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灰野敬二 トーク・エッセー 10

灰野敬二 展示会「─写されてしまった呼吸(いき)─origins hesitation」が吉祥寺で催される前夜(4/27~5/6、ブックステーション和)、再び話を聞いた。
 ──画もロックから生み落とされたものですか?
 言葉ではないところでの説明。もちろん時には、言葉で自分がどうしてパーカッションをやってきたかとか言ってきたけど、たまたま、ある人にあくまでもいい意味でそそのかされて──。人と電話で話している時に、中学生の時からゴニョゴニョゴニョゴニョ描いていて、描いているというよりただ鉛筆が、ペンがあるから描いていたというだけで、線が消えいく時とかつながった時の楽しさというのは、僕が考えている「間(ま)」とか「タメ」。たとえば美術家ならば意識してやらないであろうことで、筆を持った時にウッと息を止めたりとか、息を止めてハッと吐いたりとか、僕がパーカッションを叩いたりギター、ボーカルをやるのと一緒。冗談でも自分で絵描きという気は全然ないけど、一番始めに言った自分のやっていることの説明を言葉でなく現したというか、キャンパスという2次元に現したということと、驕るつもりはなくて納得はいかないけど、見ていても「アッ」とちょっとづつ自分らしさが確認できるところがあるんで。今回色んなつながりが、偶然があって、ちょうどそういう時期だっていう。7、8年前から人に見てもらう形ではやりだして今まで2回か3回個展をやってる。自分の画を絵として比較されたら穴があったら入りたい気分が十分あって、弁解めいたいい訳を作った(笑)。展示場に張り出す言葉、それを読みたい。
「これは画と呼びうるものではなく……。
これらは神秘を継承するはめになった呼吸(いき)が
記号と成り果ててしまう前に
見られたがっている神経の本性を表出させたものである。」
 神経というものが目に触れたらば、ある時自分でやって描くというよりもキャンパスになぞるというより、いや、描くだ。描くという行為をしてる時ゾッとした瞬間があって、これは自分がいつも意識していて説明しきれない部分はやっぱり神経の部分だなと思って。「私は神経がオカシイです」って見せる人はいなくって、自分の神経はこうなんですって表に現すことが表現な訳だよね。だけど神経って言葉はみんな避けて通るから、あるのは当たり前のことだし、前に言ったかもしれないけどアルトーにせよゴッホにせよ、その本質の部分…ひょっとしたらそれが全部出てきちゃったのかなっていう。自分でもびっくりしたも。説明できないだけ自分の中にわだかまりとして持っていたものだし、ただその本性を見たっていうことは自分でもゾッとしたけどね、瞬間は。エーこういうものなのって?
 (音による表現との違いは)説明がどっかで加わっているんだと思う。僕は音楽至上主義者と思われていると思うし、批判は自分自身にもきてることだから、その音楽至上主義から見たならば、瞬間を信じて消え去っていくものではなく、知ってしまったもの、もちろん音は録音という方法もあるけれども、ライブに来てその場で体験してもらうこととは違うので……。普通ならば、精神科医の先生が描けって言ったある種の強迫観念の中で患者が描くような絵を自ら進んで僕は書いてしまった訳だから。俺はオカシクないってことを証明してる訳(笑)。意識してできる。患者でありながら実は精神分析医でいられる、両方を自分で言っていられるという。おそらく、自分が物心ついて、初めはオカシイっていう感覚とか、憧れてた時期があったと思う。でももうそれではできない。オカシクなったらできないということを踏まえているから、オカシクなる前にやっちゃっているんだ、自己防備とは違う意味でね。そういう意味では、色々な所でそういう環境を用意してもらえて自分では救われてるなって気がする。いわゆるオカシクなるっていうのは、関係性を持てなくなるっていうことだから、オカシクなるのは恐らく一番楽だと思うんだよね。自分はそれを求めないし、表現ってまさに現す訳だから、自分の為にやるっていうことと同時に、見てもらいたい、聞いたもらいたいから、けして自分の為だけじゃないっていうことを再度言っておきたい。
 (活動がそのものが慈善団体に)なれれば嬉しい。一つの言葉で囲って、組織を作るってことがいいのか悪いのか未だに解らないし、未だに自分の中で葛藤を続けているけど。三つくらい偶然が重なってやれるならいいけど、ヨーシこれから慈善団体作るぞっていうのは何なんだろうって。
 これは自慢したいんだけど、今回アイルランドに行けて、凄いことが起きた。耳の聴こえない人が僕のパーカッション・ソロに来て、聴こえるようになった。人っていうのは、慈善でも偽善でもいいからとりあえずやれって。それはどういう効果、例えば街からゴミが無くなるなんて人間に対しての美にはならないかもしれないけど、何か念じていれば、現在生きている魂全部が一瞬にして核要らないって言ったら核が消えるっていうようなこともこれで信憑性が出てきた。たったひとりの人間が何かやることによって、明らかに良くなった訳だから。僕は今まで何かあって、自分がやってることに対してイイって言い切ったことがないの。良くはないけど、悪くないことは確かだった。でも、今回アイルランドで起きたことは明らかにイイことなの。そのことを悪いっていう人は百人中百人いないと思う。僕がやることで、これはいつも言ってるけどリスクを負うってことで、昔のお百度参りのように、母親が自分の病気を代わりたいとか──。(ヒーリング・ミュージックのように)ピーとかやってアハハじゃ治りやしないって。
 ただ、白状しておくけど、これは奇跡ではない、治療なの。(その女性は、スキーやっている最中、極度の緊張から1年間耳が聴こえなくなっていた)いわば詰まっちゃった状態。それを僕が、いわゆる気合いを入れた訳よ。パワーっていうか祈りをすれば、今度は本当に生まれた時から聴こえない人が微かに音の余韻が感じられるぐらいになればっていう思いがあるし。彼女が「聴きたい」って強く思ったのとは違う話で、自分で受け入れようとしたから入った訳。(ライブで)僕が動いている、それを見ているだけでは自分の五感が満足しなくって、ひょっとしたら自然なかたちで聴こえた、五体満足のからだの状態になっていったのかもしれない。すべて空気に触れる訳だし、空気が波動して、目とか耳とか鼻とかを意識してるけど意識する分だけ間接的なものだと思う。皮膚は直接的にそこにあるすべてを受け入れられる。それが波動として入っていったら、血管がどんどん気付いて、いわゆる自然の状態に向かうような気がする。反対に、喋れない人がメッセージを言いたいがために喋れるようになっていたかもしれないし、ただ今まで僕がそうしたいそうしたいって偽善的に言い続けてきたことが、偽善的であろうといい結果が出たんだから、みんなもっと偽善的なことをやるべきだよ。
 僕の音楽って、初めライブで聴いた時、10分くらいで逃げ出したくなるって。耳がもうオカシクなる、こんな所に連れてきやがってって思って、そのうち1時間くらいすると次には自分が宇宙に放り投げられた気分のようになる。初めはとにかく怖かった、知らないトンネルがあってそこに無理矢理引きずりこまれて、そこは真っ暗な道で、でもでもでもになるけど、何だか知らないけど安らげると。なんでこんなウルサイのに、力が抜けて、眠くなり、安らげるのかっていう感想が多い。それが自分がいいヴァイブレーションとして送れているのか、あるいは攻撃的な、負の否定的なパワーを送っているか伝わるようになってきたのかな。初めの頃は伝え方がまだわからなかったし、この辺までいくけど届かなかった10年くらい。持続したことによってスピードが増したんだと思う。加速っていうか、例えば3時間弾いていても、前はこの辺で留まっていたものが、いまはからだの中の脳細胞まで入っていけるも。これはある種の持続がないと。
 話を元に帰すけど、本性っていう。僕の本性というよりも、神経の本性っていう、何でも隠されてるものってホントはすっごく見られたいんだよね。ただ今はまだ見られべきではないとか……ないものなんてまさに無いんだよね。その意識がもうそこで、自分が、私はある、ゴミがあるかって意識の話になると後は見るか見ないか、聴くか聴かないかになる。みんなそうだと思う。感じるか感じないか。彼女は気持ち良さそうだから聴こえたんだ。(終)
 ※後記 この後も話は灰野敬二の演奏そのもののように続いたが、それはまた別の機会に紹介したい。「最後に何が言いたいって言ったら、僕は音楽が好きです。音楽がで、音楽は、でも音楽も、でもなくね。」

☆トーク・エッセーvol.1~9は、昨年6月のインタビューを編集

合田成男 雑話 1

要するに現実の仕事を持ってないと──
 現実から受け取るもの、あるいは現実に向かって吐き出すもの、そんな作業が体の中に出来上がってこない。だからやっぱり、熾烈に現実と向かい合っている。それでフッと引いたときに踊りが出来上がると言うような受納の体勢をね、外部がないと駄目なんですね。ところがダンサーはダンサーでいいと言うようなことになってしまって、ひ弱くなってしまったね。やっぱりエネルギーは外からもらう、もう雑然として訳も分からない所からもらってくる。そこの所に〈からだ〉を晒さんといかん。 そんな瞬間を持って何かを、自分自身をキャッチするような、そういうタイプだったんじゃないかな。土方だってそうだろうと思うよ。舞踏の初めに現れてきて「禁色」を出した。「禁色」で舞踏を開始した、という風に言われるのは後の話でね。土方はその時既に、何て言うかな、「病める舞姫」にあるように、幼少の頃からもう悲惨な状態を乗り越えてきてね。東京にやって来て、ダンスによる表現と言うものをおよそ五年、安藤哲子さんだとか、ああいう所で盗み取る訳だ。盗み取るんだけれど、そして自分の一番やりたいことをやれるチャンスがきて、自分のやりたいことをやると、鶏(にわとり)を抱いて転がると言うようなことね。

「禁色」だって一つの結果ですよ──
 「禁色」で何かをやろうなんて以前に「禁色」をまず出す。それが抵抗されて混乱を起こす。起こしてそこから離れる。そして独立し初めてここで舞踏だ、と言うような所に入っていく訳なんだけれど、舞踏の初めを考えればもっと前から始まっているはずなんだ。その元の所まで戻っていくとしたら、さっきから言っているように現実と自分の向かい合いね。その形が始終刺激的にあって、受け入れて、それを自分の身体の中から今度は逆に出して行く。そして失敗したり成功したりすると言うようなことだがね、もう堆(うずたか)く積もり上がって行かなければならない。だから刺激が多い方へ積極的に身体を持って行くべきだというふうに、それを土方はちゃんともう小さい時からやっているんだよ。

自分の小学校を遠くに見ているんだ──
 そうすると音楽教室があるんだね。そこに窓がずっと並んでいるんだよ。それでその窓は変哲もなく並んでいるんだ。すると奇妙に何かを増殖している。増殖するって言うのはその内での問題だ。一足す一は二、二足す二が四と言うようなこと、それで九九までいく。九九まで行く。それを一生懸命教える訳だ。すると実はからだと九九とは関係ないんだよ。ないんだけれど、一足す一は二だっていう風な、そういう所でどこかで止めてしまえば、教育はひょっとしたら、その数字は身体の中に入るだろう。それがどんどんどんどん頭の中だけ、でこう、それをね、増殖と言ってる、土方は。〈奇妙な増殖があって、馬鹿正直な景色だ〉って言ってるね。そういう風に言う彼自身がもう既にその時あったんだろうね。
 それは彼の現実から言えば、学校が嫌いだとか、或いは学校へ行くこともあの姉の問題があったりして、恥ずかしい思いで学校へ行かなきゃいけないと言う、切実な何かを持ち歩くんだからね。その結果かもしれないけれど、とにかく〈奇妙な増殖、馬鹿正直な景色〉と言う、そんな書き方をしているね。だから「禁色」が出来上がって、僕達はそれを舞踏の初年だというようなことを言うんだけれど、実はそうじゃないんだな。そのずっと以前からからだのことが彼の中であって。

やっぱり戦争にちょっと遡る気もするんだけれどね──
 戦争はまぁ戦争でいいんだよ。終戦後なんだな。何て言うかな、僕なんかつくづく戦争が終わって感じたあの心安さと言うのがあるんだね。バーッと解放されてね、何だかからだ中がボーッとこう緩(ゆる)やかになっていく事をね、ずっと感じていた時期がある。フッと横を見ると皆同じように苦しい生活を始めている訳だ。ひどく平等感があるんだ。それは、ちょっとある意味じゃ平和みたいな感じがするんだよ。それは多少の貧富の差はあっても、皆苦しい所から抜け出してきたって言う共同体みたいな気分があってね。それが続いて行くだろう。何て言うのか、つまりいい意味でそれが膨らんでいったり、満ちていったりするだろうという希望を皆が持っていたんじゃないか。ところがそれが次々と崩れていく。そうすると六十年安保が出てくる訳なんだけどね。その崩れて行くそういう状態が、踊りの世界の中にもあったような気がする。
 (戦時中は)現実がひしひしとやって来る。否応なくやって来る。それに向き合う。その手段としては滅私奉公しかない訳だ、そんな所へ潜り込んで行くんだけれども、滅私奉公に燃えられるような何かがやっぱりあった。ところが終戦後、一時そういう非常にくつろいだ、開かれた、あるいい時期があったんだ。それが短時間の内にどんどんどんどん消えて行く訳だ。消えて行くと、今度は商売さ、商売をやると、昔ながらのお嬢さん芸みたいな事ばっかりを売って歩いて、そして舞踊そのものをホッと感じたような事と結び付けることもなく、あるいは戦前のカーッとなったやつを維持してくると言うこともなくね。突然ね、僕は日本の舞踊界と言うのはゆるんじゃったような気がする。何をやっていいか分からなくなるんだ。そういう事は一般にも言えるんだけどね。一般の表現者達の中でも言えるんだ、がやっと立ち上ってくるのがね、良心的に立ち上がれる人達、これ五十年代後半ですよ。立ち上れない一般の舞踊家達は、そのままどんどん淡くなって行くわけ。ところが現実には舞踊界と言うものを彼らはがっちり持っている、一種の窒息状態になって皆が馴れ合いになっている。そういう状態の所に、土方が、からだが出てくるわけだ。
 あの真っ暗な舞台作り、見えない舞踊。これはやっぱり誰もやっていないことだろうというような気がする。センセーショナルな、あるいはジャーナリスティックな、そういうとらえ方ではなくて、それがそこにあった時の根拠って言うのがある。真っ暗で見えない舞台ということなんだ。舞台の暗がりを発見したこと、暗がりを置こうと思ったこと、あるいは、あぁもうそれでいいんだよというような所で切ったか、ね。もう暗くていいじゃないかと、見せちゃ行けない禁忌なんだから、それでいいじゃないかぐらいの、気楽な感じかなと思ったりするんだけどね。
 あそこには「病める舞姫」に出てくるような幼少の全く個人的な悲惨さ、あるいはその悲惨を耐えてきたからだ、それはあんまり感じられない。あまりにもきれいに出来上がり過ぎている。白黒もね、きれいに出来上がり過ぎている。非常に単純になって、あんなに単純になるというのは難しいことなんだけれども、それはもう投げ出すような調子でやったのかもしれないと。

結局土方を見て舞踏、舞踏だーっと言う風になった人達が、
今衰えていっている──

 その理由はやっぱりそれをからだに戻さなかったからだ。現象なんですよ。現象を受け取って、それを後継いでいけば何か出来るという風なね。舞踏、舞踏と言い始めると衰えて行くわけだ。舞踏じゃないのよ。こっちに舞踏と言うものがあり、外部の条件になれば、からだにその舞踏、色んな人の舞踏を見た、そこからいっぱい入ってくる、入ってくることによって自分の中でもう一回作り直すようなね。からだを経過していく時間がないと、やっぱり舞台は継続して行かない。
 ちょうど今一番悪い時期なんだ。ずっと舞踏の概念を追いかけてきただけのような。すると力をなくしてしまってね。だからやっぱり外に出るべきなんだよ、本当にね。日本でだったら、それは社会的に、社会と直接接するような状態になった方がいい。あなたが言う、職業を持っていて、一方で踊りをやっていただろうと、そういう昔の民俗舞踊なんかの正しさがあるわね。労働があるから踊りが発生したと。ただし踊りそのものが私達のからだの中にあるんだよ。これは簡単に言えば、私達はどこかでバランスを取らなければいけない、というような。これは生きて行くためのバランスを取るということ、そのバランスを失してもいいじゃないかという二つのものを持っている訳だからね。だから本然的にはからだの中に踊りと言うものがあるんだと、そしてそれが労働の果てに何かを満たす動機が入って来ると、ちょっと手が動いていったりすると言うような所から発生してくる正しさね。正しいね。それを今なくしてるね。なくしてるよ。

合田成男 雑話 2

記憶なんて言う問題がまた出てくるんだ──
 自分の中から掘り起こさなきゃいけない。その頼りになるのが記憶だよ。その、記憶を掘り起こしてみると影があるんだ。その影をね、自分ではっきり意識する、あるいは認識するというような過程がある。そういう所へどうしても入って行かない。入って行かないから何て言うか、ポスト・モダンなんて言われるとパーッとそっちへ走って行けるんだろうと思ったりもするんだ。そこで自分を許してしまうとねぇ。ことが起こってくるんだろうと思うんだ、やっぱり今ここにあるからだから発するべきダンスだと、僕は、ダンスと言うのはそういうものだと思うんだよ。

ここにあるからだと言うのはね、誰も分からないんだよ──
 そんなこと関係なく習ったものは表現になると、そのへんのことで皆処理しているんじゃないか。あるいは他のものを見て、そこから気付いたものをやって見てダンスになっていると。そういうからだが出来上がっているつもりになっているんじゃないかと。まぁそのへんがね、困っちゃうんだよね。

自分のからだの中からものを探す──
 そういう論理が持てなくなっているね。それはもう明らかに論理なんだけれど。そして実際に生きて行くと言うことの必然的なことなんだけれど。でもそれを試みないのは何だろうな、恐いんじゃないかな。だから全く個人がないね。個的なものが。だから政治から何から全部含めてね、そういうものを許容し、そこにゆっくりと落ち着くような環境を作るべきだと思うんだけれどね。いや、それは戦前そういうものがあったかどうか。でも戦前のある種封建的なしきたりみたいなものの中に、まったく一人になってメソメソするような時があったんだよ。今もあると思うんだけどね。メソメソっとする子供達がメソメソーッとしているようなことがあると思うんだけれど、そういう場所がない。場がないね。家の中に影がない。家の中が皆明るいよ。これはまぁ健康趣向だろうと思うんだけれどね。やっぱりじめっとしたような物が、もう周辺になくなってきてしまっている。そうすると人間干からびて行ってしまってね。

「病める舞姫」だって皆読んでないんだよ──
 読んでないんだけれど、「病める舞姫」の聞いた情報だけは皆持っている。だから読みなさいって言う。読んで欲しいんだよ。それを読んでみるとね、あの本のスタイルが一つあるんだ。それはね、時間を全部ブッ切れるんだ。ブッ切れる理由はからだの時間だから。だから私達は皆普通に道を歩きながら、こっち見ながら何かあっちを考えているみたいな事があってね。すぐに今度はこっちを見るんだよ。それで真っ直ぐ歩いて行くんだけれど、右行ったり、左行ったりして、ジグザグに歩いている。そういう状態が、あっち行ったりこっち行ったり、その文体が読み切れない。でもそれをからだに戻せば簡単に読めるんだよ。それを一生懸命言うんだけれどね、なかなかやっぱり納得されないみたい。

受容する、受納するって言うことがどれだけ大切な事であるかを、
一生懸命読んだんだな──

 現実に接しないと受納と言う事はないんだ。だから現実にからだをまず乗っけて、そしてそこの所でぶつかったものを受け取る。受け入れてふっと出してみて、そしてまた受け入れて受け入れて受け入れてって言うような事があった時に、気が付いたら変わっていた。それは、しかしある年代までのことだ。そこんとこで出来上がったものが土方の「禁色」だね。それまで出来上がったものが現実に流れている舞踊の世界とぶつかる。もうあきらかに自分のやるべき事ははっきりしているんだ、と言う所へすっと還って行ける。それでそれを捨てることも何もかも出来ると。まったく孤立している。孤立の歴史を持っているからね。十分その何て言うか、楽しんでいるという言い方はちょっと違うんだけれど、自分の変わり目を知るくらいのゆとりのあるポイント、ポイントがある。そしてそこの所に今度は乗っかって行くんだよ。そうすると章によって書かれている対象が変わってくる。自分自身の中の混乱を書いたりとかね。ちょっと横を見てね、そこの少年達との関係を書き始める、というような所にずーっと移って行く。まぁ僕はそれをとても自然なことだと思うんだけれどね。だけど、あの悲惨さをよく受け入れて行くんだね。大変だろうなという風に思うよ。だって三人身売りされているからね、三女まで。そして親父がもう滅茶苦茶なんだから。

押し入れの中にね、やっと漂着したって言う言葉があるんだ──。
 流れ着いてね、やっとここへ漂着したと。その押し入れの中でも、匂いと温かさとあの空間だね、安定した空間。自分の寸法に合う空間だ。その中で横になっていて、そしてけむり猫って言うの?足を持ち上げて布団がこう持ち上がって、ポテーッと落とすと猫が出ていくって言うね。そんな事をやって。そういう物がなぜ漂着しなぜそこでからだの衣更えが出来たかと言うことが、次の章に書いてあるんだよ。次の段落に。それはね、耳から聞いたことが口から出て行かなくなった。それでだんだん自分の動きが小さくなって行く。そうするとその押し入れの中の世界に、普通のおばあちゃんがやって来て、「何処のあんちゃかね」と聞く。何処のあんちゃかねと聞かれることを、普通に受け入れられるようになってきた。そういう大変具体的なことが並んでいるんだね。このへんもね、漂着してから押し入れの中で、漂着して、衣更えからこう入って、そこに事件があるんだよ。何の事件か。金の問題か、あるいは娘の問題か。あるいはもっと他の色々な問題かよくわからない。ともかく家の中が騒動になるんですよ。騒動がおこる。ところがその事件を押し入れの中で聞いていて、口から出さない。少し前の彼だったらカーッと表へ飛び出して行っちゃうんだ、押し入れの中からね。そういう受け身の変わり方がね、自分が積極的に変わるんじゃない、いつの間にか変わって来ると言う、こういう進み方をね。これはやっぱり悲惨なんだな。受けていく受け方なんだ。全部受けていく。だから悲惨がそこでふっと、その将来のことを考えてみると、ずいぶん財産になる、財産に変えることが出来る。だからね、皆どんなに少々苦しくったって、若い人も含めて苦しくても何でもいいから、とにかく世間にからだを晒すことだな、という風にも言いたくなるね。

完璧な物化が前提に考えられる、大変具体的な技法が
その中にあるんじゃないかな──

 ということは、自分のからだが観客、要するに劇場だ、劇場の中に、舞台に出て行く時には完璧な物だね。だからその物化、物になった自分が手足を動かしながら変化して行く、その変化を見せなきゃいけない。あるいは行為そのものを見せなきゃいけない。そのためにはからだはすっかり物化しなければいけない。主観的なものを全部排除してでもね。それは土方の考えている形の世界よ。その形が変化する事によって何かが伝達される。その変化の主体にならなきゃならない。その変化の主体になる為に、その変化を自分の中から発見しなきゃならないもう一つの主体性を持たなきゃいけない。この主体性と関係を持つのが、現実の外部なんだという事を僕はさっきから言っているんだ。

例えば同じ事をずっと繰り返して行くだろう──
 それは観客も努力しなければいけない。僕みたいな立場にあるのは、何かこう見て行くわけね。そうすると腐ってきたり、奇妙な匂いを発したりするようなね、過程をずっと見て行くのが面白いんだな。これもまた自分に戻って来るんだよ。そうするとふっと自分の中で腐った時だとかね、匂いを出している時だとかね、出しただろうと思うような事が、いっぱい思い浮かべるような一つの刺激になるんだけれどね。これもいいんだ。でも、もう何か明らかに意識と言うのかな、意識じゃないんだけれど、ただ気付くだけ。そしてそれがどんな風に広がって行くかわからないし、劇場出たらパッと忘れてしまうかもしれない。でもその瞬間はあった、そんなようなことを舞踊はね、提供するのがいいんじゃないか。その時にはからだは物になってなきゃいけない。だって実際に僕達が道を歩きながらすれ違う人達は全部物よ。実際にね。そりゃ可愛い子供が来て、子供っていう物がやって来て、こうニコニコっと笑ってくれたり何かすると、土方が言ってたよ。俺も年を取ったなぁ、横に座った赤ん坊に笑われちゃったよ、そして笑っちゃったよって、年を取ったなぁっていつか言ってたけどさ、そういう時間は土方の中にも残っていて、そして話にもなって出てくるんじゃない?そういう、こう何かな、<突然に行き来した>というような事があるといいね。

合田成男 雑話 3

具体的に触れた舞踊あるいは舞踏──
 そういったものと向き合って生きるために見ているという、それだけだったような気がする。座ってものを見ている限り、その時間はやっぱり刻々に過ぎて行くんだけどね。自分の生命は刻々に落ちてゆく方向に行くだろうと。
目の前にあることを克明にみて、もう一回再建できるかできないかということがどうも──
 私の中で再構築する、再構築できるかできないかということが、どうも私の中では一番の問題なんだよ、というふうに考える。それが私の中で再構築させるほどにつながるかつながらないかという問題だ。

見たことのないものを見たい。──
 見ることの欲が、あるいは今までにないものを聞きたいという欲が。その欲を充たされたときには、もう大万歳するね。それはたとえばまあ「禁色」を見て、その時に「禁色」のホモセクシュアルという主題も、それから表現の簡潔さもぜんぶ僕の中に入ってくる。あんなふうに僕は生きられればきっと素晴らしいだろうなと。入ってくるとね、からだがフワーッと呼吸するんだよ。そうすると本当に気恥ずかしいくらいボーッとしちゃうんだな。そしてボーッと入ってきた、そのへんを僕は舞踊だと、舞踏だというふうに思うんだよね。そうして入ってきたら、それが抜けて行かないからね。自分の中にちゃんと体験として入っちゃうんだよ。

再構築できないから駄目だというような言い方になっちゃうんだろうな。──
 それは私にとって駄目なんであってね、人様にとって駄目なんではないんだ。でも何ていうかな、そういう作業をやっぱり薄々感じてくれる人はいたみたいだね。だから続いたんだと思うね。やっぱり他の人にも、その作業に近いある受けとり方、あるいは生き方というものが僕にはあるんだろうというふうに、何ていうかな、嬉しく思ったときがね、何回かある。

いい踊りは、いい踊りはわからないからね。──
 わかろうとするようなところがある。それは別に頭で数字のようにして、こう見ているわけじゃないんだ。一番大事なのは、ぱっぱっぱって何かがやって来る。要するに作品としての肌合いが出来上がっているかどうか。それが来るか来ないかがまぁ最初にあるんだけどね。そうするとそれが来て、とてもいいものはわからない。オヤッと思うんだな。どこから来たものだろうというような感じ。そのどこかから来たものを一回確かめたいと思って、持って帰って再構築するね。データをこう一生懸命集めてそれで再構築すると、あぁこういうことなんだって、しばらくしたらわかる。それと、自分で、これは再構築できない、違うぞって言いながらもどこかで引っかかっているものがある。そしてそれは一ヶ月ぐらいたって、忘れた頃にまたワーッと出てきて、そしていやここは僕の考え違いだったとかね。書き損ないだったって、こう一人で赤面する。

私に入ってくる要素そのものは。──
 けっして部分的な動きだとかそういうものではない。全体の肌合いのようなもの。要するに生々しくすーっとやってくる。感じから言えば、ちょっとあったかいような感じだね。これは自分の中でもデータを並べていって、もう一回それに肌合いを再確認できるかどうかという問題。これ、わからないことがあるんだよ。わからないということは、その肌合いが非常に濃密であった場合。濃密であった場合には、こっちが混乱する。それで混乱したまんま帰ってくる。その混乱を、今度は自分を救おうとするじゃない。何とか整えようとする。だから一生懸命もう一回再構築する。そして救われるかどうかが決まる、というような作業をどうもやっているような気がする。

踊り手の、そのからだだけが動機であって、そして表現体であってというふうなだけではすまない。──
 これを舞台に乗っけるということ、要するに生身の自分、からだを充分に意識して、意識的にからだを意識化しているというようなからだが、もっと意識、もう一段意識化されなければならないというような、これはやっぱり舞台なんだな。そうすると普通の舞踊家あるいは舞踏家は、自分のからだをこっちに持っていて、それで別のところにからだを持っている。この間をつなぐものは一体何かというふうなね、問題が出てくる。そうするとそれは安易にすれば、ある種のシステムに乗っかってくるとダンサーになって、そしてダンサーが出ていけば踊りができ上がるというような、そういう非常に安易な流れがね、ずいぶん周辺にいっぱいあるわけだ。それ以外のことを全く見ないような、それがさっき言ったオモチャだよ。まぁビジネスというか、もっとなにか勝手な欲望を自分のなかに高めていって、その上へその上へ行こうとか、そういう欲望はきっと持っているんだと思うんだけどね。それは客観的に見ればオモチャにすぎない。でもやっぱり一回は、オモチャになるというような危険なところまで、何かやっぱり修練しなければならない、訓練しなければならない。要するにその訓練というのは、自分のからだから表現体への距離をきちっと尺度することだろうな。結果として尺度できるんだと思う。そういう訓練はどっかでしておかないとならない。これは仕方ない。今の劇場のなかに、舞台の上に乗っかるという意味から言えばね。明らかにデフォルメされなければならない。ナマのまんまのからだはそのまんまでは通用しないということだよね。

舞踏の過程のなかには、からだというものを物化してみなければならない過程がある。──
さっきから言っているようにからだが表現体になるための一つの手段。そうした場合、土方の微粒子論みたいになね、ぜんぶが粉々でぜんぶが等価値で、それを再構築したのが人間なんだというような極端なところまで、要するに非常にラディカルなところまで行かなきゃならない。そしてそこから帰ってきたときにからだが快復する。そういう一種の病気のようなところまで、自分のからだをずっと進めていかなきゃならないというのが、どうも舞踊家のあるいは舞踏家の、とくに舞踏家のやるべきことだろうというような気がする。そうすると農作業は苦しいといったようなことが、そこでサッと解消されるんだな。

自分を再構築する習慣を持つとね──
 かなり色々なことが見えてくるんだよ。他人のことを再構築するだろう。それと同時に自分を再構築しているわけだ。ということでからだの調子が悪いっていったらね、助けられるんだよ。ということは、ボシャラッとしていなければ、人の歩行なんか見えるはずがねぇじゃねぇかって土方は言うんだな。だから自分も同じように元気に歩いていたら、人の歩行なんて見えない。人が歩いているのを見るには、ボシャラッとしていなければならないという名言があってね。そうするとボシャラーとかあるいメソメソッとか、あるいは何と言うかな、ものを飲み下ろせないような状態そのものをどこかでパッとつかまえてしまうと、一変して明らかになって、そして明るくなる。決して暗いことではない。だから舞台の上でも明るくて力強いと言うようなことが、そういう意味でね、ボシャラーとしているものの形、形にならないものを明確にそこに置くことなんだよ。決して明るいことは明るく振る舞うことではなく、ボシャラーとしたものをキチッと置く。置いてみると、それはかなり強く表現になる。表現になって、ボシャラーとしている表現が入ってくる強さは、保証されるだろうというような気がするね。

軸の問題──
 さっきからからだと言うでしょ、そして表現体というでしょ、ここを渡っていかなきゃいけない。こういう過程が一応ある。それで渡っていったときに、このからだそのものは機構を持っているから、当然行為はぜんぶこの軸から出る。この軸は生理的な軸なんだ。そしてもう一つこっちにあるからだが軸なんだよ。向こうにからだの軸があって、こっちに表現体の軸がある。この二つを結び付けるという、結び付かなきゃいけない。そうするとからだはもっと自由になって、この軸をまた舞台の上へ置いて、前へ出られる、横へバシッと行ける、色々なところへ走って行ける。でもこの軸は示さなければいけない。要するに骨格的に知らせることができるのは、ここにもう一つの軸があるから。この軸は社会的に、日常的に、色々の現実的に、あるいはもっとイマジネーションを含んだある種の世界だよ。これがこっちに押し寄せてきて、これがからだをもう一つ前へ置く、出してくれるというようなね、こういう玉突き式にトントーンと行くようなね、こういう関係がザーッと通っていかなきゃいけないみたいだね。

よだれを流すということが──
 普通の舞台では有り得ないことだ。生理的によだれを流すまで自分が変容していく。そういうものをあからさまには見せないわけだからね。われわれだって日常よだれを流して、そんなところ人に見せようと思わない。大急ぎで拭くじゃない。あるいはちょっと気恥ずかしいような感じになるじゃない。よだれが出てくるある種自然な時間が続いているということだろうね。そうするとよだれだけじゃない、他の物事も含めてやっぱり軸が見えてくる。あれやったりこれやったりではなく、人個人が、自分の中のある種の必然と言うか、そういったものでついついよだれが出ちゃったというような状態は、雨が降ってきたことと同じだよ。軸にさそわれて僕達は、舞台に入っていくんじゃないかな。

合田成男 雑話 4

個が生まれて死ぬということなんだろうね。
 だからそれは、あの表現に結びついてくる根拠は、僕は呼吸だろうという気がするよ。なぜ吸うのか、なぜ吐くのか、これは全部からだの機能であって、我々の意識とまったく違うところでやっていることなんだと。そうすると、そういうからだをこう持ち出してきて、既成の概念なり観念なりといったようなものと向き合わせることが、ひょっとしたら舞踏、舞踏のね、一番の主題であるかもしれないと、テーマであるかもしれないと。ただしそのためには、この個が生きている現実、実際の周辺の、外部の条件が必要。条件が必要ということは、この個が生きていくために必要で、要するに刺激を受ける、そしてそれを受納するね、受納してそれが自分の中から表現の動機になるという。

ある意味の訓練というか体験、
 そういうものを重ねていくとひょっとしたら今の時代とか、そういったものと結び合える。そうすると今の時代と自分のからだの関係がどうも上手くいかないということ、そのことが僕は動機になると。動機になるとそのからだは、これはまぁ表現といえるかどうかはわからないけれどそのからだは生き方を、生き方を選択する。そうすると、それが表現になってくるのではないかという気がするんだけどね。だからそこでは、何て言うかな、例えば電車に乗るというような簡単なこともね、条件になってくる。からだがダルいということも条件の一つになってくる。風邪をひいている、あるいはとても元気だということも全部生き生きとした条件になるはずなんだというふうに考える。例えば、あなたが実際にここで表現する、踊るわね。踊ったそれもまた動機になると。そういう周辺、もうあらゆるところに僕達の感覚は拡がっているんじゃないかなというような気がするんだけどな。

見たことのないものを見たい。──
 見ることの欲が、あるいは今までにないものを聞きたいという欲が。その欲を充たされたときには、もう大万歳するね。それはたとえばまあ「禁色」を見て、その時に「禁色」のホモセクシュアルという主題も、それから表現の簡潔さもぜんぶ僕の中に入ってくる。あんなふうに僕は生きられればきっと素晴らしいだろうなと。入ってくるとね、からだがフワーッと呼吸するんだよ。そうすると本当に気恥ずかしいくらいボーッとしちゃうんだな。そしてボーッと入ってきた、そのへんを僕は舞踊だと、舞踏だというふうに思うんだよね。そうして入ってきたら、それが抜けて行かないからね。自分の中にちゃんと体験として入っちゃうんだよ。

なおかつね、もう一つわからないことを含んでいる。
 要するにからだの中にわからないことを含んでいるということは、何というかな、巨大なもの、観念でもいいや、あるいは世界の果てへの空想でもいいや。それをね、どこかで制御しているわけだ。制御していると同時に、また限りなくわからないから、限りなく拡げていくというようなね、そんな作業のしかたをしている。周辺の、現実の条件が条件を全部まともに受けていくと、時代にある存在のしかたが出てくる。文化的な背景も色々なことも全部ふくめて。そうすると外へ向って大きく拡大する方向を、個が選ぶかどうか。あるいはもっとそれを拒否するような方向を選ぶかどうか。どっちも僕は成立していることなんだろうと思うんだけどね。

ふっと振り返ってみれば、何てまぁ、もうこの年になるとね、
 何てくだらない、人生とはくだらないというようなことをね、言いたくなるような瞬間だってあるよ。それからまた一方、何か大きなものに刺激を受けたら、こんなことも知らなかったのかと、急に目が覚めたような感じにも受け止められる。どうも何かその辺のことがね、わからない状態を僕はからだといってしまう。
天然自然に違うというようなことに寄っかかっていると、からだのほとんどは概念で固められるから、その概念を押し出すくらいの一種の作業が必要だ。そうでないと自分自身になかなかなれない

感じなくてもね、言葉を使っちゃうという間違いをたくさん重ねてくると、
 もうそうやって重ねてきた言葉が死んでいくわけだね。死んでいって、こっちにも入らないし相手にも入らないだろうというような感じでくるとね、全部死語なんだよ。ふっとそういうふうに思うことがあるね。なんだもっと早くにだんだん死んでいく準備していたのか、あるいはもう死んでいたのかというふうなね。そういう悔恨が出てくるな。悔恨とまではいかない、もう駄目だという諦めみたいなものが出てきて。だからそう言ったところから離れるには、一回真っ暗闇の中に座っている以外にはないんだろうと考えちゃうんだな。まだこれは逃げ手なんだけどね。ただし現実には闇の中に恐いこともたくさんあるだろう。恐いこともあることを含めて、どこかでまた僕自身が選択する。一方は消えてしまってもいい。一方はそこから生き直してくる、再生するだろうというような、何かそのへんで迷っているんだよ。

こうやって煙草を吸ってても知らないものね。手がどういうふうになって指がどうなっているかということを、
 僕らは知らないまま煙草を吸っているわけ。アッチッチていうんで知るぐらいのものだよな。そう、探せば、いっぱい気がつけばたくさんあるね。しかし気がつかないでいってしまうのは何でかね。形とか魅力的ということではないと思うな。やっぱりお百姓さんが種を植えることから憶えていくというような、しかもそれをからだで憶えていくというふうなところへ入ってくるのと同じように、本来なら日常の中で自分のために勉強することがたくさんあるはずなんだ、からだのためにはね。それをやらないで済んでしまっているんじゃないかな。

ある意味では概念的なものをぜんぶ壊していくような、
 そんなことになると、今度はからだが本当に表に出てくるんじゃないかという気がするね。ただその壊すということも難しくて、とうとう僕なんか何も壊さなかったけど、やっぱり壊すんだろうな。その壊し方だろうな。壊すという雑然としたことではなくて、具体的に壊れてこなきゃいけないわけだ。ある一つのことを選ぶ。選んでそれが具体的に壊してきて、何でもかんでも放りこんでしまいたいような複雑な空間が見えてくるとかね、というようなこまごまとした流れがないと、やっぱり複雑さなんていうものは出てこないんじゃないかな。いやそのへん良くわからないんだけどね。

例えば与えられたものの中に自分を滲ませてゆく、
 自分はそこにあるんだから。そこに与えられたものを受ける。受けてその形を作り上げることができるダンサーは、やっぱりいいんじゃないかというような気がする。それは素朴に言えば小さい子供から全部にある、お婆さんにだってあるんだ。ところがそこで問題になるのはやっぱり主体性なんだ。主体がどういう生き方をしているかというようなことだ。ここでまた、問題はとても混乱する危険性はあるんだけどね。普通の場合だったらああいう伝統的なもの、様式的なものをどんどんドンドンやりながら、そのやっていることによって自分を充たしていけるセンスがないと。だからあることをやりながら、なおかつもっと他に夢を見るとか、夢を見たところまで自分のからだを引き伸ばしていこうとか、何かそんなふうなことをほとんど知らないでできるという。ということは主体というのは実はそれほど正確ではない。言語的に固めてみても、それをするっと抜け出していくような破天荒なものを持っている、当然何をやっているか自分ではわからないんだけれど、何となく単純に言えば気持ちいいとか、あるいはここはこうしてみようとか、何かこう自分を投棄していくようなね。はっきり鮮明にしていく作業なんだろう。あるいは時間なんだろう。そんなものを見ると僕らの方で動きが見えてくる。からだの中の、踊りだけではなく、与えられた動きだけでなく、からだの中の作業が見えてくる。そのへんがいいんじゃないかな。

要するにある考え方としての文化的なもの、文化だね。それと関係ないところで感じ始めるでしょ。
 そうすると困るんだな。職業的に困るんだね。そのへんを行ったり来たりすることが、もう器用にできなくなってしまった。器用にというか、距離がどんどん出来上がってくる。しかも体力は衰え呆けてきている。これを渡るのが大変だ、そして戻ってくるのも大変だというようなね。このへんが歳を取るということなんだけれど。白州に行ったらそういうことが関係なくなるわけだ。人のものを見る必要も、おしゃべりをする必要もない。そこでじっといる限りは、かなり物事が近づいてくるんじゃないかと思ったりもするね。

からだをやっぱり、まぁこれも言葉なんだけれど、その瞬間瞬間にからだを、動いているからだを知りたい。
 白州で経験したことは、帰ってから時々思い出して追体験するというような中で、知り始めるんじゃないかなと思ったりするけどね。その瞬間にはわからない。ただし、何かのために外部からの条件で迷うことはないだろう。そういう時間を過ごしてみたい。そうするとこれは後の余生につながるか、あるいは余生を否定するかどっちかだろう。ということは、

どこかで僕も瞬間を知りたいんだよ、瞬間を。自分で、今が瞬間だと。
 だから風呂上がりで読んだ本のなかで、ああこうなんじゃないかと思ったその瞬間は、多分僕が感じる瞬間なんだと思うんだ。だけどからだが冷えてものを着る、それはすっと消えるわけだ。ある動作を起こしたらすっと消えてしまう。しかし立ち上って衣服を着たときにもその瞬間はあるはずなんだが、何か周辺の日常と混じってしまうんだろうね。目的だからね。だから土方の言った、からだが引き上げていってしまって、残っているものが空気をつくっている。この厚い空気をつくっているんだというようなところに、それを感じている瞬間とそれを見ている、見て再構成しているある時間帯、これはもう舞踏だよ。こっちが、我々の目に見えている舞踏だ、こっちは消えていく動機なんだというふうなことが、もうちょっとはっきりわからんかなと思ったりするよ。

合田成男 雑話 5

とにもかくにも白州町での独居四十日を終えた。お世話になった方々を列挙して、感謝の意を表します。
 まず、谷間の森を開放、提供してくださった園長さんこと大輪武三氏、この企画の賛同者田中泯、掘立小屋を建ててもらった夏井秀和、鈴木啓志、菊島申倖、原田悠士、おいしい食品を差し入れしてくださった棚橋亜佐子、モリーン・フィラン、飯島身佳、生活記録者(ビデオ)石原志保、そして玉井康成の諸氏、特に老人の身体行動力学を無視した空間を構造、私を身体的に苦しめた鈴木君(装置)には、こん畜生(賞)のひと声を贈ります。
 
 この夏、7月27日から8月31日まで、山梨県白州町、中山の谷間で、独居の四十日を過ごした。ひたすら独りになりたいという願望と最後の機会だという決断そのままに逃げ込んだ森の生活であった。ただ、場所を選ぶための条件は独居願望の最初から決まっていた。電気のないところであった。それは同時に、外からも電気の光の差し込まないところでもあった。そして水、ただ、それだけであった。狭い谷間、頭上を覆う樹々、条件は完璧に満たされた。からだにぴったりと纏い着く甘美な闇を知ったし、厚い緑に囲まれて退いてゆくからだの陶酔も感知した。猿軍団に包囲されて猿世界に移行してゆく柔和な微笑みの体験もした。反面、身体はかなりのダメージを受けた。入居してまもなく胃潰瘍になった。過去の経験からそのように自己診断した。そしていま(帰宅後)も痛みは治っていない。それだけではなく、肺気腫も判明した。四十日間の青色吐息の生活は当然のことだったのだ。しかし、いま、つぎのように感じている。この身体的苦痛は、例に挙げた精神的愉悦をより色濃く、より確かにからだのなかのものとして残留させ、機会あれば復活し得る契機となるだろうと。それだけではない。この独居生活全体を土あるいは地面、地表、大地と強く結合させ、これまでの生涯に経験し得なかった場をからだのなかに覚醒せしめたのも、からだの影ともいうべき青色吐息の、この状態の不自由さであったと考えている。いい換えれば、私はそのようにして初めて地表に降り立ち得たという実感なのである。そして、水平への志向ががこの晩年の老批評家に初めてのような新鮮さで訪れて来たことである。へとへとになって「この森のなかに汚いものなどあるものか」と独語し、哄笑していた子供のような私がいたのだ。
 それは確か8月3日のことと思う。入居して一週間、どうにか生活の順序も決まって、計画中から決めていた仕事めいた作業に取り掛かっていた。土方巽の「病める舞姫」から頁を追って言葉を抜き書きする単純な作業である。これまで土方巽を語ることは多かった。あるいは多過ぎたかもしれない。しかし、幼時の貧困、病弱、孤独といった彼を巡る環境や彼の身体的な状態、現実的な心情に根拠し、彼のからだのなかやその生涯の根幹に直截なものからではなかったことに、しばらく前から気付き始めているのだ。従って、抜き書きは、いわば土方巽のからだを図表化し得るほど、極力、単純、平坦な作業でなければならず、それらの言葉を総合、あるいは拡散するような、いわゆるキー・ワードが現れるのを待つことになる。独居にふさわしい作業だと考えていた。この日はまさに快晴であった。白州にはいってから二週間、雨模様のどんよりした天気が続いていたので、やっと夏が来たと爽快だった。小屋の外の土の上に打ち付けたテーブル(九十×一八十センチ、黒塗り)に沿って座り周辺のあちこちに差し込んでいる木漏れ陽を楽しんで見た。頭上の限りなく清澄な空の青をふくんで、木漏れ陽は白く輝いて落ちていた。赤いコーヒーポットや鋸や金槌、ノートやキンカン(防虫用薬)など雑然と置かれたテーブルの上にも三つ、四つと、刻々その数と場所を変えながら斑点模様を見せていた。森の頭上に達する大木は普段と変わらず黙して剛然としていたが、その下、地上から四、五メートルのか細い木々一刻を争って、日差しを浴びるべく、首を伸ばし、振っているように思われた。だが森はこれまになく引き緊まって、静かだった。なにかの用事で席を立っていたのだろう。知らぬ間にテーブルのおよそ半分が光に占領され、開かれた�病める舞姫�が異様に白く輝いていた。立ったまま驚いて眺めていたが、活字が二センチほど浮いて、整然とした面を作っていた。活字とは、こんなに美しいものだったのか、書物とはこういうものなのだ、と感じ入った。気が着くとその活字の透明な面の下の見開きの白い頁に、黒ずんだなにかが靄のようにかかっていた。豁然とした活字の面からこの靄は次第に遠く退いてゆくように見えた。私の�病める舞姫�のほとんどの頁は読むたびに鉛筆の書き込みが増え、しかも行を横切った線が交差してあって、読みずらいほどに汚れている。その汚れが靄なのではないか、活字の面との間に厳然とある距離を認めねばならない、ひょっとしたら、美しいのは活字であって言葉ではない、ということは言葉を読むな、活字を読め、活字を見よ、ということか、などと呆然としていた。そして木漏れ日の皮肉を込めたいたずらと考えた。しかし、つぎの時間、土方巽と過ごした二十数年、現実的な交際は明解であっても、そこから私が紡ぎ出したもの、それは電灯の下、夜の自分勝手な想念、夜想であるという事実に初めて気付いたのだ。そして、それが靄なのだ。木漏れ日の下で書物を開く記憶に、ついに行き当たらなかった。私は急いで�病める舞姫�を閉じ、洗濯物をビニール袋に詰め込み、身体気象農場に向かって谷を出た。谷の小川は浅くて衣類を洗うことができないからだ。(寄稿)
 別記=不安を感じながらも執筆を復活します。

合田成男 雑話 6

普段、そう呼んでいるように大野さんと記そう。十月二七日に九十四歳の誕生日を迎えた老舞踏家大野一雄氏のことである。
 先立って、十月十七日に大野さんの公演「宇宙の花」をルネこだいら(小平市)まで見に行った。その舞台で大野さんが後ろに倒れ、床に後頭部を打ち着けるという思わぬ出来事に出会った。ゴム製のマットが敷いてあったから、という冷静な判断に後で納得したとはいえ、その鈍い音は会場にはっきりと響き渡り、花飾りの着いたかぶりものは頭から外れ、はっと息を飲む瞬間であった。背中の丸いことが落下のスピードを緩和したとはいえ、首の筋力が頭の重さを支える強さを既に無くしていること、首だけではなく全身の筋力がかなり衰えている実態を如実に知った瞬間でもあった。二、三年前から大野さんの公演を見にゆく度に、最後かも知れない、という思いが頭の隅にある。だが、この思いは舞台の上ではなく、むしろ日常生活のなかであるだろうと決めていたようで、それだけにこの事件は私にとって衝撃であった。
 とはいえ、私はこの出来事を巡る周辺の事情を記述しようとは思っていない。また、大野さんという舞踏の先達がこの出来事を通して開示しているだろう教訓を抽出しようと試みているわけでもない。ただ、私が見たもの(見たように思うもの)あるいは感知し、空想化したことを述べようと考えているに過ぎない。そして、この夏、山梨の白州町の谷間で私をしばし呆然とさせた透明な膜の上に整然と並んだ活字の美しさに対位するものを大野さんの舞踏に発見、指摘できるかどうか、を賭けてみたいと願望しているのだ。それらの活字は私の土方巽についての想念を「夜想でしょう」と皮肉のまなざしを投げかけた。そのまなざしに応えねばならないと帰宅後、二ヶ月、ときに気になって仕方のないことであった。ことばでなく活字である。しかも活字が透明膜上に整然と並んでいることである。ということは活字そのものが手を取り合って面を成そうとする空間性を持っていることを示してしる。また、それが紙面から二、三センチ浮上するエネルギーとなったのだろう。もちろん、そこに私の視覚を狂わせた木漏れ日や狂わんばかりの晴天があった、そのような条件を無視するわけにはゆくまい。
 さて、この活字に対位すべき舞踏の要件を大野さんの舞台で捜してみよう。ことばを用いて記述しなければならないこと自体が極めて困難であり、不可能事であるように思う。家族によれば、その日その日によって体調がひどく変わるとある。しかし、体調の不安定は舞踊作品の整合性すなわち創作性を壊し、現象としての踊りを強調する結果をもたらす。曖昧な情緒やからだと懸け離れた観念はこのようにして駆遂できるだろう。ただ、からだも、同時に、不安定を根拠とした代替の表現、作品の新構築への意識や意志を持たねばなるまい。不安定は根で生の危機感に連なっているからである。いい換えれば、時々刻々、踊りへの焦点を模索、受能し、逃さないことである。
 舞台は三つの作品「ノイエ・タンツ」「クラゲの踊り・戦争で死んだ友のために」と「宇宙の花」で構成されていた。生涯でのそれぞれの時期を経て、小さな花にも宇宙があると観る現在に至るという構想であろう。あるいは現在から過去を見るという逆の視線があったかもしれない。大野さんの体調が悪い。公演冒頭からバランスを失してよろよろする。踏み変えや踏ん張りばかりの踊跡は作品の、舞台の焦点、大野さんが個的に意志する方向性を顕すには至らず、いたずらに宙を掴むような動きに終始した。大ホールの舞台に特設された四方客席の新ステージは長方形の一辺が長過ぎること、十数メートルの頭上から照射される光は拡散して周辺を平坦にすること、大野さんが大野さんの踊るにふさわしい条件が見当たらない。その不幸をまともに受けてしまったようだ。かつてのモダン・ダンサーとして華麗な情緒を発散させるひと昔もふた昔も前の情景に連なるものは皆無だった。第二の作品は戦後の引揚げ船で死に、水葬された兵士たちと大野さん自身を分けた、すなわち生死を分けたものが栄養失調であったと語り、「悲しかった」五十余年前の感情が、からだの動作が加わって「悲しい」といういまの感情に連続する極めて説得力のある、芯を持つ作品となった。気の済むまで叫び続ければ、この感情は鎮まり大野さんの新境地と評価されただろうと私は思う。予定された十八番、リストの「愛の夢」は披露されなかった。この「愛の夢」のためのブラック・スーツは、舞台現実の時間を無視し、突き進む悲惨な物語にふさわしい衣裳に変わっていた。ピアノ曲が終わり、大野さんも拉致された。この挫折が最後の「宇宙の花」に尾を引いたように思う。老人のからだは狭められた視野を深く生きることに自らの開放を感知するものだ。最初から大野さんのからだは大揺れだった。だっだっと二歩も三歩も退がらねばならない危なっかしさだった。遂に耐え切れず、仰向けに倒れ、頭を打った。しかし、ここからが見所となった。いわば修羅場をつぎつぎと凌いでゆくのだ。転倒は彼に覚醒をもたらした。立たねばならないという意識がこの日、初めて芽生えたようだ。両手を床に着け、腰を上げ懸命な努力を見せる。しかし、これは拙いやり方だと思う。しゃがめばよい。膝に手を置き、中心軸を探って徐々に持ち上げればよい。この方法はこの夏の独居で知ったものだ。立とうとする気持ちよりも、むしろ蹲がむこと、腰そのものが最も低く、地上すれすれまで降ろせばよい。以外に容易に立ち上がれるものだ。だが、大野は床に着いた手の支点を徐々に指先へと移動し、ふたつに折ったからだのバランスを取ろうとする。そして諦める。表現者大野一雄はここで落ちることを選ぶのだ。残された舞踊表現は四ん這いだけである。
 私は秘かに木漏れ日の下の活字の美しさに匹敵する大野の動きは、立ち上がろうとして二度三度微妙にバランスをとろうとする床に触れる指先の移動と四ん這いになって、獲物を求めるライオンのように、力を充足させた全身歩行、その肩、上膊、首、背、腰といった一連する部分の機能だ、と思っている。

合田成男 雑話 7

幕の開かなかった永田町・自民党の政治劇については既に多種多様の意見が現れて、いい尽くされたようにも思うけれど、私は私なりに舞踊批評家として、からだの側からかなり無責任な発言を試みようと思う。からだには自他ともに未知の部分があって、だから発言という二者を結ぶ表現は致し方なく想像や空想、ときに幻想にさえ頼ることとなる。特にこの政治劇登場人物は普段の私から遠いだけに、垣間見たそのことだけが勝負となる。従って私が白といったことも黒といい返されるほどの不安定なものだ。無責任といわざるを得ない。
 からだの側からこの政治劇全体を見渡して、不思議な思いを禁じ得なかったことがある。それは登場人物の誰彼を問わず、からだの持ち主ではなかったことだ。劇を演ずる資格の有無を、まずは問われる程度の役者であったということだ。ここでのからだは、舞踏におけるからだほど厳密ではない。表現のための素材としてのからだと生命を宿した主体としてのからだを一体化する必然を前提とするような厳しいものではない。ごく普通のひとがときに見せる美しい物腰に匹敵する政治家の正しい物腰を身に着けているかどうか、この辺の資格の有無を判断する根拠としてもよいようだ。ところが物腰は日常の感性の積み上げから発するものだから、その政治家の政治の質を顕わすものと秘かに見盗ることができる。
 例えば、暫く前のことだが、英国のブレア首相が森首相を官邸に訪ねたとき、いつも通り、あいさつと握手、向き合う光景をテレビのニュース番組で見ていた。ブレア首相は少しからだを前に掛け、にこやかな表情で話しかけた。森首相は悠然と直立した姿勢で、かすかな微笑で応えた。当然、報道カメラ陣は一斉にシャッターを切った。途端に、まだ、ブレア首相が上体を森首相の方に寄せているにも拘わらず、森首相は顔をカメラマンの方に向け、にこっと笑った。からだは半身、開いてである。その反応はVサインをレンズの前に突き出す小学生低学年と同じだな、と私は呆れ果てた。ブレア首相は手を握られたまま、なにか気恥ずかし気に表情を納めるべく、後ろ向きに顔を伏せようとした。そして森首相に促されて正面を向き、にこやかな表情でその場を繕ったように見えた。軽佻にして愚鈍な行為だけで、英国の首相を迎える儀礼の感性は皆無だった 。
 普通の人がごく自然に振るまって事を成し得る日常的行事からさえ外れてしまう彼のからだとはどういうものか。逆に興味をそそられる。彼の生涯について私は無知無関心である。しかし、密室の謀議で誕生した森首相という存在には、その特異な作られ方に不審を持つという程度の関心を持った。当然、野中幹事長ほかの黒幕たちによって認知の手立てがなされ、森首相は公認された。公認された途端、風呂上がりのようなすがすがしい顔で放言、失言を繰り出し始めた。野中幹事長の表情が次第に硬ばったものとなったのは放言失言のせいではなく、それとともに現れて来た自民党支持率の低下という結果である。二五パーセントに落ちて、突如、加藤元幹事長がこのままでは自民党が駄目になる、日本が危なくなる、党改革を決起する。戦術は野党の不信任案に乗ることだけ。野中の恫喝が響き渡る。「除名」「禁じ手」といった厳しい言葉が飛び交い、また不信任案が否決されても森首相の地位は必ずしも保証されたものではない、という意味の発言が事もあろうに野中から出て、これを森首相の早期退陣の言質として受け取った加藤が決起の姿勢を後退させた、とうことらしい。しかし発言は取り消されたものの、加藤は態勢を立て直すことができず、涙を飲んだ。
 政治劇としては印象深い景があった。野中が先の発言を述べる係りで見せた姿勢である。両肘を椅子の腰掛けに置き、顔をカメラに正対させることなく、むしろ、伏目で顔も伏せて終始した喋りである。もっとも、ある番組のためのビデオの再放送なので時間の程は分らない。語調も普段の厳しさと打って変わって、籠り気味であった。元々、策士めいた昏さを持った人だが、妙にその昏さが形(姿勢)になって顕れており、観る者にいろいろな憶測をさせる力も備えていた。例えば、森首相の去就が混乱するような事態が起これば、劇の焦点が加藤の決起から密室の謀議に移って、その不当性を追求される危険がある、そのような杞憂とか、もっと単純に謀議が勇み足であったという個人的な悔恨とか、ともかく自らのからだのなかを覗き込んでいる姿勢である。ただ、気概を込めて永田町に居着いてしまったので強面になってしまった。役所を自ら狭めてしまったようだ。二五パーセントという数字を決起の根拠とした加藤は、一方で、あの人(野中)より(修羅場をくぐった)経験は多い、とも(報道陣に)答えていた。数字は正確だ。しかしその正確さは結果においてである。その結果は刻々に変わる。なぜなら人のからだはいつも揺れているからである。一歩、歩けば景色はもちろん、気分も、運命も変わるのだ。だのに加藤は第二幕、第三幕までも用意しているといっていた。手痛いキズを負わされた手負いの狼軍団にまず成らねばなるまい。そして、狼籍の限りを尽くす。そのような台本に書き直してみれば。数字は霧散し、そしていつか揺れる数字を確保できるかもしれない。
 森首相については、朝日新聞に載った料亭通いの報道に驚き、感歎し、飽きれ果てた。一ヶ月に二十八晩(?)赤坂近辺の高級料亭やホテルで会食をしているという。料亭政治は止めようという呼び掛けが何年か前にあったと記憶する。また一警察の一部下の会食もチェックされる最近だ。そんなことがチラチラと横切るけれど、そのようなことは誰かに委ねられよう。私が驚き、ときに感歎し、飽きれ果てるのは、特種な場所で、選ばれた人、山海の珍味、美味に囲われて、それをリラックスのための日常的な手段(周辺)とすることによるからだの、変質、庶民との乖離といった政治家としての衰弱がやがて来るような気がすることだ。美味も毎晩、重ねれば美味と感じなくなるのではないか。
 まったく嫌な原稿になってしまった。ああ!

合田成男 雑話 8

一粒のぶどうを噛んだ。その甘味と香りが口腔にぱっと拡がり、いささか昏く鎮静していた私の味覚を切り裂いた。「うまい」と反応したわけではない。喉元からいきなり感嘆とも驚きともいえる感覚に結び着いた味覚であった。その甘味と香りは果肉とひと固まりになってゆっくりと私のからだのなかへ降りて行った。固形物や冷たいものが食道を下ってゆく感覚ははっきりあったけれど、この固まりが降りて行った私のからだのなかには食道という器官はなく、篭状とも壷状ともいえる形の空間だけの広がりがあった。その広がりには際限があるようでありながら、暗くて見極めがつかない。ただ上方からは外の光が差し込んでいるようで胸部のあたりはほの明るく、ぽっかりとした広がりが見受けられた。そこには水ではない、空気でもない、いわば水分を含んで明らかに物質となった気体が緩やかに満ちていた。小粒なぶどうの果肉は垂直にゆったりと降りて来た。その微妙な速度は物質となった気体との均衡によるものだろう。そして、絶えず美味と香りの丸い水滴を放出していた。その水滴はさらに小さく分解され、微粒子となってこの物質と混り合うのだ。沁みてゆくのだ。私はどこまで、この味覚が拡散してゆくのだろう、と問い掛け、胸郭を開いたことをかすかに記憶している。多分、この美味をからだ中に拡げ、持続させてみたかったのだろう。ふと気着いてみると、戸外のディレクターズ・チェアーに背を丸めて寄り掛かっていた私が、背骨を立て、肩を下げ、腕を下げ、そして顎を懸命に突き上げて精いっぱい首を伸ばしていたのである。「まるで鳥じゃないか」と苦笑したものだ。鶴が高々と首を立て餌食を呑み下す仕草でも連想したのではないかと思う。美味を呑む形なのだろう。もちろん、このとき、味覚は既に消滅していたものの、微粒子となった美味はからだのなかの、あの暗い部分に組み込まれ、棲み着いたという妙な満足感を感じたものである。
 この一粒のぶどうはこの夏(現在二○○○年十二月二三日夜)白州町の森の中で独居していた私を訪ねてくれた田中泯の手土産から選んだひと房、その先端の一番小粒なものである。丁度、桃花村のヨーロッパ公演を終え、白州の新しい屋外のけいこ場でワークショップに取り掛かる寸前の暫時の訪問であった。確か、八月十七日、昼時のことである。「途中(街道の出店)で買いました。走り(初物)ですが、おいしいですよ」と言い残して谷を出て行った。しばらくぼんやりと座っていた。これは八月四日以降、食後の決まりとしていた治療の一環であった。胸と背骨が痛み、歩行が困難となり、食後すぐに動くと胃が痛み、胃の当たりを押さえて全身を縮めねば耐え得なくなっていたからである。過去の経験を元に、既に急性の胃潰瘍と自己診断し(事実であった)食餌や生活方法を変更していた。だから、この時ぼんやりと座って、泯さん、かなり疲れているなあ、と思い、八王子以来、十五年ぶりに見られるワークショップはどんなふうに変わっているか、興味深く空想したりしていたのだ。そして「おいしいですよ」といった言葉はもちろん、テーブルの上のぶどうとその側に座っている私との関係はふっつりと切れていたのである。そこにぶどうがあるから一粒摘んだのか、ただ食べてみようと思ったのか、いまはもう思い出せない。
 このぶどうを食べた日から二、三日後に味覚とはかかわりのない幻視がやって来た。時刻は午後四時近く。この谷間は三時半にはさあっと暗くなる。陽が狭い谷の対岸の稜線、その上の大木の葉の繁みに隠れるからだ。私はポットの上のコーヒー濾し器に湯を注いでいた。ぼちぼち夕食の用意だけでもしておかねば、などと考えながら。やっと熱湯を差し終えて、森の日常の定位置、低姿勢ともなっていたチェアーに座り、下流方向に視線を投げかけた。と、そこに歩いている人がいた。セピア色の少し滲んだその人は、左から右へ、流し場の小川の方へ歩いていた。普段、私が歩く踏みならした通路から二メートルほど向うを狂いなく水平に通り過ぎたわけである。路も二メートル向うに後退していた。食器を入れたザルを大事に胸前に持っていた。誰でもない。それは明らかに私自身であった。すなわち私自身の右横顔、右体側と出会っていたことである。等身大のようでもあったが、四、五メートルの距離の縮み、やや小振りのように感じていた。まったく驚くことはなかった。むしろ、私の影、分身が見事に水平歩行をこなしていることに、励まされていると感じた。この森での独居を始めた早々から、私の関心は水平感覚の獲得にあった。思考や志向は始終、訪れて来ていたが、それはなかなか、からだのなかに降りることなく、精々、大地、土に極端に近く(土まみれ)身を置こうとして苦労していたに過ぎない。私の影、分身はそれをそのまま認知、許容してくれたようである。突然の訪問は私にとっても幸せなことであった。
 あと何日を数えるようになった独居の終盤にもうひとつの幻視が訪れた。今度は、影ではなく私が流し場へ降りてゆく番である。食器類をザルに入れ、根っこの露出して来た通路を歩いていた。突然、その歩行(水平ではない)を遮るように、底なしの壷状空間が現れた。光の具合もぶどうのの場合とほぼ同じだった。ただ違うのは随分、上の方から何か白いものが左右に揺れながら沈んで来ることだった。それが骨だけになった私自身であると気着いた、その途端に水葬の幻影はさっと消え、私はそのまま水の際へ下りて行った。からだのなかの死、ひどい衰弱への警報だったように思う。帰宅してシャワーを浴びた。かいなからも二の腕からも、内股だけではなく、ふくらはぎからも皺々した皮膚が垂れ下がっていた。自分のからだでないからだを検証しながら感嘆したものである。この幻視の水脈を捜してみよう、と思っている。
 実ハ、一粒のぶどうの体内感覚に触れたのは前号(十二月号)森喜朗首相の美食痴呆症に対比すべく、計画しておりながら、あと三十分、二十分と締切時間の切迫にあたふたとして、すっかり忘失してしまった遺恨を埋め合わせるためであった。外は二〇〇一年初春、二十一世紀の幕開けだが、からだの時間には関係ない。遺恨や懺悔を拾ってみようと考えている。まさにそのような生涯だったからだ。

合田成男 雑話 9

先日、珍しく雪の積もった横浜駅西口で滑って転んだ。転んだといっても、腰を着いたわけではなく、前のめりになって、手袋と左膝から下、ズボンをぐっしょりと濡らしただけである。ふだん、雨の日にはそこを歩かないようにしている慣れた場所なのだが、歩道いっぱいになって駅に向かう人の群を避けて、一段高い通路に上がってしまった。ビルディングの敷石が一メートルほどはみ出している部分で、日中なら青空を映すほどに磨かれた茶褐色の敷石で出来ており、歩道の方に、ほんの心持ち傾斜しいる十数メートルの、いわば、歩道の待避歩道である。雪の下の条件を知っているのだから、用心し、足に目玉を着けて歩いた。ところが、喰わえたばこに雪が降って、煙の通りが悪くなった。もうひと息、吸いたい。手巻きたばこを切ろうした。だが、両手とも手袋、爪が立たず、もたっとした瞬間に右足を取られた。一度は踏んばったものの、淡雪の下は水深二センチほどのプールだった。からだを左に傾げて落ちた。「滑る!」「滑る!」三人組みの若い娘が嬌声を挙げて、からみ合い、四つん這いになった私の横を通り過ぎた。情けない思いとともに、頭も腰も打たずにすんだ無事に安堵した。落ちてゆくときの、足元の雪の昏さ、からだの捩れ、泳ぐ手、落ちた姿、形が一瞬蘇った。ひと昔前なら苦笑し、もっと若ければ照れ笑いしただろう、などとも思った。ゆっくりを起き、用心して歩道に降り、降り積もった白い雪を踏んで、左手首の軽い痛みを摩りながら歩き出した。そして、雪の宵には、人はみな水平に歩くのだ、とひとり合点した。
 この水平という言葉、およそ半年、ずいぶんこだわって来たものの、まだ私には馴染んだものとなっていない。しかし、これは去年の夏、白州の森の独居の結果を総括する言葉として当時、選んでしまったという経緯がある。簡単にいえば、生の垂直軸に対する生の水平感覚ということだ。舞踏あるいは舞踊にかこつけていえば、舞踊手が立つ床のこととなるだろう。土に種が蒔かれ、季節を得て、芽を出し、畑を彩る野菜となる。あるいは花となり、樹木となる。このような生成の原初を確かめたかった。それが独居の根拠であった。雪が垂直型の都会を消し去った。ひとびとはその原初の歩行に戻らざるを得なかった。雪の上に足を出し、神経を集中してしっかりと踏みしめ、ゆっくりとやや閉ざした上体を移す。私が歩道の向こうに見た勤め帰りの人たちのくぐもりは舞台上を歩く舞踊手の歩きの正しさに匹敵するからだの水平な所作であったように思う。ところが、私が待避歩道に乗り、転倒するまでの瞬時、実は彼らの歩行に一顧も与えず、転んだあと、彼らと同じ白い雪に乗ったとき、人みな水平に‥‥と呟いたのだ。ということは、待避歩道上での、転倒に至る私の体験を人みなに仮託したということだろうか。いずれにしろ、転ばずして、彼らのなかを通り抜けていたとしたら、こともなく日常のなかに雪も、人のからだも埋没してしまっただろう。その一月二十日、最初の雪の日、メディアは横浜地区に関して転倒事故の報道はなかった。ひょっとしたら、当日(ひっそりと)転んだのは私ひとりだったかもしれない。
 別に転ばなくても、水平感覚が向こう側からやって来るときもある。白州での、あの瞬間、甲斐駒ヶ嶽を主峰とする南アルプスの連峰、百五十度のパノラマが一挙に箱庭と化し、麓の整備された階段状の田圃が上から順に、その山の底に滑り込んで行ったときのことだ。箱庭の山はどのようにして作られるか、私は知らないけれど、水平面を重ね重ねして出来上がるものと確信した。懐かしい等高線などといった言葉を思い出しながら。信じ難いほどの晴天、光と熱の強圧に干からび、大地にへばり着いた山々を見たのが水平感覚の最初だった。ただ、山々と同様に驚異的な真夏日に直射され、痩せ細った私のからだにも、これほどの水分があったのか、と不思議な感覚を持った私の側のからだの条件もあったわけであるが。
 年が明けて、少しは日が長くなったと感じられる夕方、空にはまだ明るさが残っていた時刻に、行き慣れたスーパーマーケットに買いものに出掛けた。視力の衰えている老人には見難い、歩きづらい時間帯であった。スーパーへの曲がり角の手前は幼稚園、ここだけ、なぜか歩道が狭く、頭上に覆いかぶさる桜の列があって、対向して来る勤め帰りの人を判別するのがむずかしい。気配を感じて立ち止まることも何回か。その二十メートルを通り抜けて、やっと曲がり角に到達した。そこから約二十メートルほど下り坂になる。標高差はおよそ二メートル。緩やかな下りだ。ということは幼稚園の隣りのスーパーを見下すことになる。道に面したスーパーの総ガラスの壁面から店内の明るい光が、自転車置き場のある前庭を照らしている。この明るさと道につぎつぎはいってくる車のヘッドライトに目潰しを喰らい、足元の暗がりからぬうっと人が現れる、という状況にしばし、立ち呆うけになっていた。どの時、スーパーのA館からB館へ、またその逆に道を越えて往き来する人たちがみんな小さい影になっているのに気着いた。その様子は蟻というよりも駒落としの映像を見ているようだ。道はすぐT字路になっていて欅の大木が数本、その後ろの高台は相模平野を南北に走る防風林、スーパーの背後は川の土堤、そこは窪地という舞台であるわけだ。目新しい視野が立ち上がって来た。なぜか、私はその光景を水平と感じ、ほっとした。
 水平感覚とは、こちら側のからだに小さな異変が起こり、また外部の景色にもどこか非日常の条件が加わって、相互にかかわり合い、現実や日常に亀裂が生じることに拠っているとすれば、雪の日の足元の不安定、真夏日の大汗の怖さ、スーパーの日の呆然とした佇立、からだのなかの嗅ぎ取らねばならないような状態を見逃してはならないことのようだ。