灰野敬二 トーク・エッセー 8

ほんとに日本人ってやっぱり特殊だと思う、僕から見て。人種っていうか、概念の持ち方だよね、いかに盗もうかっていう。こうね、ほんとに分析して、どうしようもないと分析しきってしまった後に何かできると思うよ。やっぱりみんな怖いんだも。 その評論家も面白い曲作ったかもしれない、コード、リズムにしても一曲くらいわね。落ち込んで、日本人ていうのは猿真似が得意だと。猿のように真似が得意なんだと。これは我々の血なんだから、オリジナリティーとかを突き詰めるとかは無理があると、そういう諦めの所から評論家って出てるんじゃないか。だってとてもいやすいも。時代に合わせていい訳だから。
 でも気を付けた方がいいってあえて言うけど、間章は自分の場所を作ろうとしたの。それは自分の場所っていうのは時間が立てば独裁になるの。こっちを巻き込もうなんてしなかったんだから、それはそれでいいって言う言い方をしていた。やっぱり同じ地点に立った時には、やだけどポップスがあるのよ。これとの関わり合い。昔言ったけど、ビーフハートでありながら、僕の日常をあらわすのはマレーネ・ディートリッヒがある。あえてビリー・ホリデイとは言わずにディートリッヒの歌がある。それは僕にとってお母さんのような音楽なのね、ディートリッヒの歌っていうのは。そのお母さんと言ってしまえば日常性だよね。日常性とロックにとっての一番の異端児キャプテン・ビブハート。これが両立していなきゃダメなのよ。
 僕がなんでパーカッションやるかっていうのは、何となく伝わってきていると思うけど、聞くことと見ることが同時に起きていて欲しいんだよ。舞踏であろうと音楽であろうとそれをひとつのもので放ってないとダメだと言い切るからね僕は。その時点で、今度はすべてにおいて行徳があるわけ。ちっちゃい音や大きい音があるように、日常性があったり、ひょっとしたら暴かれていない非日常性があるのね。これは日常性に非日常性が含まれてないから必要な訳じゃない。こんど日常性が非日常性を含ませることができたらこれは一番凄いことなんだ。そこで俺はポップスをやってるんだ、あえてというか。間章の悪口を言うつもりはない。たぶん僕が一番若い年齢で彼と接してると思う。でもかれは関与してる気がなかった。
 加害者はね、私は加害者ですって言った時に加害者じゃないんだよ。
 僕は自分が被害者だって思ったら大間違いだと、みんな加害者だろうって言っても、加害者を弁護したらばどうしようもないじゃない。加害者になって既に罠にはまってしまったんだも。その罠というのは言ってしまうけど、いわゆるアナーキーとか、そういう言葉に幻惑されてしまったとかドラッグに入るとか。だからさらに露骨な話になるけど、ソクラテスは凄いんだって。自ら毒を飲んでしまったじゃない。飲まなければ実証できないって、俺はやらないよ、でもリスクってそういうものじゃない。毒なんだよ、ドラッグなんて毒みたいなものなんだよ。命なんて賭ける必要ないのよ、命を賭けて風に装えるのよ。それがアナーキーって言葉で終われるの。僕は間章の捉え方は、位置としてはそうだよ、今いる評論家なんて論外だよ。そういう意味では彼は唯一評論したかもしれない。ただ気を付けきゃいけないのは、人っていうのは何かに憧れるんだよ。僕にとっては憧れるっていうことは既に表現者じゃないから。
 アルトーは憧れじゃない。その後からの人っていうのはみんな憧れなんだも、全部とは言わないよ。憧れていた人はやらざるを得ないじゃない。ゴッホなんて実は絵なんて描きたくなかったかもしれない。でも描かざるを得なかった。そういう人があまりにもいない。だいたい僕はロック、ロックが好きっていうのは僕がお世話になったという意味でロックだけど、ロックの良さを、持ち得た力をずっと生きてるけど、ロックがあそこでダメだったのはドラッグってことだ。いま日本が60年代の状況に近づいているというかすごく似てるの。それでいいっていうか、それを一番究極的とかいうバカな奴等が多いから。またその次のことは凄いということを言ってしまって、自分がやらないで済むから。