~権利幸福嫌いな人に、自由湯(とう)をば飲ましたい。オッペケペ、オッペケペッポーペッポーポー。
堅い上下(かみしも)かど取れて、マンテルズボンに人力車、いきな束髪ボンネット。貴女(きじょ)に紳士のいでたちで、うわべの飾りはよいけれど、政治の思想が欠乏だ。天地の真理が分からない。心に自由の種を蒔け。オッペケペ、オッペケペッポ、ペッポーポー。
米価騰貴の今日に、細民困窮見返らず、目深(まぶか)にかぶった高帽子、金の指輪に金時計、権門貴顕に膝を曲げ、芸者太鼓に金をまき、内には米を蔵に積み、同胞兄妹見殺しか、幾ら慈悲なき欲心を、余り非道な薄情な、但し冥土のお土産か、地獄で閻魔に面会し、賄賂使こうて極楽へ、行けるかい、行けないよ。オッペケペ、オッペケペッポーペッポーポー。
ままになるなら自由の水で国の汚れを落したい。オッペケペ、オッペケ。(中略)
散切(ざんぎり)頭に白鉢巻、陣羽織を着て日の丸を片手に、軽快な七五調でリズミカルに弁じたてるのが『オッペケペ』(『オッペケペ節』とも呼ばれた)である。まずはスタンダードを記したが、時局に合わせて作詞が変わるのはモチロン、おそらくその場の状況で、かなりのアドリブも有ったと考えられる。風刺や煽動にとどまらず、ヒョイと観客に突込みを入れるあたりが音二郎の芸人らしさで、話芸ではないが役者が芝居の中で観客にイキナリ語りかける手口は、歌舞伎の口上にも通じる常套手段であった。(註1)
このオノマトペともつかぬ『オッペケペ』には、実は前史があり、笑福亭時代には「ヘラヘラ、ハラハラ」という合の手を、音二郎は巧みに使って大受けしたらしい。当時の芸人のヘラヘラ坊万橘の囃(はやし)言葉「ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラへ、オヘケヘッホー、ヘッヘッヘイ」──を単純化し、言わば盗作したものだが、当時は著作権というものは存在しなかった。「鼻下長のお利口連は勿論、丁稚に下婢に番頭に旦那に奥さんに僧侶神主まで、ヘラヘラハラハラといいだす様になって、大流行」(『日出新聞』明治十九年四月十六日)──で、それに改作を加え出来たのが『オッペケペ』らしい。
こうした時局風刺の話芸は、元禄期前後(十七世紀末)に心中ものの芝居が流行し、それをもとにした絵草紙を売るのに、筋書きを謡や小唄に節をつけて売り歩いたのや、それと同時期に、世間の出来事などを報じた絵入りの『瓦版』(註2)の売り子が、事件のサワリを唄のように節を付けて売歩き『読売』を呼ばれたのを起源する。香具師(やし)の売り口上などもその発展形態だが、『オッペケペ』以降の、壮士くずれが流行歌の歌詞やアジ・プロ的創作歌曲の歌詞を口演しながら売歩いたのも、その系譜に連なるものである。大正期の演歌師・添田唖蝉坊(あぜんぼう)の『ラッパ節』『ノンキ節』などが、その流れと言ってよい。発達史としては『瓦版』以前からある説教師の説教話芸や、特にそれが通俗化した阿呆陀羅経を唱える願人(がんじん)坊主の祭文(さいもん)・ちょんがれ・浪花節などが混入して展開されたものと考えられ、いずれも芸能と商売と政治宗教思想宣伝(プロパガンダ)が混在した、ジャンルとして規定できない行為をともなった話芸(パフォーマンス)であった。
さて、音二郎一座の関東初見参は、明治二十三年八月横浜蔦座公演『明治二十三年国事犯顛末』と『松田道之名誉裁判』の二本立て。もちろん『オッペケペ』も演じて十五日間満員。『国民新聞』『東京日々』『東京朝日』などが、「書生芝居(註3)・滑稽演劇家川上音二郎大人気」──と、盛況ぶりを報じている。そこを振出しに九月は東京・芝の開盛座・「書生芝居、太鼓を叩きまわる、一行凡そ三十二、三人」(「国民新聞」九月十二日)「芝開盛座、再び停止を喰わば荒事の活劇を覚悟」(同九月二十三日)──と、新聞が過激な記事を掲載。少し注釈を加えれば、前の記事は、公演に際してデモンストレーションとして行った仮装(コス・プレ)によるパレードを報じたもの。当時は相撲巡業の他は《触(ふ)れ太鼓》による到来を告げる公演がなかったため、芝の住民は時ならぬ太鼓の音に、イッセイに大通りに飛び出したらしい。「川上音二郎一座」や「開盛座」などの幟旗(のぼりばた)を押し立て、人力車三十数台に壮士風の一団を連ね、役者名の小旗のはためく中、音二郎は白の毛皮を座席に敷いて、紺のカスリに鳥打帽のイデタチで、自信満々の様子であったという。後の記事は、警視庁の脚本検閲でひともめ有った一件を報じたもの。たとえ《芸能》に名を借りても、政治的主張への官憲の追求はキビしかったのである。
この開盛座でも十日間の大入りを記録。イキオイをかりて浅草文楽座での演説会も立錐の余地が無い有様。徳富蘇峰(そほう)の『国民の友』は、「演説壇上、滑稽を弄して笑を博し、竹刀を振りて興を添ゆ、講釈師? 演説家? 忽ちにして俳優、忽ちにして鳴物入りの演説家、知らず俳優? 演説家?」──と、驚きの色を隠せない。型破りの新人種(パフォーマー)の出現に、それを発火源として壮士の芸人化がワレモワレモと始まった。壮士伊藤仁太郎転じて政治講談師・伊藤痴遊(ちゆう)などがこうして生まれて来る。四年前のナニワの自由童子の復活である。サア、これからだ。
註1──メイエルホリドなどの二十世紀初頭の前衛劇が、おそらく書物からの知識によって、日本の歌舞伎や雑芸から採り入れたのは、西洋演劇の発想にはない、舞台から垂直に伸びた花道や客席からのカケ声などの、演者と観客の壁を取払う、こうした方法論であった。郡司正勝が『演劇の様式』(昭和二六)の中で言うように、西洋の「頭脳の演劇」と違って日本の歌舞伎は「感覚の演劇」であり、漱石の歌舞伎観(※)を踏まえ、新劇の立場からすれば「きわめて低級な芝居というほかない」──としながらも、その伝統的な手法にある、西洋演劇の発想を越えた歌舞伎の、むしろ古めかしさの中に混在する前衛性を主張するのは、こうした点からであろう。
※──「極めて低級に属する頭脳を有った人類で、同時に比較的芸術心に富んだ人類が、同程度の人類の要求に応えるために作ったもの。」
註2──粘土板やツゲの版木、あるいは餅やコンニャクなどに文字を彫り、墨を塗って印刷した新聞や宣伝ビラの原型。語源は素焼き粘土板のカワラからという説と、四条河原での芝居を知らせる摺り物に、こうしたものが多かったからという説。また売り歩く多くの者が、役者等の《河原者》であったからという説などがある。
註3──いまだ新劇が成立していない時期のため、書生あがり・壮士くずれが演じる素人芝居を書生芝居・壮士芝居と呼んだ。自称・他称の場合がそれぞれにあるが、画然とした相違が有るわけではなく、新聞表記などでも同じ公演に二つの名称が各誌バラバラの無手勝流で記されることが多い。一般的には両者を壮士芝居と総称する。評伝『女優貞奴』の著者・山口玲子は、音二郎が《自称》したとしているが、根拠とするデータが新聞記事だけのため確証とは言えない。ただし書生あがりの壮士くずれである音二郎の自称とすれば、旧時代人の「くずれ」より新時代人の「あがり」の好印象の方を、ネーミングとして採用したことであろう事は確かである。