灰野敬二 トーク・エッセー 7

 ワーワーワーワー言って騒げる所は、何となく行ってまた騒げるじゃない。これはどうしようもなく人間の本性としてあるから、単純にメリットと考えて、自分は責任取らなくていい訳だから。
 今言ったのは、そもそも聞く側って、たぶんポップスなんかを聞いている子たちは、2年もたてばCDは売っちゃうと思うんだよ。それはさっき言った生まれ出すこと、生み落とすことにこだわっているかどうかっていうことだけど、それと、客側が勝手なんだからやる側はもっと勝手にやらないとダメなんだよ。これが新しいことに段々変わるというより動いて行くんだから──。
 NYで僕は最後のムーブメントと思ってるんだけど、「NO NEW YORK」(以下NNY)っていうのがあったでしょう。あれだってお客さんがそこに来ていて、掛け声とかつまんねぇーとか、とにかく一方的なステージングじゃなくって、お客さんが一緒にたった10ドルでも絶っ対に楽しんで帰るから。5ドルであろうと。まぁ予定調和、普通の何万人も集められるポップというのは俺にはわからないけど、俺がいまだにこだわるロックの世界ではね、そういう奴等は、例えばロックをやってたとする。客がそこでヤジを入れてピッと止まるとか、チューニングが狂って次の曲をやらざるを得なかったとか、そういう何かもう、やらざるを得ないとかね、やろうと思ったとかじゃなくてならざるを得ない。事故だよね、言ってしまえば。表現ていうのは、さっき言ったリスクという言い方をすると、事故を怖がるなっていうことだから。僕はロックっていうものをそこまで捉えているわけ。
 いい結果ではないけど、ジム・モリソンがマスターベーションをステージでやったとか、ジミヘンが火を燃やしたとか、恐らくあの時点で誰よりもアヴァンギャルドだったはずだよ。どんな絵描きよりも、どんなフリー・ジャズの人よりも、アヴァンギャルドなんだよ。ギターに火ぃ付けてやってないんだから。ジョン・ケージもある曲でやってたかもしれないけど、公然と大衆の前だよね彼らは、少人数じゃないから。何でアイツらやったのかって言うと、やっぱり最後の抵抗として時代の流れから起きたのよ。本人達がどういう意識があったかわからないけど、やらざるを得なかった訳で……。
 NNYはヤジ入れたりとか、チューニングが狂っちゃったりとか、ガーと弾いたりすぐやんなくちゃいけなかったりして、そういうことを駄目な部分として捉えるんじゃなくて、それもよし、がNNYになったの。NNYっていうのは僕は同じ世代だから、ところが日本じゃそんなこと起き得ないのよ。「ロストアラーフ」をワーとやれば逃げていくか、石ぶつけるかでおしまいだから結局。
 CD聞いて同じ音を武道館行って聞いてという…決定的に問題なのは学校教育なの。はみ出ちゃいけませんよっていう。NNYの話に戻すと、結果として面白いのもできた訳。それを我々の観客からみれば受け入れて、一つの表現になった。そうすると彼らとしてはしめたと、これが違うんだよ。お母さんにあなた達違うことやりなさいよって言われて、自分達の才能なんかなかったのにその磁場の中で起こった訳じゃない。それが日本だと、4、5人が来てチューニング狂って、ギター演奏してた、事故だよなで終わる訳よ。
 メシアンの「世の終りのための四重奏曲」って、確か初演はピアノがボロボロ、クラリネットも壊れてた。チェロはたしか三本だったのね、譜面はちゃんとあったけど。そのことで現在の日本人の概念に立ったら演奏できない。あれはもう抵抗のものとしてやらざるを得なかった訳でしょ。そのパワーっていうのは、演奏家がロクな者がいなくったって、作曲としての、メシアンの表現として未だにどこにもない世界がある。それがリスクじゃん。リスクを追おうとしないも。だいたいリスクっていう言葉、日本語でなんだっけってね、そのことは既に僕にとって危険な訳じゃない。リスクとして自分が反応している訳だから。我々が日常で使うヘンな英語を、直訳でなく日本語で喋れる人がいったい何人いるんでしょうって言いたいよ。「テーブル」とか言っちゃう訳でしょ、机ってもう言わないじゃない。(コップを見て)コップはしょうがないか。