村上裕徳 日本現代舞踊の起源3

無鉄砲にも程がある──という言葉に従うならば、程度をわきまえないケタはずれの無鉄砲は川上音二郎と女房の貞奴であった。やりくり算段の結果、猿や熊や狸まで居る小動物園を併置した洋風建築の川上座を建てたまではよいが、高利貸しに追われるのみならず、座員は給金が低額のための不満から大半が離れてしまう。川上座を抵当にまたしても金を借り入れ国会議員に立候補して起死回生をはかるが、これも落選。せっかく手に入れた川上座ばかりか新居の洋館までも差押さえられてしまった。ここまでなら特別の話ではない。問題はここからだ。門下達の劇団との合同公演の失敗もあって捨鉢になった音二郎は、貞奴をともない商船学校から払下げの十三尺(四メートル)の短艇(ボート)『日本丸』に乗って、あろう事か、海外脱出を成そうとする。音二郎は海外渡航経験が無いわけではないから、正気の沙汰とは思えない。
 面舵(おもかじ)と取舵(とりかじ)の区別もつかないズブの素人の、しかも行先も決めてもいない旅である。明治三十一年九月十日に築地河岸から漕ぎ出したまではよいが、外海に出てからは荒海にもまれ、おりから二百十日の強風もあって小船は膝までの浸水。死を覚悟したあたりで、軍艦『富士』の灯を港と錯覚して横須賀軍港に迷い込み一難を逃れた。軍港部長の説諭(せつゆ)のかいも有らばこそ、猪突猛進(ちょとつもうしん)の二人は密かに『日本丸』に乗り込んで港を脱出。やっと辿り着いた先は伊豆の下田港。音二郎は豆と打撲傷で血だらけの満身創痍、貞奴は腰が抜けた上に差込み襲われる有様。九月十五日の『時事新報』は紙面に、<一葉の扁舟に棹して/川上音二郎米国へ押渡る算段/狂気か暴か判断つかず>──と見出しを掲げ、なかば呆(あき)れ口調で二人の粋狂を論じている。
 それでも二人はその後も航海を続けて、天竜川の河原に打上げられたり、アシカの群に転覆させられそうになったりしながらも、船が神戸港に辿り着いたのは翌年の一月二日。着くや否(いな)や音二郎は大量の吐血をして病院に担(かつ)ぎこまれてしまった。暴挙としか言いようの無い海外脱出計画が、あわや水泡に帰するかと思われたやさき、療養先に国際興行師の櫛引弓人(くしびきゆみんど)から米国巡業の話が持ち込まれる……。
 音二郎・貞奴の伝記を読んでいると、強烈な個性のブツカリ合いのせいも有るのだけれど、絶えずハラハラ・ドキドキの連続で飽きる事がない。急転直下に天と地が入れ替わるジェットコースターなみの人生遍歴である。しかも双六で遊ぶかのように屈託が無く、欧米へのコンプレックスがほとんど感じられず、どんな悲惨な状況でも、妙に陽気で賑やかでドライである。これは天勝・天一のコンビにも共通する芸人独自の気質と言えようか。抱月・須磨子とは正反対である。
 それはさておき、明治期において巡業を含め四度も欧米を視察し、本場仕込みの海外演劇の息吹を最も直接に大衆に伝達したのは、壮士芝居の開祖である川上音二郎をもって嚆矢(こうし)とする。坪内逍遥をはじめほとんどすべての演劇人は本場の舞台を観た事もなく、洋書だけをたよりに沙翁(シェイクスピア)を論じオペラを語り、演劇改革をいまだ画策していた時代の事である。
 旧劇(歌舞伎)に対する新劇(現代演劇)の父でありながら音二郎への歴史的評価は、キワ物めいた山師的側面ばかりが強調されがちであった。音二郎の演劇改革については後で記すとして、出たとこ勝負の腹芸と強運、眼から鼻に抜けるような頭の回転の良さ、わけても貞奴というジャジャ馬を乗りこなす名伯楽(はくらく)ぶりは音二郎一流のものだが、海外での成功の大半はゲイシャ貞奴のアイドル性に負う所が大きい。各国王族・大統領・舞台人・芸術家等々をむこうにまわして国賓なみの歓待と賞賛を受け「ヤッコ・ドレス」まで発売されるまでのブームともなると、単なるジャポニズムだけの興味とは言いがたい。
 海外には<女優>があるのに川上一座に女形しか居ない事を指摘された音二郎は、事のなりゆきから嫌がる女房の貞奴を説き伏せて女優に仕立てあげる。こうして冗談のように海外の地で近代日本演劇史の女優第一号が誕生するのだ。寛永六(一六二九)年将軍家光時代、風紀を乱すとして女舞(おんなまい)・女歌舞伎が禁圧されて二百七十年間、日本演劇に登場する女性はすべて女形が演じてきた──とされるのがアカデミズムの演劇史の定説である(歴史書にはほとんど記されていない貞奴以前の明治期の女歌舞伎については後に別項で記す)。
 日本での貞奴の初舞台はそれから二年後、明治三十六年の明治座公演のシェイクスピアの翻案劇『オセロ』である。ゆくりなくも女優になってしまった貞奴は、明治四十四年音二郎の死とその後七年ばかりの引退興行(大正六年明治座公演『アイーダ』)まで、女優業にいそしむ事となる。