村上裕徳 日本現代舞踊の起源1

日本における西洋舞踊の歴史を調べていくと、奇妙な事に気付かされる。記録に残っていない時代は別にして、初期の西洋舞踊(註1)がオペラやオペレッタに必要な技術として日本で成長をとげて来た事は周知の事実であろう。
 それが関東大震災以降のムーラン・ルージュやカジノ・フォーリーあるいは宝塚・松竹両歌劇団が隆盛を極める昭和ともなると、オペレッタのみならず風刺的寸劇(バーレスク)やレビューやボードヴィルの要素も含み、舞踊史ともオペラ史とも演劇史ともつかぬ、芸能全般を俯瞰(ふかん)した視点からでないと、その全体像はつかみがたい。つまり当時の軽演劇の喜劇俳優であるボードヴィリアンは、俳優のみならず歌手であり寄席芸人であり、その多くはダンサーでもあった。
 また大正期の歌舞伎の舞踊技術には、ロシア・バレエの影響が見られるし、同時代の藤蔭静枝(初代)や花柳寿美などの、いわゆる新舞踊には、ロシア・バレエのみならず未来派・ダダイズム・構成派、そしてモダン・ダンスの影響が色濃く表れる。これを日本舞踊つまり邦舞の特異例とのみ片付けるわけにはいくまい。
 それだけならまだよい。大正中期の浅草オペラ全盛期ともなると、俳優個々の前歴が古くは壮士(そうし)芝居に始まり、新劇・新国劇・新派・曽我廼家(そがのや)劇(現在の松竹新喜劇の前身)・小芝居(こしばい 註2)等を次々と経ている場合が大多数なのである。この他に、当時の人気が松井須磨子をも凌(しの)いだ《魔術の女王》松旭斎(しょうきょくさい)天勝一座を加えてもよい。それぞれが俳優の個人史的関係で結ばれているのみならず、現在考えられがちな接触の無い別ジャンルのものではなく、時には商売敵やライバルでありながら、親しい交流もあったのである。たとえば天勝一座のダンス指導は高田雅夫(高田せい子の夫)であったし、浅草芸能人のボスであった曽我廼家五九郎の一座には歌劇部があった。また五九郎の師匠の曽我廼家五郎はヨーロッパ外遊の際に、同行した愛妾をパブロワのダンス・スクールに留学させて帰国している。そう考えると新喜劇の世界にも、オペラやダンスの流行があったとしか思えない。天勝の『サロメ』を演技指導したのは小山内薫であるし、その小山内が常連であった日本で最初のカフェー『プランタン』に女王然としていたのが、まだ新橋の文学芸者であった頃の初代藤蔭静枝である。小山内は常連で親友の吉井勇と語らい、文学の先輩であり同じく常連客の永井荷風をたきつける一方、藤蔭の方へも煽(あお)りを入れて、まんまと二人を結びつけ、後に荷風は親の意向でもらった妻と離縁して藤蔭と夫婦になる。永井荷風は米・仏で本場のオペラをあびるほど観てきた明治時代きってのオペラ通・洋楽通であり、荷風の終生の夢は彼の地で観たオペラを日本で、しかも自分の手で作りあげる事であった。
 ここで小山内の家系についても触れておこう。妹の岡田八千代は黒田清輝の片腕であった洋画家の岡田三郎助夫人。この八千代が長谷川時雨(しぐれ 劇作家。夫は『雪之丞変化(ゆきのうじょうへんげ)』の作者三上於菟吉(おときち))とともに主宰したのが雑誌『女人芸術』であり、大正末から昭和初期のフェミニズムの牙城となる。この『女人芸術』のサロンには女流文学者のみならず、日本オペラ界の最高のプリマであった原信子(帝劇歌劇部の音楽教師。石井漠・伊藤道郎(みちお)・高田雅夫・高田せい子も彼女の弟子。特に高田せい子は妹のように可愛がられ雅夫が亡くなるまで原せい子を名のる。)も常連であった。
 長谷川時雨は大正元年に六世尾上菊五郎と舞踊研究会を始め、大正三年小山内をゲストにスライド映写によるロシア・バレエの紹介『露西亜舞踊講話』を開催。この時雨の『歌舞伎草子』(大正三年)を改題再演したのが藤蔭の新舞踊作品『出雲の阿国』(大正六年)であった。小山内薫・八千代の兄妹の従弟が洋画家の藤田嗣治(つぐじ)。嗣治の長姉の息子がダンスや洋楽の評論家であった葦原英了(あしはらえいりょう)。この三人は同じ家に同居した時代もある親しい血縁者であり、英了は二人の叔父と小父(おじ、英了の表記に従う)に溺愛されて、その影響下で育つ。
 以上のべて来た事は、日本の西洋舞踊史の周辺のささいな問題かも知れない。しかし舞踊史だけの研究では観えて来ない謎の解答も、こうした迂回を経る事で全体像がはっきりと見えて来る可能性がある。まだまだ語るべき事は多く、今回の概略的にのべたエピソードも、舞踊史を解きあかす手がかりの氷山の一角にすぎない。次回は日本で最初の女流ダンサー(ダンサー傍点)であった川上貞奴について──あたりから始めよう。
 
 註1──この場合、鹿鳴館などでの娯楽やコミュニケーションのための社交ダンスではなく、観客を前提とした芸術表現の舞踊。)
 註2──自前の劇場を持つ大歌舞伎(おおかぶき)に対して、大多数の劇場を持たない歌舞伎や大衆演劇を演目とする一座の総称。つまり現在の梅沢富美男などの一座も、もとをただせば小芝居の歌舞伎であった。)