灰野敬二 トーク・エッセー 3

いま主流といわれるバンドは丸コピーしていて恥ずかしさはないんだろうか?だから今回の『哀秘謡』のオビには露骨に書いてある、挑戦状として。「日本において、ロックとはこのようにして始まるべきだった」。ま、本人たちがロックというものをどう捉えるかっていうことはもちろんあるけど、ただ彼らが気付いているいないに限らず、あの歌詞っていうのは僕からみてロックだから。
 ラブソングであろうと、やはり巧妙に言葉だけをうまく作ってきてるのよ。松本隆のあの歌詞はすごいも。歌謡曲の中に彼の歌詞が入ったことによって、歌詞があきらかに変わったの。例えばよ、すごく何でもなく、私はジュースを飲みましたが、私はキラキラ輝くからだの中に内出する液体を飲んだという言葉まではした訳よ、ただのオレンジジュースを(笑)。すごくどうでもいいようなことだけど、シュールなところまでは行った訳よ。そういう意味では言葉としての表現をしたかもしれない。言葉だけの部分であって、「私が私になる」のはある覚悟とリスクをしょう訳よ。リスクをしょわない部分でのことやった奴は全てインテリになるの。インテリってそういうことでしょ。リスクをしょわないで表現する奴はみなインテリで終わるの。
 だから、これも僕の中で言い放ってしまうことだけど、ビートルズまではインテリなの。彼らはロックと言ってるけど、僕にとっては作曲家だから。ひょっとしたら20世紀最大の作曲家かもしれない。バッハになりうるかもしれない。あの時代、あらゆるものを60年代に、ある意味で60年代は世紀末までは至らないけど、20世紀っていう十世紀単位でみた時にはもう彼らは世紀末な訳。そういう意味で彼らは勉強はしていたからあらゆる時代の音楽を総括して作曲をしたんだ。ビートルズのレコードって10枚くらいは、ほんとに聞いてもみんな違う曲なの。他のバンドってのは、いっくらあがいたってLP1枚の中に似た曲がいっぱいある訳。それはパンクにいたっては皆無だからね。本人たちが俺達は音楽の才能がないって言う、あれはもう自己弁護以外の何物でもなくて、どんどん音楽が狭まっていくのよ。アヴァンギャルドなんて言葉が出てきたことはもうとんでもないことで──。どんどんどんどんみんなズレていった訳、言葉遣いとか。
 まさに挑戦がなくなったし、それ以前に音楽が好きでないんだも。絵好きな人でなければいい絵描けないでしょう。踊り好きな人は踊りが好きじゃなきゃ踊れないはずだし、それは音楽にとっても全くそうだから─、好きじゃないんだも。それで何かをやるには総合的でなきゃいけないっていうあざとい単語を見つけて、また自分達がやれない弁護をしだす訳でしょう。音楽をやるためには美術も学ばなきゃいけないし、もちろん文学も知らなきゃいけないとか、そんなのはねぇ、やってればみんな分かることで、言葉にした瞬間に全てはそこで消えてしまうんだから……。
 ビートルズは僕にとってロックでないの。ロックは、十字架であり、やっぱりリスクだよ。というのはね、ロックが好きなあの世代というのは、みんなブルースが好きなのよ。ブルースを両親として、生みの苦しみの中からロックが生み落とされたの。それはブルースにしてみれば、また違うね、僕たちがまだ知らされてないアフリカの歴史とかにいくのかもしれない。少なくとも僕があえてロックから感知できるのはブルースまでだから。ブルースってのはタメがどうとかね、使う音がどうのこうの以前に、よく勘違いされるのは、表現法とスピリチュアルという部分ね。その部分でのブルースを感じた人間ていうのはどうしてもやっぱりロックを生み落としたのね。
 僕はあえていつも言ってるけどね、僕のパーカッションっていうのはロックから生み落とされたものだと思ってるから、そういうものってどんどんどんどん元に近づくんだと思う。その元っていうのはスピリチュアルっていう言葉になっていくかもしれないし、ある意味では音の塊ね。いつも僕は言い切っているけど、音楽なんて今ほんとに一部分しかないから、それを狡い奴らは何とか他のもので補おうとして、トータルとかね、インターメディアとか、全部を通して一つで音楽はこの部分ていう勘違いのやり方ね。そうじゃなくて音楽っていう塊を作り得るとしたならば、そうやった時に文学であり、彫刻であり、踊りであり、そういうものだと思うから、その塊を違う方からアプローチするのがダンサーだと思うし、そのことを考えながらものを書くのが作家だと思うのね。そこで自分に足りないものを見た時に、ほんとの意味で共同作業が始まるんだと思う。