一粒のぶどうを噛んだ。その甘味と香りが口腔にぱっと拡がり、いささか昏く鎮静していた私の味覚を切り裂いた。「うまい」と反応したわけではない。喉元からいきなり感嘆とも驚きともいえる感覚に結び着いた味覚であった。その甘味と香りは果肉とひと固まりになってゆっくりと私のからだのなかへ降りて行った。固形物や冷たいものが食道を下ってゆく感覚ははっきりあったけれど、この固まりが降りて行った私のからだのなかには食道という器官はなく、篭状とも壷状ともいえる形の空間だけの広がりがあった。その広がりには際限があるようでありながら、暗くて見極めがつかない。ただ上方からは外の光が差し込んでいるようで胸部のあたりはほの明るく、ぽっかりとした広がりが見受けられた。そこには水ではない、空気でもない、いわば水分を含んで明らかに物質となった気体が緩やかに満ちていた。小粒なぶどうの果肉は垂直にゆったりと降りて来た。その微妙な速度は物質となった気体との均衡によるものだろう。そして、絶えず美味と香りの丸い水滴を放出していた。その水滴はさらに小さく分解され、微粒子となってこの物質と混り合うのだ。沁みてゆくのだ。私はどこまで、この味覚が拡散してゆくのだろう、と問い掛け、胸郭を開いたことをかすかに記憶している。多分、この美味をからだ中に拡げ、持続させてみたかったのだろう。ふと気着いてみると、戸外のディレクターズ・チェアーに背を丸めて寄り掛かっていた私が、背骨を立て、肩を下げ、腕を下げ、そして顎を懸命に突き上げて精いっぱい首を伸ばしていたのである。「まるで鳥じゃないか」と苦笑したものだ。鶴が高々と首を立て餌食を呑み下す仕草でも連想したのではないかと思う。美味を呑む形なのだろう。もちろん、このとき、味覚は既に消滅していたものの、微粒子となった美味はからだのなかの、あの暗い部分に組み込まれ、棲み着いたという妙な満足感を感じたものである。
この一粒のぶどうはこの夏(現在二○○○年十二月二三日夜)白州町の森の中で独居していた私を訪ねてくれた田中泯の手土産から選んだひと房、その先端の一番小粒なものである。丁度、桃花村のヨーロッパ公演を終え、白州の新しい屋外のけいこ場でワークショップに取り掛かる寸前の暫時の訪問であった。確か、八月十七日、昼時のことである。「途中(街道の出店)で買いました。走り(初物)ですが、おいしいですよ」と言い残して谷を出て行った。しばらくぼんやりと座っていた。これは八月四日以降、食後の決まりとしていた治療の一環であった。胸と背骨が痛み、歩行が困難となり、食後すぐに動くと胃が痛み、胃の当たりを押さえて全身を縮めねば耐え得なくなっていたからである。過去の経験を元に、既に急性の胃潰瘍と自己診断し(事実であった)食餌や生活方法を変更していた。だから、この時ぼんやりと座って、泯さん、かなり疲れているなあ、と思い、八王子以来、十五年ぶりに見られるワークショップはどんなふうに変わっているか、興味深く空想したりしていたのだ。そして「おいしいですよ」といった言葉はもちろん、テーブルの上のぶどうとその側に座っている私との関係はふっつりと切れていたのである。そこにぶどうがあるから一粒摘んだのか、ただ食べてみようと思ったのか、いまはもう思い出せない。
このぶどうを食べた日から二、三日後に味覚とはかかわりのない幻視がやって来た。時刻は午後四時近く。この谷間は三時半にはさあっと暗くなる。陽が狭い谷の対岸の稜線、その上の大木の葉の繁みに隠れるからだ。私はポットの上のコーヒー濾し器に湯を注いでいた。ぼちぼち夕食の用意だけでもしておかねば、などと考えながら。やっと熱湯を差し終えて、森の日常の定位置、低姿勢ともなっていたチェアーに座り、下流方向に視線を投げかけた。と、そこに歩いている人がいた。セピア色の少し滲んだその人は、左から右へ、流し場の小川の方へ歩いていた。普段、私が歩く踏みならした通路から二メートルほど向うを狂いなく水平に通り過ぎたわけである。路も二メートル向うに後退していた。食器を入れたザルを大事に胸前に持っていた。誰でもない。それは明らかに私自身であった。すなわち私自身の右横顔、右体側と出会っていたことである。等身大のようでもあったが、四、五メートルの距離の縮み、やや小振りのように感じていた。まったく驚くことはなかった。むしろ、私の影、分身が見事に水平歩行をこなしていることに、励まされていると感じた。この森での独居を始めた早々から、私の関心は水平感覚の獲得にあった。思考や志向は始終、訪れて来ていたが、それはなかなか、からだのなかに降りることなく、精々、大地、土に極端に近く(土まみれ)身を置こうとして苦労していたに過ぎない。私の影、分身はそれをそのまま認知、許容してくれたようである。突然の訪問は私にとっても幸せなことであった。
あと何日を数えるようになった独居の終盤にもうひとつの幻視が訪れた。今度は、影ではなく私が流し場へ降りてゆく番である。食器類をザルに入れ、根っこの露出して来た通路を歩いていた。突然、その歩行(水平ではない)を遮るように、底なしの壷状空間が現れた。光の具合もぶどうのの場合とほぼ同じだった。ただ違うのは随分、上の方から何か白いものが左右に揺れながら沈んで来ることだった。それが骨だけになった私自身であると気着いた、その途端に水葬の幻影はさっと消え、私はそのまま水の際へ下りて行った。からだのなかの死、ひどい衰弱への警報だったように思う。帰宅してシャワーを浴びた。かいなからも二の腕からも、内股だけではなく、ふくらはぎからも皺々した皮膚が垂れ下がっていた。自分のからだでないからだを検証しながら感嘆したものである。この幻視の水脈を捜してみよう、と思っている。
実ハ、一粒のぶどうの体内感覚に触れたのは前号(十二月号)森喜朗首相の美食痴呆症に対比すべく、計画しておりながら、あと三十分、二十分と締切時間の切迫にあたふたとして、すっかり忘失してしまった遺恨を埋め合わせるためであった。外は二〇〇一年初春、二十一世紀の幕開けだが、からだの時間には関係ない。遺恨や懺悔を拾ってみようと考えている。まさにそのような生涯だったからだ。