たまたま乗合船でいっしょにゆられながら、ヨーロッパに渡っている。これは、まことに奇縁である。《中略》 松井源水は、まずお手のものの「曲独楽」をあれこれと十一種も用意してきている。ヒモとともに目方が七貫二百匁もあるという三尺五寸の大コマを、かるがるとまわす。フィナーレには、そのコマが、まんなかから二つにわれて、娘のおつねがキモノ姿でキョトンととびだす。隅田川浪五郎の連中は、唐子、三番叟などのカラクリ人形を十ばかり、器用にうごかして東洋のエキゾチズムをただよわす。手品の蝶十郎は「バタフライ・トリック」でつくりものの蝶を自由自在に、空中であやつったあげく、最後にほんものの蝶を舞わす。「天地八声蒸籠」では、底抜けの箱から、いろんなもの、とくに、西洋人にはめずらしいウルシ塗りの椀や、タケ細工のかごなどを、それからそれへととりだす。見物はでて来る不思議さより、でてきたものに骨董としての価値をたたえ、目をみひらく、といった具合である。」
 ──少し解説を加えるならば、柳川蝶十郎の「浮かれ蝶」の「バタフライ・トリック」というのは、最近は誰もやらなくなったものだが、私の幼時の記憶によれば、舞台上で薄紙を指先で千切り取るか紙切り細工で瞬時に蝶をしつらえ、扇子の風でまさに本物のように飛ばせるという、かなりポピュラーな伝統芸である。佳境に至ると扇子ふたつで五六匹の蝶を舞わせていたと思うが、明治期にはもっと凄い名人が居た事だろう。ラストには紙細工が本物の蝶になって消え去るというトリックがあった筈だ。風に舞う紙が蝶に変わるというとオカルトじみてくるが、あるいは途中で本物の蝶にすりかえるか、冬眠させた凍蝶(いてちょう)を使って、風で舞わせた後で眠りを覚醒させたのかも知れない。いずれにせよ、見事な技芸であった。  話をもとに戻すと、幕末以来多くの日本人が海を渡った。大半は西洋文明移入のための政府高官や役人あるいは留学生であったが、その中でも特異なものに旅芸人がおり、大正末期までの六十年間には膨大な人数となる。その多くは目的地で好評のばあい当初の計画より長旅となり、渡航先での滞在数年のものも少なくない。ほとんどが無名の人々だが、その中で後世に名を残すほどのスパースターが天勝と貞奴であった。天勝については章を改めて記すので、まずは貞奴である。