平井玄 フリーター階級をめぐって 1

じゃあ皆さん映画(「山谷─やられたらやりかえせ」 監督 佐藤満夫・山岡強一)を観たところで話をしたいと思います。僕はこの映画の作る時には、まあ微力ながら一緒に作ってた側だったんですけども、今こういう上映運動からも、ちょっと離れたところで別の場所で何ができるかという立場になってるんです。今日は何だかよくわからない「フリーター階級をめぐって」っていうようなタイトルで話をしたいと思います。
 たぶん初めてこの映画観られた方がほとんどだと思うんですけども、見たところかなり若い方が多いという感じですね。まあ学生の方が多いでしょうけれども、いわゆる普通のサラリーマンされてる方少ないと思うんです。僕白身が一度もサラリーマンはやった事ない。幸か不幸かそういう生活をしてきまして。それでこの映画作ってた時には自分の実家が新宿にあるんですけども、そこでクリーニング屋をまだやってたんです。それからこの映画に関わる。まあやっぱり今考えると大きな意味で、その磁力にひきずられるようにしては編集・出版関係の、一番下の方で臨時の仕事をやるというような事になる。最近はちょつと大学で話をするというような事もやってますけども、非常勤講師っていうのは喰えたもんじゃあないっていうのは御存じの方は知ってると思います。生活の糧はそっちで得てるとはとてもいえない状態で暮らしているという感じなんですね。
 せっかくこの映画を観た、その余韻の中で話をしてるんですから、その話に続けて今の労働とか、働く事、生活をしていくっていう事が、二〇〇〇年が終わろうとしてるような今、どんな状態になっているのかなという事を、自分の立場も含めて考えたい、その話をしたいと思います。僕は社会学者でもないし、データを集めてそこから分析を積みあげて、それで何かをしゃべるという立場の人間じゃない訳ですね。もっぱら音楽についていろいろ書いたりしてるんです。逆にいうと普通アカデミズムの世界にいる人っていうのは、今起こっている現象を調査して統計としてデータをまず集める。まあ大学なり役所なりいろんな所から出てくる訳ですけども、そういうものを集めて細かな分析を加えて何年か経って、やっとそれをいろんな理論的な手続きを経て分析して発表するという事になる訳ですけれども、発表された頃には世の中もう変わってるというケースが多いんですよね。この映画の中に例えば建設業の団体がやっている会議の議題の写しみたいなものとかですね、いろいろ文書類やデータが出てくると思うんですけども、あれはこの映画を引き継いで二人目の監督として完成させた山岡さん達が、そういう研究者とは別の角度から非常に地味な、足で集めたデータといいますか、いろんな手を使って手に入れたデータと、なおかつ自らが日雇労働者として生きた経験の中で、まあこれは社会学でよく参与観察なんて言い方しますけど、もっと生々しい自分で働いて喰ってくという実感と、そこで動いてる人の流れを追って考えていったその痕跡です。そこから寿町、釜ヶ崎、北九州まで行って、さらに炭鉱まで行くと。それでまた東京に帰ってくる、山谷に帰ってというような構成になってると思います。それはいわゆる学問的な普遍性とか実証性というよりも、もっと直感と生々しい実践的な思惟力といいますか、思考力みたいなもので到達した成果じゃないかなと思います。でまあ僕もいってみれば、山岡さんのようなそういう深みを持ったものはとても考えられないんですけど、自分なりにこの映画できて十何年か経って生きてきたやり方を、いわばこの映画から流れ出すようにして自分なりに考えたいという事があって、今日のような話になっていくと思います。
 お配りした資料、一番右の方が一九九九年の十一月に東京新聞に出たフリーターについての記事ですね。それから左側に出てるのは一ヶ月後に、派遭労働に関するシンポジウムがあった、その報告がやはり東京新聞に出ている。で今度はちょっと読みにくいですけども、つい最近朝日新聞に出た職安、ハローワークを中心にしていろんな派遭会社のホームページや情報も統合するような求人ネットワークのホームページみたいなものを労働省が作ろうとしているという話ですね。まあその三つを基本的な資料として持って来ました。
 でまずそのフリーターと呼ばれる人達の話をするにあたって、実態を押さえるというところから話した方がいいと思うんです。今日フリーター階級というような言葉は全然熟してもいないし、フリーターを階級として捉えるというような捉え方自体、運動の中でも、社会科学の中で一般化してる訳でも全くないですね。ところが一九九五年、今から五年前に日経連という日本の経営者の団体の、シンクタンクのような組織があるんですけども、そこが出した報告書の中で、一部上場企業、二部上場企業というような大会社を対象にしてると思いますけども、正社員を五つ位のランクに分けていこうという提言が出されている。長期に渡って雇用していくようなタイプのいわゆる幹部社員みたいなものを頂点として、その間にいくつものランクを設けて、普通の企業の正社員自体をものすごく流動的な雇用形態に置こうとしている。まあ彼らの言い方で流動的とか、フレキシブルとかいろんな言い方しますけど要するに退職金コストをなるぺくかからないようにして、いつでも首が切れて、かついろんな部署にいつでも配転できて活用がきくようにすると。使い勝手のいい状態にしておこうという言い方がされてるんですね。その為には皆さん自分のお金を使って、例えば英語力を付けるとかコンピューター操作できるようになるとかですね、そういう事をしなさいというような報告書が九五年に出てるんですね。まず一つそれを押さえたい。そういう流れの中で英会話の教室、ノヴァとかイーオンとかいろいろありますけど、ああいう所にサラリーマンやOLの人達が行く時に国や都から補助金が出る制度が作られたり、コンピュータースクールがもう雨後の筍のようにドッとできるというようになっていった訳です。企業の正社員そのものをいわばフリーター化させようとしているという事、これが一つですね。それと一番右の記事の中を少し読んでいくと分かるんですが、フリーターっていうのはリクルートが一九八七年に作った映画のタイトルだった。もちろんフリーアルバイターというのは、フリーが英語でアルバイターがドイツ語ですから実にいいかげんな言葉なんですけども、これはそのリクルートっていう会社が作ったっていうよりも、むしろ現実に働いてる人間が作り出したと言った方がいいんじゃないか。つまりカタカナ言葉の日本語化、定着化っていうのは大体四文字言葉に音便化されるプロセスなんですよね。例えばワードプロセッサーがワープロになる。パーソナルコンピューターがパソコンになるというようなもんですけれども。そういう、言語的変容の過程を経てフリーターつていう言葉ができたんだろうと思うんです。つまり頭だけじゃなくて、人間の体を一度通っている。それを掬い上げる形で映画を作る。だから一企業の枠を越えてドッと流通していく。それがたぶん一九九七年あたり、三年位前という事になりますね。要するにバブルがはじけて不景気になって就職も難しくなってくという状態の中で、フリーターが増えていった訳です。しかし単に波が引いたり満ちたりするような定期的な景気循環の中で、とりあえずアルバイトやってるっていうレベルじゃなくて、景気が多少良くなっても全く引かなくなった。むしろ増えていくという状態になる。たぶん去年あたりから幾何級数的にフリーター人口は多くなっていきます。これからもそういう傾向は強まっていくというふうに言えると思います。
 でこれはまた別のマンパワー開発産業から得た情報なんですけれども、都内の大学の卒業予定者の三分の一位の人が最初から企業への正規雇用を目指すような就職活動をしないという事態になってるらしいですね。さらに首都圏の高校の同じ年の実態調査では約半数の人が、やはり就職活動そのものに熱心では全くないという状態になっています。でこれに対して割合古いタイプの高校や大学では、いややっぱり人間一つの企業に一生懸命働いて全うしなきゃあいけないとか、技術を身につけて働かなくちゃいけないってな事を言って指導してる所もあるんですけれど、多くの大学や高校では既にそれ自体一つの生き方として認めざるを得ない。その中でどういうような生き方ができるかという事を指導するという方向に向かってるようです。そういう傾向が現れてくる上には日経連の一九九五年報告っていうのは非常に大きかったようです。
 さらに例えば私自身の経験を挙げると、東京の都心部、はっきり言うと麹町の近辺にある一部上場企業の編集関係の会社があるんですけれども、そこへ行くと百人位いる社員の内のたぶん正社員は二十人位しかいないんですね。で他の人達はどうかというと、正社員の下といいますか、正社員の脇に長期契約の派遣社員がいる。でさらに短期契約の派遣社員がいる。そして学生アルバイトみたいな人がいる訳です。でさらにフリーターがいるというような、まあフリーターと言いましてもこれは女性専門の派遭会社で一人ひとり来ている人間とアウトソーシングで、例えばコンピューターのオペレーターばかり専門に送り込んでる会社があって、そこと契約してその部門をまるごとアウトソーシングしているとかですね。そういういろんな形態があるし、雇用形態とか給与形態も相当違うと思いますけども、たぶん二割位しか正社員がいないという状態になっています。
 そのいわば一番下辺にフリーターといわれるような人がいるという事態ですね。さらに映画を観て頂いた後ですからその事は実感としてわかると思いますけども、寄せ場日雇い労働者達の環境に近いような雇われ方をしている人達が建設産業界だけじゃなくてビル清掃や水商売など都市の底辺に広がっている。さらにそこからもいろんな条件で働けなくなった人達がホームレスと呼ばれるような境遇になっている。そういう巨大企業の正社員から、ホームレスの人達に至るような大きな労働環境、雇用環境、雇用形態の変化の中でフリーターっていう言葉が焦点化されているというふうに言っていいんじやないかなと思います。そういうふうな大きな変動の見取図を描いておかないと、本当の変化、実際に動いていることが見えてこない。リクルートだけじゃなくて、他のシンクタンクとか企業の研究所みたいな連中が言うのは、なんか生き甲斐を見つけろとか、労働意欲を掻き立てる為になんらかの刺激を与えるべきだとかということです。まあここにも芝居とか音楽とかいろんな事やってる人達いると思いますけれども、そういうアート関係の人達はそれでいいし、安い賃金でがんばって下さいと。しかし一定数はなんとか企業の戦力になるように、もうちょっと専門の技術を付けて欲しいとかですね。いろんな言い方されていく訳ですね。一方でコンビニエンスストアなんかでは既にアジア系の人達が店長になっている。店長といいましてもあくまで雇われ店長に過ぎないので過酷なノルマを強いられて、汲汲として働くという状態だと思いますけれども、例えばインド系の人の店長がいるコンビニとか僕の家の近辺にはありますし、その下で日本人のフリーターが働いている。しかもそのフリーターと呼ばれている人達もけっして十代とか二十代の前半じゃなくて、もう四十代、五十代の人もいるという状態になってますね。そういうアジア的な広がりの中でフリーターっていう言葉があるんだけれども、フリーターだけ取り出すと癒しとか、自己実現とか、はっきり言っていかがわしい言葉によって心の病の問題に解消されてしまう。そういう方向に引き摺られていってしまうので、あえてそうした大きな労働環境の変化をフリーター階級の抬頭と呼びたい。階級っていう言葉は今やもう完全に死語、いわゆる左翼の運動家たちもほとんど使わなくなってますし、それから経済学の世界でも使われにくくなってます。非常に頑固なマルクス主義的な思想を持っていた政治党派の人達なんかも、もはや使わなくなってきつつあるという状態です。その言葉とフリーターという言葉を敢えてぶつけるような形で言っているのは、そういう広がりをみて、癒しとかいかがわしいイデオロギーの濁りを吹き払ってしまおうというような意図がある訳ですね。(続く 二〇〇〇年一二月一七日 於 plan B)