合田成男 雑話 5

とにもかくにも白州町での独居四十日を終えた。お世話になった方々を列挙して、感謝の意を表します。
 まず、谷間の森を開放、提供してくださった園長さんこと大輪武三氏、この企画の賛同者田中泯、掘立小屋を建ててもらった夏井秀和、鈴木啓志、菊島申倖、原田悠士、おいしい食品を差し入れしてくださった棚橋亜佐子、モリーン・フィラン、飯島身佳、生活記録者(ビデオ)石原志保、そして玉井康成の諸氏、特に老人の身体行動力学を無視した空間を構造、私を身体的に苦しめた鈴木君(装置)には、こん畜生(賞)のひと声を贈ります。
 
 この夏、7月27日から8月31日まで、山梨県白州町、中山の谷間で、独居の四十日を過ごした。ひたすら独りになりたいという願望と最後の機会だという決断そのままに逃げ込んだ森の生活であった。ただ、場所を選ぶための条件は独居願望の最初から決まっていた。電気のないところであった。それは同時に、外からも電気の光の差し込まないところでもあった。そして水、ただ、それだけであった。狭い谷間、頭上を覆う樹々、条件は完璧に満たされた。からだにぴったりと纏い着く甘美な闇を知ったし、厚い緑に囲まれて退いてゆくからだの陶酔も感知した。猿軍団に包囲されて猿世界に移行してゆく柔和な微笑みの体験もした。反面、身体はかなりのダメージを受けた。入居してまもなく胃潰瘍になった。過去の経験からそのように自己診断した。そしていま(帰宅後)も痛みは治っていない。それだけではなく、肺気腫も判明した。四十日間の青色吐息の生活は当然のことだったのだ。しかし、いま、つぎのように感じている。この身体的苦痛は、例に挙げた精神的愉悦をより色濃く、より確かにからだのなかのものとして残留させ、機会あれば復活し得る契機となるだろうと。それだけではない。この独居生活全体を土あるいは地面、地表、大地と強く結合させ、これまでの生涯に経験し得なかった場をからだのなかに覚醒せしめたのも、からだの影ともいうべき青色吐息の、この状態の不自由さであったと考えている。いい換えれば、私はそのようにして初めて地表に降り立ち得たという実感なのである。そして、水平への志向ががこの晩年の老批評家に初めてのような新鮮さで訪れて来たことである。へとへとになって「この森のなかに汚いものなどあるものか」と独語し、哄笑していた子供のような私がいたのだ。
 それは確か8月3日のことと思う。入居して一週間、どうにか生活の順序も決まって、計画中から決めていた仕事めいた作業に取り掛かっていた。土方巽の「病める舞姫」から頁を追って言葉を抜き書きする単純な作業である。これまで土方巽を語ることは多かった。あるいは多過ぎたかもしれない。しかし、幼時の貧困、病弱、孤独といった彼を巡る環境や彼の身体的な状態、現実的な心情に根拠し、彼のからだのなかやその生涯の根幹に直截なものからではなかったことに、しばらく前から気付き始めているのだ。従って、抜き書きは、いわば土方巽のからだを図表化し得るほど、極力、単純、平坦な作業でなければならず、それらの言葉を総合、あるいは拡散するような、いわゆるキー・ワードが現れるのを待つことになる。独居にふさわしい作業だと考えていた。この日はまさに快晴であった。白州にはいってから二週間、雨模様のどんよりした天気が続いていたので、やっと夏が来たと爽快だった。小屋の外の土の上に打ち付けたテーブル(九十×一八十センチ、黒塗り)に沿って座り周辺のあちこちに差し込んでいる木漏れ陽を楽しんで見た。頭上の限りなく清澄な空の青をふくんで、木漏れ陽は白く輝いて落ちていた。赤いコーヒーポットや鋸や金槌、ノートやキンカン(防虫用薬)など雑然と置かれたテーブルの上にも三つ、四つと、刻々その数と場所を変えながら斑点模様を見せていた。森の頭上に達する大木は普段と変わらず黙して剛然としていたが、その下、地上から四、五メートルのか細い木々一刻を争って、日差しを浴びるべく、首を伸ばし、振っているように思われた。だが森はこれまになく引き緊まって、静かだった。なにかの用事で席を立っていたのだろう。知らぬ間にテーブルのおよそ半分が光に占領され、開かれた�病める舞姫�が異様に白く輝いていた。立ったまま驚いて眺めていたが、活字が二センチほど浮いて、整然とした面を作っていた。活字とは、こんなに美しいものだったのか、書物とはこういうものなのだ、と感じ入った。気が着くとその活字の透明な面の下の見開きの白い頁に、黒ずんだなにかが靄のようにかかっていた。豁然とした活字の面からこの靄は次第に遠く退いてゆくように見えた。私の�病める舞姫�のほとんどの頁は読むたびに鉛筆の書き込みが増え、しかも行を横切った線が交差してあって、読みずらいほどに汚れている。その汚れが靄なのではないか、活字の面との間に厳然とある距離を認めねばならない、ひょっとしたら、美しいのは活字であって言葉ではない、ということは言葉を読むな、活字を読め、活字を見よ、ということか、などと呆然としていた。そして木漏れ日の皮肉を込めたいたずらと考えた。しかし、つぎの時間、土方巽と過ごした二十数年、現実的な交際は明解であっても、そこから私が紡ぎ出したもの、それは電灯の下、夜の自分勝手な想念、夜想であるという事実に初めて気付いたのだ。そして、それが靄なのだ。木漏れ日の下で書物を開く記憶に、ついに行き当たらなかった。私は急いで�病める舞姫�を閉じ、洗濯物をビニール袋に詰め込み、身体気象農場に向かって谷を出た。谷の小川は浅くて衣類を洗うことができないからだ。(寄稿)
 別記=不安を感じながらも執筆を復活します。