灰野敬二 トーク・エッセー 1


 実際批判になっちゃうんだよね。批判でも、いい批判家、批評家っていうのは自分がやってると思う。批判して批評だけならば、19世紀最後までやってたいわゆる「評論家」がまだ良かったと思う。いま物書く人って、何もしないからかなりひどくなってる。それよりも、批判しつつやってるならさ、自分が、いい時も悪い時も状態はあるけどさ、自分が何かを見せたい、聞かせたいってことは、「俺が」っていうのがある訳でしょ。それが「俺も」になっちゃぁ、やるテンションが落ちちゃうと思うし、ただ「俺が」「俺は」って言った時、やなヴァイブレーションを与えないようにいかにできるかだと思うから表現者っていうのは。それが「俺がー」ってやった時に、何もかもがイヤーな空気になってしまって、みんな知らないうちに、いい悪い以前に、悪い意味での魔術にかけてしまうっていうのはやりたくないと思う。けど、時によって誤解をされるっていうことはそういうことでしょ。ある人にとってはいいヴァイブレーションを感じられなければ、それは押さえ込んでるような‥‥。
 俺は今まで色んなこと言って、結局来た雑誌社そのものを解体するようなことを言う訳だから──、もう露骨にいえば「資本主義だね」。もちろん反対側がいいとは言わないよ。さらに音楽の雑誌はどこも出してくれないけど、俺以外に「誰が安保反対の音楽をやってんだ」って言い切ってる訳。ジョークとして載せることは今後もあるかもしれないけど、本気でそれを言ったならば、ひょっとしたら雑誌が出せなくなるかもしれないからね、表現の自由って言いながら‥‥。
 その一人だけじゃないでしょう。結局、きっかけで亀裂ができりゃあ、初め亀裂が大きくならないことはできるけど、開いた亀裂は絶対に防ぐことはできないよね。無理矢理とんでもない力で亀裂を防ぐとしたら、漫画と同じでダムなんかの場合は他の所から出てきてしまう訳で、絶対にその恐さは、30年色んなところ喋り続けて、何にも出さないな。好意的ではある。評論家もある意味では敵にしたくないっていうのがあるんだろうけど。
 多分こいつにはわからないだろうと言って、何回も何回も言ってダメだとと思って、それで切ったらば状況は何か変わる?何ていうのは大それたことだけど、微かに揺らせるぐらいの、たった一行にでも引っかかればいいじゃない。言い切るけど、現状をいいって思ってる奴なんかいないから。いいものを売ろうともうしてないも。売れるものがいい。僕の幻想かもしれないけど、60年代の後半というのは磁場が違うことは明らかだけど、でもやる側は何かの部分では信じたものをやっていたと思う。どう考えたって、ジミヘンとジム・モリソンと個人的だけどシド・バレットって、やっぱり凄いも。今の次元から見ても、そのロックのサイドから見て、悪いけど僕はその世代は認めるからね。
 御存知のように俺はすごいレコード・マニアな訳で、とりあえずロックの世界だけ言うと、あれぐらいのオリジナリティーのある奴がいわゆる無名の中にいないのよ。これがねぇ、時代のせいにしたくないということなの。ジム・モリソンくらいってあえて言うけど、存在感がある奴は僕が探した限りではいない。レコードにならなかったのかもしれない。これだけ再発されていて、たったシングル1枚でも再発されてる訳じゃない。いわゆるその時代だってありさえすれば、幻のバンドとしてシングル1枚くらいは出したと思う。これだけ発掘されて出てこないロックの世界で、それでも出てこないっていうのは、やっぱり彼らはほんとにアヴァンギャルドであり、正道であり、表現者であり、音楽の部分で、何かの力を持ち得た人たちだったと思うのね。それを、時代がピッタリ合ったという言い方をしたくないけど、プロデューサーがこれはいいと思った音楽に対してのメッセージじゃなくて、メッセージは嘘に近づくから、何かのアプローチを持っていたと思う。ところが今やっている人間は、育てようという気が、自分たちの表現が何だって押さえて、捉えてそういうことをしようする人種がいない。