村上裕徳 日本現代舞踊の起源14

音二郎たちが開始した演劇は《書生芝居》《壮士芝居》と呼ばれながら、新演劇の基盤となるメソッドがいまだ無いまま、歌舞伎を批判しながら、その見よう見まねから素人が自己流で始めたものであった。そのため、リアルな立廻りや現代物には手本が無いだけにかえって新味がありながら、発声・セリフ廻し・義太夫・囃などなど、すべて旧劇である歌舞伎を踏襲せざるをえなかった。つまり新しもの好きの一般観客からは好評であったが、伝統芸としては技術がともなわず、拙い(つたな)模倣である部分が目立ち、伝統的技術を重んじる劇評家・歌舞伎愛好家からの評価は、かなり手きびしいものだった。明治二六年から舞台評を始めた当時二一才岡鬼太郎(おにたろう)(註1)は、後年の三六年に、川上一座に喝采する手合いは「酸豆腐通(すどうふつう)」と評し、演劇として歯牙にもかけなかったが、鬼太郎と同じく明治五年生まれの岡本綺堂(きどう)(註2)はやや好意的な評価をよせている。
 『明治劇談ランプの下にて』(昭和十年刊)の中で、明治二四年の依田学海作『拾遺後日連枝楠(しゅいごじつのれんじのくすのくき)』を綺堂は、「大勢のなかには顔のこしらえのまずい者や、烏帽子の着用のつん曲がった者や、正面を切って台詞の言えない者や、男か女かわからない者や、種々さまざまな欠点が見出だされないではなかったが、(中略)壮士と名の付いている俳優たちがいわゆるチョボ(浄瑠璃)に乗って芝居をする──それがさのみおかしいとも思われないばかりか、弁の内侍の千代野との別れなどは、チョボを十分に使って一部の観客を泣かせたのである。わたしもさすがに偉いと思った。」──と評している。ただ、この綺堂も二五年公演の熊本神風連騒動を題材とした『ダンナハイケナイワタシハテキズ』には難色を示し、「狂言といい演技といい、俗受け専門、場当たり専門、実にお話しにもならないもので、わたしは苦々しいものを通り越して腹立たしくなった。」──と回想している。当時二十才の綺堂は観劇の翌日、東京日々新聞に出社するとすぐさま劇評にとりかかり、題もわざと『市村座激評』として川上攻撃をしたらしい。温厚な劇評家であった綺堂にしてからサヨウであったから、他の批評家はおおむね否定的であった。ただし綺堂も、「年の若いわたしは、それは却(かえ)って彼等の逆宣伝になることに気がつかなかった」──と回想するように、悪評もかえって大衆心理をアオるあたりが面白い。そんなにヒドい芝居なら、ひとつ話のタネに観ておこうというわけである。
 誹謗(ひぼう)・中傷もはげしく、二四年九月一日の新聞『日本』は、壮士は「天下の一大至毒物」であるとして、座員十七人の経歴をあげ人身攻撃をしかける。座員の動揺もあったが、この時期音二郎は反撃に出ず、ひたすら公演活動に邁進し、じっと耐え抜いた。演劇界に味方は少なかったが、五十八才の演劇改良論者依田学海や『歌舞伎新報』編集者で黙阿弥門下(註3)の久保田彦作も支持者になってくれた。また川上ビイキの弁護士・森肇(後の帝劇女優森律子の父)が、「殺身為仁」の四文字とドクロの絵入りの引幕を送ってくれた事も心の支えとなった。そして二四年の『佐賀暴動記』土方宮内大臣・後藤逓信大臣・有栖川宮の観覧を経て、二五年に金子堅太郎の案内で東京慈恵病院に皇后を観客に迎え『平野次郎』を上演し、《皇后宮台覧》によって、川上演劇の観客を低劣視する批評を一挙に封じこめる。つまり劇評に、音二郎の芝居を批判は出来ても、その観客を「低劣視」した書き方が、まかりまちがえば皇室に対して《不敬》にあたるため、矛先をゆるめねばならなくなったのである。
 倉田喜弘は「明治大衆の民衆娯楽」のなかで、一八八○年を中心に前後十年に明治天皇の地方巡幸がしばしばあり、一八九○年前後数年に芸能の天覧が続出する意図を、次のように分析している。
 かねがね政府は、芸人社会から卑猥性を追放するために躍起となってきた。それにもまして、体制批判や皇室の冒涜に眼を光らせてきた。しかし、どれほど取締りを強化しても、根絶することができない。そこで一転して、天覧という懐柔策を用いたのではないだろうか。
 地方巡幸の場合、各地の有力者に金銀を与え、その徳行(とっこう)を賞揚した。それと同様、芸能各種目のリーダーを選んで、天皇が親しく彼らの芸を謁見する。芸人たちは狂懼(きょうし)感激して一身の光栄にむせび、簡単に体制のわく組みに組み込まれる。しかも芸人たちは、観客の前で天覧をひけらかすから、民衆教化の役にも立つであろう。そうした図式が、天皇制国家の形成期に用意されたと考えられる。
 相撲や歌舞伎や、倉田がこの分析をしている手品の松旭斎天一(しょうきょくさいてんいち)などの天覧がその例だが、皇族による観覧もそれに準じたものであったろう。いわば貴賎の相互補完を権力構造としてより強化する志向だが、音二郎の場合、確かに、その構造にダキ込まれもされながら、シタタカに自分の戦略に利用しているのである。
 伊藤博文の片腕であった金子の明治国民を啓蒙する意図にそいながら、音二郎の立場は彼等と異なり、その啓蒙性も上からの視点と言うより、芸能という芸能当事者からも観客からも文化価値として自覚も認識されていない底辺から意識を覚醒させようとするものであった。つまり娯楽として消費されるのではなく、自覚的表現に向上させ、それによって芸能としての演劇文化マルガカエに音二郎という《芝居者》も社会的に浮上しようとしたのである。そのためには音二郎が海外を、まず自分の眼で観て来る事が必要とされた。
 

註1──劇作家・劇評家。岡鹿之助(洋画家)の父。本人はいたって親切で面倒見のよい好人物であったが、その劇評は名前どおり《鬼》のように辛辣をきわめた。歌舞伎の名題役者(なだいやくしゃ=看板スター)に対しても、針の筵(むしろ)に座らせるような、生きた心地もない批評で恐れられ、「まずまずの出来」──と評価(傍点)されようものなら、鬼の首を取ったような《大金星》であったらしい。明治後期から昭和十年代までの歌舞伎役者は、鬼太郎の批評に《叩かれないため》に、必死の研鑽を積み、人気に慢心する事を免れた。つまり閻魔大王のように恐れられながら演劇界の御意見番として最大の功労者であった。

註2──劇作家・劇評家。『半七捕物帖』の作者で、日本の捕物帖の開祖。歌舞伎・新派の戯曲の他、多数の怪談や怪奇小説の著作がある。二代目左団次と提携して歌舞伎改革に乗出し、『修善寺物語』などによって、従来の歌舞伎と違い西洋近代劇の影響を受けた登場人物の心理に重きを置く脚本で、明治後期以降を代表する劇作家となる。福地桜痴門下。

註3──河竹黙阿弥は幕末から明治期にかけての歌舞伎脚本家。誤解防止に、没年は明治二六年で、代表作の大半は明治期に書かれた懐古的江戸趣味の歌舞伎であり、五代目菊五郎・初代左団次・九代目団十郎とともに、新時代に見合った《明治の歌舞伎》を作りあげた第一人者であった。