合田成男 雑話 3

具体的に触れた舞踊あるいは舞踏──
 そういったものと向き合って生きるために見ているという、それだけだったような気がする。座ってものを見ている限り、その時間はやっぱり刻々に過ぎて行くんだけどね。自分の生命は刻々に落ちてゆく方向に行くだろうと。
目の前にあることを克明にみて、もう一回再建できるかできないかということがどうも──
 私の中で再構築する、再構築できるかできないかということが、どうも私の中では一番の問題なんだよ、というふうに考える。それが私の中で再構築させるほどにつながるかつながらないかという問題だ。

見たことのないものを見たい。──
 見ることの欲が、あるいは今までにないものを聞きたいという欲が。その欲を充たされたときには、もう大万歳するね。それはたとえばまあ「禁色」を見て、その時に「禁色」のホモセクシュアルという主題も、それから表現の簡潔さもぜんぶ僕の中に入ってくる。あんなふうに僕は生きられればきっと素晴らしいだろうなと。入ってくるとね、からだがフワーッと呼吸するんだよ。そうすると本当に気恥ずかしいくらいボーッとしちゃうんだな。そしてボーッと入ってきた、そのへんを僕は舞踊だと、舞踏だというふうに思うんだよね。そうして入ってきたら、それが抜けて行かないからね。自分の中にちゃんと体験として入っちゃうんだよ。

再構築できないから駄目だというような言い方になっちゃうんだろうな。──
 それは私にとって駄目なんであってね、人様にとって駄目なんではないんだ。でも何ていうかな、そういう作業をやっぱり薄々感じてくれる人はいたみたいだね。だから続いたんだと思うね。やっぱり他の人にも、その作業に近いある受けとり方、あるいは生き方というものが僕にはあるんだろうというふうに、何ていうかな、嬉しく思ったときがね、何回かある。

いい踊りは、いい踊りはわからないからね。──
 わかろうとするようなところがある。それは別に頭で数字のようにして、こう見ているわけじゃないんだ。一番大事なのは、ぱっぱっぱって何かがやって来る。要するに作品としての肌合いが出来上がっているかどうか。それが来るか来ないかがまぁ最初にあるんだけどね。そうするとそれが来て、とてもいいものはわからない。オヤッと思うんだな。どこから来たものだろうというような感じ。そのどこかから来たものを一回確かめたいと思って、持って帰って再構築するね。データをこう一生懸命集めてそれで再構築すると、あぁこういうことなんだって、しばらくしたらわかる。それと、自分で、これは再構築できない、違うぞって言いながらもどこかで引っかかっているものがある。そしてそれは一ヶ月ぐらいたって、忘れた頃にまたワーッと出てきて、そしていやここは僕の考え違いだったとかね。書き損ないだったって、こう一人で赤面する。

私に入ってくる要素そのものは。──
 けっして部分的な動きだとかそういうものではない。全体の肌合いのようなもの。要するに生々しくすーっとやってくる。感じから言えば、ちょっとあったかいような感じだね。これは自分の中でもデータを並べていって、もう一回それに肌合いを再確認できるかどうかという問題。これ、わからないことがあるんだよ。わからないということは、その肌合いが非常に濃密であった場合。濃密であった場合には、こっちが混乱する。それで混乱したまんま帰ってくる。その混乱を、今度は自分を救おうとするじゃない。何とか整えようとする。だから一生懸命もう一回再構築する。そして救われるかどうかが決まる、というような作業をどうもやっているような気がする。

踊り手の、そのからだだけが動機であって、そして表現体であってというふうなだけではすまない。──
 これを舞台に乗っけるということ、要するに生身の自分、からだを充分に意識して、意識的にからだを意識化しているというようなからだが、もっと意識、もう一段意識化されなければならないというような、これはやっぱり舞台なんだな。そうすると普通の舞踊家あるいは舞踏家は、自分のからだをこっちに持っていて、それで別のところにからだを持っている。この間をつなぐものは一体何かというふうなね、問題が出てくる。そうするとそれは安易にすれば、ある種のシステムに乗っかってくるとダンサーになって、そしてダンサーが出ていけば踊りができ上がるというような、そういう非常に安易な流れがね、ずいぶん周辺にいっぱいあるわけだ。それ以外のことを全く見ないような、それがさっき言ったオモチャだよ。まぁビジネスというか、もっとなにか勝手な欲望を自分のなかに高めていって、その上へその上へ行こうとか、そういう欲望はきっと持っているんだと思うんだけどね。それは客観的に見ればオモチャにすぎない。でもやっぱり一回は、オモチャになるというような危険なところまで、何かやっぱり修練しなければならない、訓練しなければならない。要するにその訓練というのは、自分のからだから表現体への距離をきちっと尺度することだろうな。結果として尺度できるんだと思う。そういう訓練はどっかでしておかないとならない。これは仕方ない。今の劇場のなかに、舞台の上に乗っかるという意味から言えばね。明らかにデフォルメされなければならない。ナマのまんまのからだはそのまんまでは通用しないということだよね。

舞踏の過程のなかには、からだというものを物化してみなければならない過程がある。──
さっきから言っているようにからだが表現体になるための一つの手段。そうした場合、土方の微粒子論みたいになね、ぜんぶが粉々でぜんぶが等価値で、それを再構築したのが人間なんだというような極端なところまで、要するに非常にラディカルなところまで行かなきゃならない。そしてそこから帰ってきたときにからだが快復する。そういう一種の病気のようなところまで、自分のからだをずっと進めていかなきゃならないというのが、どうも舞踊家のあるいは舞踏家の、とくに舞踏家のやるべきことだろうというような気がする。そうすると農作業は苦しいといったようなことが、そこでサッと解消されるんだな。

自分を再構築する習慣を持つとね──
 かなり色々なことが見えてくるんだよ。他人のことを再構築するだろう。それと同時に自分を再構築しているわけだ。ということでからだの調子が悪いっていったらね、助けられるんだよ。ということは、ボシャラッとしていなければ、人の歩行なんか見えるはずがねぇじゃねぇかって土方は言うんだな。だから自分も同じように元気に歩いていたら、人の歩行なんて見えない。人が歩いているのを見るには、ボシャラッとしていなければならないという名言があってね。そうするとボシャラーとかあるいメソメソッとか、あるいは何と言うかな、ものを飲み下ろせないような状態そのものをどこかでパッとつかまえてしまうと、一変して明らかになって、そして明るくなる。決して暗いことではない。だから舞台の上でも明るくて力強いと言うようなことが、そういう意味でね、ボシャラーとしているものの形、形にならないものを明確にそこに置くことなんだよ。決して明るいことは明るく振る舞うことではなく、ボシャラーとしたものをキチッと置く。置いてみると、それはかなり強く表現になる。表現になって、ボシャラーとしている表現が入ってくる強さは、保証されるだろうというような気がするね。

軸の問題──
 さっきからからだと言うでしょ、そして表現体というでしょ、ここを渡っていかなきゃいけない。こういう過程が一応ある。それで渡っていったときに、このからだそのものは機構を持っているから、当然行為はぜんぶこの軸から出る。この軸は生理的な軸なんだ。そしてもう一つこっちにあるからだが軸なんだよ。向こうにからだの軸があって、こっちに表現体の軸がある。この二つを結び付けるという、結び付かなきゃいけない。そうするとからだはもっと自由になって、この軸をまた舞台の上へ置いて、前へ出られる、横へバシッと行ける、色々なところへ走って行ける。でもこの軸は示さなければいけない。要するに骨格的に知らせることができるのは、ここにもう一つの軸があるから。この軸は社会的に、日常的に、色々の現実的に、あるいはもっとイマジネーションを含んだある種の世界だよ。これがこっちに押し寄せてきて、これがからだをもう一つ前へ置く、出してくれるというようなね、こういう玉突き式にトントーンと行くようなね、こういう関係がザーッと通っていかなきゃいけないみたいだね。

よだれを流すということが──
 普通の舞台では有り得ないことだ。生理的によだれを流すまで自分が変容していく。そういうものをあからさまには見せないわけだからね。われわれだって日常よだれを流して、そんなところ人に見せようと思わない。大急ぎで拭くじゃない。あるいはちょっと気恥ずかしいような感じになるじゃない。よだれが出てくるある種自然な時間が続いているということだろうね。そうするとよだれだけじゃない、他の物事も含めてやっぱり軸が見えてくる。あれやったりこれやったりではなく、人個人が、自分の中のある種の必然と言うか、そういったものでついついよだれが出ちゃったというような状態は、雨が降ってきたことと同じだよ。軸にさそわれて僕達は、舞台に入っていくんじゃないかな。