合田成男 雑話 4

個が生まれて死ぬということなんだろうね。
 だからそれは、あの表現に結びついてくる根拠は、僕は呼吸だろうという気がするよ。なぜ吸うのか、なぜ吐くのか、これは全部からだの機能であって、我々の意識とまったく違うところでやっていることなんだと。そうすると、そういうからだをこう持ち出してきて、既成の概念なり観念なりといったようなものと向き合わせることが、ひょっとしたら舞踏、舞踏のね、一番の主題であるかもしれないと、テーマであるかもしれないと。ただしそのためには、この個が生きている現実、実際の周辺の、外部の条件が必要。条件が必要ということは、この個が生きていくために必要で、要するに刺激を受ける、そしてそれを受納するね、受納してそれが自分の中から表現の動機になるという。

ある意味の訓練というか体験、
 そういうものを重ねていくとひょっとしたら今の時代とか、そういったものと結び合える。そうすると今の時代と自分のからだの関係がどうも上手くいかないということ、そのことが僕は動機になると。動機になるとそのからだは、これはまぁ表現といえるかどうかはわからないけれどそのからだは生き方を、生き方を選択する。そうすると、それが表現になってくるのではないかという気がするんだけどね。だからそこでは、何て言うかな、例えば電車に乗るというような簡単なこともね、条件になってくる。からだがダルいということも条件の一つになってくる。風邪をひいている、あるいはとても元気だということも全部生き生きとした条件になるはずなんだというふうに考える。例えば、あなたが実際にここで表現する、踊るわね。踊ったそれもまた動機になると。そういう周辺、もうあらゆるところに僕達の感覚は拡がっているんじゃないかなというような気がするんだけどな。

見たことのないものを見たい。──
 見ることの欲が、あるいは今までにないものを聞きたいという欲が。その欲を充たされたときには、もう大万歳するね。それはたとえばまあ「禁色」を見て、その時に「禁色」のホモセクシュアルという主題も、それから表現の簡潔さもぜんぶ僕の中に入ってくる。あんなふうに僕は生きられればきっと素晴らしいだろうなと。入ってくるとね、からだがフワーッと呼吸するんだよ。そうすると本当に気恥ずかしいくらいボーッとしちゃうんだな。そしてボーッと入ってきた、そのへんを僕は舞踊だと、舞踏だというふうに思うんだよね。そうして入ってきたら、それが抜けて行かないからね。自分の中にちゃんと体験として入っちゃうんだよ。

なおかつね、もう一つわからないことを含んでいる。
 要するにからだの中にわからないことを含んでいるということは、何というかな、巨大なもの、観念でもいいや、あるいは世界の果てへの空想でもいいや。それをね、どこかで制御しているわけだ。制御していると同時に、また限りなくわからないから、限りなく拡げていくというようなね、そんな作業のしかたをしている。周辺の、現実の条件が条件を全部まともに受けていくと、時代にある存在のしかたが出てくる。文化的な背景も色々なことも全部ふくめて。そうすると外へ向って大きく拡大する方向を、個が選ぶかどうか。あるいはもっとそれを拒否するような方向を選ぶかどうか。どっちも僕は成立していることなんだろうと思うんだけどね。

ふっと振り返ってみれば、何てまぁ、もうこの年になるとね、
 何てくだらない、人生とはくだらないというようなことをね、言いたくなるような瞬間だってあるよ。それからまた一方、何か大きなものに刺激を受けたら、こんなことも知らなかったのかと、急に目が覚めたような感じにも受け止められる。どうも何かその辺のことがね、わからない状態を僕はからだといってしまう。
天然自然に違うというようなことに寄っかかっていると、からだのほとんどは概念で固められるから、その概念を押し出すくらいの一種の作業が必要だ。そうでないと自分自身になかなかなれない

感じなくてもね、言葉を使っちゃうという間違いをたくさん重ねてくると、
 もうそうやって重ねてきた言葉が死んでいくわけだね。死んでいって、こっちにも入らないし相手にも入らないだろうというような感じでくるとね、全部死語なんだよ。ふっとそういうふうに思うことがあるね。なんだもっと早くにだんだん死んでいく準備していたのか、あるいはもう死んでいたのかというふうなね。そういう悔恨が出てくるな。悔恨とまではいかない、もう駄目だという諦めみたいなものが出てきて。だからそう言ったところから離れるには、一回真っ暗闇の中に座っている以外にはないんだろうと考えちゃうんだな。まだこれは逃げ手なんだけどね。ただし現実には闇の中に恐いこともたくさんあるだろう。恐いこともあることを含めて、どこかでまた僕自身が選択する。一方は消えてしまってもいい。一方はそこから生き直してくる、再生するだろうというような、何かそのへんで迷っているんだよ。

こうやって煙草を吸ってても知らないものね。手がどういうふうになって指がどうなっているかということを、
 僕らは知らないまま煙草を吸っているわけ。アッチッチていうんで知るぐらいのものだよな。そう、探せば、いっぱい気がつけばたくさんあるね。しかし気がつかないでいってしまうのは何でかね。形とか魅力的ということではないと思うな。やっぱりお百姓さんが種を植えることから憶えていくというような、しかもそれをからだで憶えていくというふうなところへ入ってくるのと同じように、本来なら日常の中で自分のために勉強することがたくさんあるはずなんだ、からだのためにはね。それをやらないで済んでしまっているんじゃないかな。

ある意味では概念的なものをぜんぶ壊していくような、
 そんなことになると、今度はからだが本当に表に出てくるんじゃないかという気がするね。ただその壊すということも難しくて、とうとう僕なんか何も壊さなかったけど、やっぱり壊すんだろうな。その壊し方だろうな。壊すという雑然としたことではなくて、具体的に壊れてこなきゃいけないわけだ。ある一つのことを選ぶ。選んでそれが具体的に壊してきて、何でもかんでも放りこんでしまいたいような複雑な空間が見えてくるとかね、というようなこまごまとした流れがないと、やっぱり複雑さなんていうものは出てこないんじゃないかな。いやそのへん良くわからないんだけどね。

例えば与えられたものの中に自分を滲ませてゆく、
 自分はそこにあるんだから。そこに与えられたものを受ける。受けてその形を作り上げることができるダンサーは、やっぱりいいんじゃないかというような気がする。それは素朴に言えば小さい子供から全部にある、お婆さんにだってあるんだ。ところがそこで問題になるのはやっぱり主体性なんだ。主体がどういう生き方をしているかというようなことだ。ここでまた、問題はとても混乱する危険性はあるんだけどね。普通の場合だったらああいう伝統的なもの、様式的なものをどんどんドンドンやりながら、そのやっていることによって自分を充たしていけるセンスがないと。だからあることをやりながら、なおかつもっと他に夢を見るとか、夢を見たところまで自分のからだを引き伸ばしていこうとか、何かそんなふうなことをほとんど知らないでできるという。ということは主体というのは実はそれほど正確ではない。言語的に固めてみても、それをするっと抜け出していくような破天荒なものを持っている、当然何をやっているか自分ではわからないんだけれど、何となく単純に言えば気持ちいいとか、あるいはここはこうしてみようとか、何かこう自分を投棄していくようなね。はっきり鮮明にしていく作業なんだろう。あるいは時間なんだろう。そんなものを見ると僕らの方で動きが見えてくる。からだの中の、踊りだけではなく、与えられた動きだけでなく、からだの中の作業が見えてくる。そのへんがいいんじゃないかな。

要するにある考え方としての文化的なもの、文化だね。それと関係ないところで感じ始めるでしょ。
 そうすると困るんだな。職業的に困るんだね。そのへんを行ったり来たりすることが、もう器用にできなくなってしまった。器用にというか、距離がどんどん出来上がってくる。しかも体力は衰え呆けてきている。これを渡るのが大変だ、そして戻ってくるのも大変だというようなね。このへんが歳を取るということなんだけれど。白州に行ったらそういうことが関係なくなるわけだ。人のものを見る必要も、おしゃべりをする必要もない。そこでじっといる限りは、かなり物事が近づいてくるんじゃないかと思ったりもするね。

からだをやっぱり、まぁこれも言葉なんだけれど、その瞬間瞬間にからだを、動いているからだを知りたい。
 白州で経験したことは、帰ってから時々思い出して追体験するというような中で、知り始めるんじゃないかなと思ったりするけどね。その瞬間にはわからない。ただし、何かのために外部からの条件で迷うことはないだろう。そういう時間を過ごしてみたい。そうするとこれは後の余生につながるか、あるいは余生を否定するかどっちかだろう。ということは、

どこかで僕も瞬間を知りたいんだよ、瞬間を。自分で、今が瞬間だと。
 だから風呂上がりで読んだ本のなかで、ああこうなんじゃないかと思ったその瞬間は、多分僕が感じる瞬間なんだと思うんだ。だけどからだが冷えてものを着る、それはすっと消えるわけだ。ある動作を起こしたらすっと消えてしまう。しかし立ち上って衣服を着たときにもその瞬間はあるはずなんだが、何か周辺の日常と混じってしまうんだろうね。目的だからね。だから土方の言った、からだが引き上げていってしまって、残っているものが空気をつくっている。この厚い空気をつくっているんだというようなところに、それを感じている瞬間とそれを見ている、見て再構成しているある時間帯、これはもう舞踏だよ。こっちが、我々の目に見えている舞踏だ、こっちは消えていく動機なんだというふうなことが、もうちょっとはっきりわからんかなと思ったりするよ。