合田成男 雑話 2

記憶なんて言う問題がまた出てくるんだ──
 自分の中から掘り起こさなきゃいけない。その頼りになるのが記憶だよ。その、記憶を掘り起こしてみると影があるんだ。その影をね、自分ではっきり意識する、あるいは認識するというような過程がある。そういう所へどうしても入って行かない。入って行かないから何て言うか、ポスト・モダンなんて言われるとパーッとそっちへ走って行けるんだろうと思ったりもするんだ。そこで自分を許してしまうとねぇ。ことが起こってくるんだろうと思うんだ、やっぱり今ここにあるからだから発するべきダンスだと、僕は、ダンスと言うのはそういうものだと思うんだよ。

ここにあるからだと言うのはね、誰も分からないんだよ──
 そんなこと関係なく習ったものは表現になると、そのへんのことで皆処理しているんじゃないか。あるいは他のものを見て、そこから気付いたものをやって見てダンスになっていると。そういうからだが出来上がっているつもりになっているんじゃないかと。まぁそのへんがね、困っちゃうんだよね。

自分のからだの中からものを探す──
 そういう論理が持てなくなっているね。それはもう明らかに論理なんだけれど。そして実際に生きて行くと言うことの必然的なことなんだけれど。でもそれを試みないのは何だろうな、恐いんじゃないかな。だから全く個人がないね。個的なものが。だから政治から何から全部含めてね、そういうものを許容し、そこにゆっくりと落ち着くような環境を作るべきだと思うんだけれどね。いや、それは戦前そういうものがあったかどうか。でも戦前のある種封建的なしきたりみたいなものの中に、まったく一人になってメソメソするような時があったんだよ。今もあると思うんだけどね。メソメソっとする子供達がメソメソーッとしているようなことがあると思うんだけれど、そういう場所がない。場がないね。家の中に影がない。家の中が皆明るいよ。これはまぁ健康趣向だろうと思うんだけれどね。やっぱりじめっとしたような物が、もう周辺になくなってきてしまっている。そうすると人間干からびて行ってしまってね。

「病める舞姫」だって皆読んでないんだよ──
 読んでないんだけれど、「病める舞姫」の聞いた情報だけは皆持っている。だから読みなさいって言う。読んで欲しいんだよ。それを読んでみるとね、あの本のスタイルが一つあるんだ。それはね、時間を全部ブッ切れるんだ。ブッ切れる理由はからだの時間だから。だから私達は皆普通に道を歩きながら、こっち見ながら何かあっちを考えているみたいな事があってね。すぐに今度はこっちを見るんだよ。それで真っ直ぐ歩いて行くんだけれど、右行ったり、左行ったりして、ジグザグに歩いている。そういう状態が、あっち行ったりこっち行ったり、その文体が読み切れない。でもそれをからだに戻せば簡単に読めるんだよ。それを一生懸命言うんだけれどね、なかなかやっぱり納得されないみたい。

受容する、受納するって言うことがどれだけ大切な事であるかを、
一生懸命読んだんだな──

 現実に接しないと受納と言う事はないんだ。だから現実にからだをまず乗っけて、そしてそこの所でぶつかったものを受け取る。受け入れてふっと出してみて、そしてまた受け入れて受け入れて受け入れてって言うような事があった時に、気が付いたら変わっていた。それは、しかしある年代までのことだ。そこんとこで出来上がったものが土方の「禁色」だね。それまで出来上がったものが現実に流れている舞踊の世界とぶつかる。もうあきらかに自分のやるべき事ははっきりしているんだ、と言う所へすっと還って行ける。それでそれを捨てることも何もかも出来ると。まったく孤立している。孤立の歴史を持っているからね。十分その何て言うか、楽しんでいるという言い方はちょっと違うんだけれど、自分の変わり目を知るくらいのゆとりのあるポイント、ポイントがある。そしてそこの所に今度は乗っかって行くんだよ。そうすると章によって書かれている対象が変わってくる。自分自身の中の混乱を書いたりとかね。ちょっと横を見てね、そこの少年達との関係を書き始める、というような所にずーっと移って行く。まぁ僕はそれをとても自然なことだと思うんだけれどね。だけど、あの悲惨さをよく受け入れて行くんだね。大変だろうなという風に思うよ。だって三人身売りされているからね、三女まで。そして親父がもう滅茶苦茶なんだから。

押し入れの中にね、やっと漂着したって言う言葉があるんだ──。
 流れ着いてね、やっとここへ漂着したと。その押し入れの中でも、匂いと温かさとあの空間だね、安定した空間。自分の寸法に合う空間だ。その中で横になっていて、そしてけむり猫って言うの?足を持ち上げて布団がこう持ち上がって、ポテーッと落とすと猫が出ていくって言うね。そんな事をやって。そういう物がなぜ漂着しなぜそこでからだの衣更えが出来たかと言うことが、次の章に書いてあるんだよ。次の段落に。それはね、耳から聞いたことが口から出て行かなくなった。それでだんだん自分の動きが小さくなって行く。そうするとその押し入れの中の世界に、普通のおばあちゃんがやって来て、「何処のあんちゃかね」と聞く。何処のあんちゃかねと聞かれることを、普通に受け入れられるようになってきた。そういう大変具体的なことが並んでいるんだね。このへんもね、漂着してから押し入れの中で、漂着して、衣更えからこう入って、そこに事件があるんだよ。何の事件か。金の問題か、あるいは娘の問題か。あるいはもっと他の色々な問題かよくわからない。ともかく家の中が騒動になるんですよ。騒動がおこる。ところがその事件を押し入れの中で聞いていて、口から出さない。少し前の彼だったらカーッと表へ飛び出して行っちゃうんだ、押し入れの中からね。そういう受け身の変わり方がね、自分が積極的に変わるんじゃない、いつの間にか変わって来ると言う、こういう進み方をね。これはやっぱり悲惨なんだな。受けていく受け方なんだ。全部受けていく。だから悲惨がそこでふっと、その将来のことを考えてみると、ずいぶん財産になる、財産に変えることが出来る。だからね、皆どんなに少々苦しくったって、若い人も含めて苦しくても何でもいいから、とにかく世間にからだを晒すことだな、という風にも言いたくなるね。

完璧な物化が前提に考えられる、大変具体的な技法が
その中にあるんじゃないかな──

 ということは、自分のからだが観客、要するに劇場だ、劇場の中に、舞台に出て行く時には完璧な物だね。だからその物化、物になった自分が手足を動かしながら変化して行く、その変化を見せなきゃいけない。あるいは行為そのものを見せなきゃいけない。そのためにはからだはすっかり物化しなければいけない。主観的なものを全部排除してでもね。それは土方の考えている形の世界よ。その形が変化する事によって何かが伝達される。その変化の主体にならなきゃならない。その変化の主体になる為に、その変化を自分の中から発見しなきゃならないもう一つの主体性を持たなきゃいけない。この主体性と関係を持つのが、現実の外部なんだという事を僕はさっきから言っているんだ。

例えば同じ事をずっと繰り返して行くだろう──
 それは観客も努力しなければいけない。僕みたいな立場にあるのは、何かこう見て行くわけね。そうすると腐ってきたり、奇妙な匂いを発したりするようなね、過程をずっと見て行くのが面白いんだな。これもまた自分に戻って来るんだよ。そうするとふっと自分の中で腐った時だとかね、匂いを出している時だとかね、出しただろうと思うような事が、いっぱい思い浮かべるような一つの刺激になるんだけれどね。これもいいんだ。でも、もう何か明らかに意識と言うのかな、意識じゃないんだけれど、ただ気付くだけ。そしてそれがどんな風に広がって行くかわからないし、劇場出たらパッと忘れてしまうかもしれない。でもその瞬間はあった、そんなようなことを舞踊はね、提供するのがいいんじゃないか。その時にはからだは物になってなきゃいけない。だって実際に僕達が道を歩きながらすれ違う人達は全部物よ。実際にね。そりゃ可愛い子供が来て、子供っていう物がやって来て、こうニコニコっと笑ってくれたり何かすると、土方が言ってたよ。俺も年を取ったなぁ、横に座った赤ん坊に笑われちゃったよ、そして笑っちゃったよって、年を取ったなぁっていつか言ってたけどさ、そういう時間は土方の中にも残っていて、そして話にもなって出てくるんじゃない?そういう、こう何かな、<突然に行き来した>というような事があるといいね。