灰野敬二 トーク・エッセー 10

灰野敬二 展示会「─写されてしまった呼吸(いき)─origins hesitation」が吉祥寺で催される前夜(4/27~5/6、ブックステーション和)、再び話を聞いた。
 ──画もロックから生み落とされたものですか?
 言葉ではないところでの説明。もちろん時には、言葉で自分がどうしてパーカッションをやってきたかとか言ってきたけど、たまたま、ある人にあくまでもいい意味でそそのかされて──。人と電話で話している時に、中学生の時からゴニョゴニョゴニョゴニョ描いていて、描いているというよりただ鉛筆が、ペンがあるから描いていたというだけで、線が消えいく時とかつながった時の楽しさというのは、僕が考えている「間(ま)」とか「タメ」。たとえば美術家ならば意識してやらないであろうことで、筆を持った時にウッと息を止めたりとか、息を止めてハッと吐いたりとか、僕がパーカッションを叩いたりギター、ボーカルをやるのと一緒。冗談でも自分で絵描きという気は全然ないけど、一番始めに言った自分のやっていることの説明を言葉でなく現したというか、キャンパスという2次元に現したということと、驕るつもりはなくて納得はいかないけど、見ていても「アッ」とちょっとづつ自分らしさが確認できるところがあるんで。今回色んなつながりが、偶然があって、ちょうどそういう時期だっていう。7、8年前から人に見てもらう形ではやりだして今まで2回か3回個展をやってる。自分の画を絵として比較されたら穴があったら入りたい気分が十分あって、弁解めいたいい訳を作った(笑)。展示場に張り出す言葉、それを読みたい。
「これは画と呼びうるものではなく……。
これらは神秘を継承するはめになった呼吸(いき)が
記号と成り果ててしまう前に
見られたがっている神経の本性を表出させたものである。」
 神経というものが目に触れたらば、ある時自分でやって描くというよりもキャンパスになぞるというより、いや、描くだ。描くという行為をしてる時ゾッとした瞬間があって、これは自分がいつも意識していて説明しきれない部分はやっぱり神経の部分だなと思って。「私は神経がオカシイです」って見せる人はいなくって、自分の神経はこうなんですって表に現すことが表現な訳だよね。だけど神経って言葉はみんな避けて通るから、あるのは当たり前のことだし、前に言ったかもしれないけどアルトーにせよゴッホにせよ、その本質の部分…ひょっとしたらそれが全部出てきちゃったのかなっていう。自分でもびっくりしたも。説明できないだけ自分の中にわだかまりとして持っていたものだし、ただその本性を見たっていうことは自分でもゾッとしたけどね、瞬間は。エーこういうものなのって?
 (音による表現との違いは)説明がどっかで加わっているんだと思う。僕は音楽至上主義者と思われていると思うし、批判は自分自身にもきてることだから、その音楽至上主義から見たならば、瞬間を信じて消え去っていくものではなく、知ってしまったもの、もちろん音は録音という方法もあるけれども、ライブに来てその場で体験してもらうこととは違うので……。普通ならば、精神科医の先生が描けって言ったある種の強迫観念の中で患者が描くような絵を自ら進んで僕は書いてしまった訳だから。俺はオカシクないってことを証明してる訳(笑)。意識してできる。患者でありながら実は精神分析医でいられる、両方を自分で言っていられるという。おそらく、自分が物心ついて、初めはオカシイっていう感覚とか、憧れてた時期があったと思う。でももうそれではできない。オカシクなったらできないということを踏まえているから、オカシクなる前にやっちゃっているんだ、自己防備とは違う意味でね。そういう意味では、色々な所でそういう環境を用意してもらえて自分では救われてるなって気がする。いわゆるオカシクなるっていうのは、関係性を持てなくなるっていうことだから、オカシクなるのは恐らく一番楽だと思うんだよね。自分はそれを求めないし、表現ってまさに現す訳だから、自分の為にやるっていうことと同時に、見てもらいたい、聞いたもらいたいから、けして自分の為だけじゃないっていうことを再度言っておきたい。
 (活動がそのものが慈善団体に)なれれば嬉しい。一つの言葉で囲って、組織を作るってことがいいのか悪いのか未だに解らないし、未だに自分の中で葛藤を続けているけど。三つくらい偶然が重なってやれるならいいけど、ヨーシこれから慈善団体作るぞっていうのは何なんだろうって。
 これは自慢したいんだけど、今回アイルランドに行けて、凄いことが起きた。耳の聴こえない人が僕のパーカッション・ソロに来て、聴こえるようになった。人っていうのは、慈善でも偽善でもいいからとりあえずやれって。それはどういう効果、例えば街からゴミが無くなるなんて人間に対しての美にはならないかもしれないけど、何か念じていれば、現在生きている魂全部が一瞬にして核要らないって言ったら核が消えるっていうようなこともこれで信憑性が出てきた。たったひとりの人間が何かやることによって、明らかに良くなった訳だから。僕は今まで何かあって、自分がやってることに対してイイって言い切ったことがないの。良くはないけど、悪くないことは確かだった。でも、今回アイルランドで起きたことは明らかにイイことなの。そのことを悪いっていう人は百人中百人いないと思う。僕がやることで、これはいつも言ってるけどリスクを負うってことで、昔のお百度参りのように、母親が自分の病気を代わりたいとか──。(ヒーリング・ミュージックのように)ピーとかやってアハハじゃ治りやしないって。
 ただ、白状しておくけど、これは奇跡ではない、治療なの。(その女性は、スキーやっている最中、極度の緊張から1年間耳が聴こえなくなっていた)いわば詰まっちゃった状態。それを僕が、いわゆる気合いを入れた訳よ。パワーっていうか祈りをすれば、今度は本当に生まれた時から聴こえない人が微かに音の余韻が感じられるぐらいになればっていう思いがあるし。彼女が「聴きたい」って強く思ったのとは違う話で、自分で受け入れようとしたから入った訳。(ライブで)僕が動いている、それを見ているだけでは自分の五感が満足しなくって、ひょっとしたら自然なかたちで聴こえた、五体満足のからだの状態になっていったのかもしれない。すべて空気に触れる訳だし、空気が波動して、目とか耳とか鼻とかを意識してるけど意識する分だけ間接的なものだと思う。皮膚は直接的にそこにあるすべてを受け入れられる。それが波動として入っていったら、血管がどんどん気付いて、いわゆる自然の状態に向かうような気がする。反対に、喋れない人がメッセージを言いたいがために喋れるようになっていたかもしれないし、ただ今まで僕がそうしたいそうしたいって偽善的に言い続けてきたことが、偽善的であろうといい結果が出たんだから、みんなもっと偽善的なことをやるべきだよ。
 僕の音楽って、初めライブで聴いた時、10分くらいで逃げ出したくなるって。耳がもうオカシクなる、こんな所に連れてきやがってって思って、そのうち1時間くらいすると次には自分が宇宙に放り投げられた気分のようになる。初めはとにかく怖かった、知らないトンネルがあってそこに無理矢理引きずりこまれて、そこは真っ暗な道で、でもでもでもになるけど、何だか知らないけど安らげると。なんでこんなウルサイのに、力が抜けて、眠くなり、安らげるのかっていう感想が多い。それが自分がいいヴァイブレーションとして送れているのか、あるいは攻撃的な、負の否定的なパワーを送っているか伝わるようになってきたのかな。初めの頃は伝え方がまだわからなかったし、この辺までいくけど届かなかった10年くらい。持続したことによってスピードが増したんだと思う。加速っていうか、例えば3時間弾いていても、前はこの辺で留まっていたものが、いまはからだの中の脳細胞まで入っていけるも。これはある種の持続がないと。
 話を元に帰すけど、本性っていう。僕の本性というよりも、神経の本性っていう、何でも隠されてるものってホントはすっごく見られたいんだよね。ただ今はまだ見られべきではないとか……ないものなんてまさに無いんだよね。その意識がもうそこで、自分が、私はある、ゴミがあるかって意識の話になると後は見るか見ないか、聴くか聴かないかになる。みんなそうだと思う。感じるか感じないか。彼女は気持ち良さそうだから聴こえたんだ。(終)
 ※後記 この後も話は灰野敬二の演奏そのもののように続いたが、それはまた別の機会に紹介したい。「最後に何が言いたいって言ったら、僕は音楽が好きです。音楽がで、音楽は、でも音楽も、でもなくね。」

☆トーク・エッセーvol.1~9は、昨年6月のインタビューを編集