村上裕徳 日本現代舞踊の起源12

 『演芸画報』明治四十一年一○月号掲載『名家真相録』の貞奴の談話によれば、「私も一風変って居りましたので、殊に書生肌の人が好きでもありましたし、川上ならば生涯役者をしても居まいと思いましたのです、又私の身分で真面目な所へ行こうと言った所が、先き様で貰って下さりますまいから、一層何だかわけの分らないような人の所へ行きたいと言う決心もありました」──と語っている。また同じ発言中で、音二郎を知ったのは『板垣君遭難実記』(明治二四年)を養母と見に行ってから──とする一方で、音二郎と《いっしょになってしまった》のは明治二三年だとも言っている。二三年なら横浜と芝開盛座公演で別演目である。「女優貞奴」の著者山口玲子はわずかに《疑念》をさしはさみながらも、「その折に知り合った可能性もあるけれども、これは多分貞の記憶違いであろう」──とし、そして「音二郎という存在を知るなり、殆ど間髪をおかず、恰も電光石火の如く「いっしょになってしまった」」──と続けている。その理由を、芸者という職業を環境から、政府高官や実業界の名士あるいは梨園(歌舞伎界)の御曹司達のような名声も地位もある人間よりも「素寒貧の名もなき『書生』といっしょになって、わが手で一人前の男に仕立てるのが、芸者育ちの貞の夢であった」──とし、その理想像にピッタリだったとする音二郎の「荒けずりで硬骨漢」の未完成な魅力を強調する一方で、「けれども貞が音二郎に惹かれたのは、そうした後から考える理由づけ以上に、直感と無分別に衝き動かされてのことだったかもしれない。とにかく貞は音二郎を見るや、たちまちにして、その魅力のとりこになってしまった。音二郎のどこにに惹かれたのでもなく、まして新演劇の『板垣君遭難実記』や『オッペケペ』を認めたのでもなく、音二郎という年限の出来合いに、絶大な関心を持って、体当たりしていった。強いて言えば、音二郎の標榜しちゃ『書生演劇』の書生という自称に、多少引っかかった気味がないでもなかった」──という、どう読んでも破綻した結論を導き出す。しかし情報を鵜呑にして二人の経緯を追っていくと、どうしても矛盾やはじょう破綻が生じて来るのだ。これは山口のせいばかりではない。貞奴の発言に従うならば、書生上りの地位も財産も無い、ほとんどの青年が魅力的な対象となってしまう。しかも貞奴は生娘ならね一流の芸者なのである。その貞奴が急に音二郎に夢中になったのだから、下世話な理由からだとは思えない。他に無い魅力か、あるいは、その急変に、別サイドの理由付けが必要となって来る。
 劇作家の長谷川時雨は、貞奴が福助(後の歌右衛門)から音二郎に乗り替えたという下卑た巷説を打ち消すように、讃仰おしみない貞女として貞奴を謳(うた)いあげた『近代美人伝』(昭和十一年)で、「金子男(だん)が、伊藤総理大臣の秘書官のおり、ある宴席で川上の芝居を見物するように奴にすすめて、口をきわめて川上に快男子であることを説いた。そうした予備知識を持って、はじめて川上を見た奴は、上流貴顕の婦人に招かれても、決して川上が応じてゆかないということなども聴いて、その折は面白半分の興味も手伝ったのであったが、友達芸妓の小照と一緒に川上を招いて饗応(きょうおう)したことがある。それが縁で浜田家へも出入するようになり、伊藤公にも公然許されて相愛に仲となり、金子男の肝入りで夫妻となるように纏(まとま)った仲である。」──と、面識も有った貞奴が読む事を意識した上で、破綻なく二人の経緯を書き記す。時雨の文面の表層を読むかぎりは、いささかの彼女の疑念も感じとれない。しかし穿(うが)った見方をすれば、むしろ理路整然としすぎている。あるいは時雨が文章の表層を裏腹に、読者の裏目読みを期待して表(おもて)の平仄(ひょうそく)を合わせているかに思えてくるほどである。
 金子堅太郎男爵(註1)は音二郎と同郷の福岡出身で、おそらく以前から音二郎の後援者であったと思われる。注意すべきはこの経緯を鵜呑にするにしても、音二郎・貞奴の出会いが金子の御膳立によるもので、背後に伊藤の意向がうかがえる。秘書であった金子が伊藤に相談なしに単独行動をとっているとは思えない。明らかに、ある計画性が感じられる。その事に気付かない時雨では無いし、裏目読みをするとキッチリ無駄なくそのように書いてある。
 さて、これより以前に桃介との再会があったと仮定し、焼けぼっくりに火がついた場合を想定して、私の仮説をおし進めてみよう。桃介は計算高くはあるが物事に淡泊で、それでいて冷血漢でもなく、貞奴に対する愛情も男性中心的見解をのぞいては嘘ではない。ただしその場合、愛人としての限界が、《正妻》ではなく妾宅に囲われる身である事は明らかであり、前途は有望ながらもまだ二十二、三才の桃介は、貞奴を囲い者にするには経済的に無理が有った。一方、愛人の契約が終ったとは言いながら、博文が貞奴の後盾であるには違いなく、少々諭吉に怨みの有る伊藤としては、自分の傘下の貞奴を諭吉の養子の桃介に取られ、巷の話題となる事は、何としても防ぎたかった筈である。養母の可免にしても、もうすぐ適齢期を過ぎようとしている貞奴だけは《妾》でなく《正妻》にして、ゆくゆくは花柳界の外へ出したい考えが強く有った。数年前に貞奴を袖にされた母親としての恨み辛(つら)みも累積されており、気丈で気位の高い可免が、桃介と貞奴の関係の再燃を許すとは考えられない。博文を可免の利害はすべての面で一致していた。そして貞奴の愛情の対象を桃介からそらすために夫の候補者として立てられたのが、かつての桜痴の帝政党の党員の音二郎であったと考えられる。音二郎は寺の小僧から諭吉に引きとられ福沢家に寄宿する慶應義塾の学生となった経歴もあるが、門限破りに加担して方遂された事も有って、諭吉との関係は切れていた。桃介よりも四才年長の音二郎は、役者ながら演劇を《手段》と考え、役者で終るつもりは毛頭なく血気盛んである。政財界の老獪(ろうかい)で捕え所のない老人達や、趣味は洗練されながらも芸者には見慣れた歌舞伎役者達には無い、荒けずりながら明快な音二郎の気質を、貞奴には新鮮な驚きであり魅力であった。他に、後年音二郎の劇作も書いた桜痴の後押しが有った事も考えられる。この計画をうまく誂(あつら)え浦で演出したのが金子男爵であった。そして貞奴の桃介への思いを断たせるために、金子・可免・音二郎・貞奴の膝詰談判で立籠(たてもこも)ったのが大倉の別邸の一件だったと考えられる(註2)。そこでは金子・可免による貞奴の説得はもとより、今後の音二郎の展望や、伊藤・金子人脈による援助の相談、歌舞伎役者等との浮名の精算も含めた、以前から音二郎と親しい関係が有ったとする、偽のアリバイ作りめいた口裏合わせ等が成されたと私は考えている。何度かの行き来が有ったにせよ、二人の婚約が急転直下であった事に間違いは無い。音二郎・貞奴ともに赤新聞のゴシップ記事の好餌であったから、現代のアイドルと同じで世間の眼を逃れて交際が有ったとは考えられないし、隠す必要も無かったのだから、交際期間も短く、逢瀬も数少なかったのが本当であろう。このように仮説を立てると、実証は不可能だが、ほとんどの矛盾は解けて来る。残る疑問は、貞奴が入れ揚げるまでになってしまう音二郎の魅力である。
 

註1──明治二十五年生まれ。七世松本幸四郎の甥。東宝を経て帝劇社長。翻訳家・随筆家としても著名。『西部戦線異状なし』『ファウスト』の名訳の他、丸木砂土(まるきさど)の筆名で西洋ダネの好色随筆多数。芸能、特に見せ物に造詣が深く『昭和の名人芸』『明治奇術師』など研究書も多い。誤解防止に、戦前の翻訳家、特にフランスや中国文学者の多くは帝大教授を含めて、好色随筆が得意であった。秦だけが特異なわけではなく、多くの大家が艶笑小咄やポルノグラフィーを、むしろ誇らしく紹介していた。

註2──越路吹雪・古川緑波(ロッパ)は浅草軽演劇《笑いの王国》出身。本名は加藤姓で養子だが男爵。生家は浜尾家。父浜尾新(あらた)は子爵で貴族院議員。その浜尾四郎は検事で探偵作家。緑波の兄の息子が侍従長であった浜尾実。
註3──「以降」とすると、連載六回目の、大倉邸の一件を初対面の可能性アリとする私見と矛盾するが、矛盾はそのままに残す。貞奴の証言が、二人の馴初に関してかなり作為的なために、謎めいた食違いをきたす事にも起因する。