村上裕徳 日本現代舞踊の起源8

壮士芝居の歴史は明治二十一年十二月角藤定憲(すどうさだのり)が、中江兆民などを顧問とし《日本改良演劇》と銘打って旗揚げしたのが最初とされている。劇団名も《大日本芸劇矯風会》と大変イカメしい。演目は『耐忍之書生貞操の佳人』『勤王美談上野曙』の二作品。翌年の京都公演の頃にはユニフォームも揃いの黒紋附に白縮緬の兵児帯、白布のうしろ鉢巻という壮士風のスタイルに定着する。以来角藤は《新演劇元祖》や《元祖大日本壮士改良演劇会》を名乗りつづける。
 ズブの素人が演じる芝居だから、かねて角藤が写実の巧者と私淑する中村宗十郎に演技の教えを乞うたが、「堅気の人間は毛をたてて恐がって居る転(ごろ)つき壮士だから」と最初は断られる。しかし弟子の中村丸昇が演技指導を代行する事になった。明治の市井の出来事をリアルに活写するのが角藤の意図だったから、車夫役は三日も市中で俥(くるま)を引廻し、按摩役・乞食役それぞれ実地体験していく演技収得法であったらしい。官憲の圧迫を逃れ芝居に仕組んだ政治宣伝を意図とし、いっぽうで無職の青年壮士に職を与え救済するという涙ぐましい目的もあった。ところが関西ではかなりの成功を収めた角藤の壮士芝居も、関東での公演まぎわに政治的圧力でお流れになり、初東上の二十七年には、すでに音二郎一座が地盤を固め、それを追い抜く力を持たなくなっていた。そうした角藤を音二郎はツブサに観察し、観客の反応を研究して来た筈である。
 私見によれば角藤の関西での成功は、土佐を中心とする自由民権思想の普及が関西以西では根強かった事、演技の未熟さにくらべリアルな生真面目さが好意的(場合によっては滑稽)に受けとめられた事があげられると思う。それがすぐさま関東で受け入れられなかったのは、地元贔屓(びいき)が得られない事と、自由民権思想の普及力の違い。壮士劇の未熟なギコチ無さが洗練を要求する東京の排他的な庶民文化の中でヤボったく見えた事。壮士劇の強面(こわもて)な体質が女性客を集めなかった事。そして最大の原因は、演技力とは別に要求される、或時(あるとき)は高圧的に或時は謙(へりくだ)る芸能的センスと、バラエティーに富んだエンターティメント性の欠如であったと思われる。
 角藤の持ちえなかったそうした技量を、音二郎は確かに持っていた。明治二十四年、音二郎は浅草の大劇場中村座で『板垣君遭難実記』を上演する。当然オッペケペも唄い、清元もうなり、大切りでは役者連総出のステテコ踊りの賑やかさ。観客に芸者衆なども交えて、東京中の話題となるほどの大盛況。演目は中幕に『監獄写真鏡』をはさんで二番狂言『勧懲美談児手柏(かんちょうびだんこのでかしわ』大切り『花柳噂存廃(はなやなぎうわさのあるなし』で全幕。歌舞伎と同じ配列だがすべて新狂言である。「さあさあ、板垣君遭難実記、岐阜中教院玄関の場がはじまるよッ、板垣退助に扮するは、いま売り出しの青柳捨三郎、刺客相原が川上音二郎ッ、板垣死すとも自由は死せず、手に汗にぎる殺し場だあ、さあ幕があくよッ、はいったはいったァ」—-呼び込みの声に従って、当時の中村座を覗いてみよう。引用は杉本苑子の『マダム貞奴』から、改行無しの大車輪(はやおくり)。
 
 川上扮するところの刺客相原は、おどりかかって板垣を刺す。ここで例の、/「板垣死すとも自由は死せず」/をやるのかと思うと、そうではない。組んでは倒れ、起きあがってはまた組みつき、五度も六度も格闘をくり返すあいまあいまに、自由民権思想について両人が、泡をとばして論じ合うのである。(中略)相原が板垣の髪の毛をひっつかむ、それを下から板垣が二間も先へはねとばす。ドシーンと舞台の板が鳴る。様式化した歌舞伎の立ち廻りにくらべると写実そのものだ。(中略)—-ところへ珍事が突発した。板垣が、/「ろうぜき者ッ、出あえ」と声をあげるのを聞いて、中教院の中からばらばら人がとび出し、相原と大乱闘のさなか、巡査二人をしたがえて警部が花道を駆け出してきたのだ。そのまたあとを、中村座の頭取があわてふためいて追ってくる‥‥。(中略)平土間の見物は床板をふみ鳴らし、/「官憲横暴ッ」/と絶叫しながら、花道めがけて殺到しようとした。/舞台番が、泡をくってとび出してきた。/「頭取さん、ちがうよッ、ちがう。そのお巡りは役者だ。狂言だよッ」

 杉山誠の論文(註1)では開場初日のハプニングらしいが、杉本の小説では頭取と舞台番まで含めた全員がグルの《演出》になっている。あるいは初日の客の反応から、音二郎によって新しく書き加えられた趣向かも知れない。他にも『マダム貞奴』には役者の扮した巡査が、刺客相原の公判場面で平土間の観客(実はサクラ)に、「こらッ、公判傍聴中に、帽子をかぶるちゅうことがあるのかッ」—-と叱り、「へい、ごめんなさい」—–と帽子を脱いで、場内の割れんばかりの拍手喝采もあったらしいから、これを杉本の創作でないとすれば、こうした演出は意外さをねらった物ではあっても、日本の芸能では前衛的というより従来よりの常套手段であった気配が読みとられる。前出の杉山論文『新派劇』には、「頭の床を打つ音、ドンゴツンと遠き桟敷にまで聞ゆる程(中略)実地活歴もここまで遣って見せて貰えば見物も確かに合点するなり」—-という、出典記載の無い文章があり、おそらく生傷の耐えないリアルな舞台であった事が想像される。そうした雰囲気をデータの集積の上に空想を交えて、場合によっては事実以上に本当らしく杉本の『マダム貞奴』は伝えている。それが大変に面白い。

 いずれにせよ音二郎の成功によって、演劇といえば歌舞伎に限られ、役者の一族が特別のコネでも無ければ役者になれないと考えられて来たのが一変し、素人でも役者になれる時代が到来した。数多くの俳優志願者が音二郎の下に集まって来る。その中には後の新派の名優になる伊井蓉峰も居た。

註1──『演劇の様式』昭和二十六年河出書房刊所収『新派劇』