去年の九月二日に四十日間の森の独居を終えて、白州を去ってからちょうど半年あまり、再訪する機会に恵まれた。三月十七日、唐松林を切り開いた露天のけいこ場を舞台に、その前週、plan Bで掛けた桃花村公演、ゴヤ・シリーズ「微笑の計測」が引っ越し上演されることになったからである。
この企画をチラシを見て知ったとき、即座に、行こう、と決めた。唐松林のけいこ場は、その杭打ちから床張りまでときどき見に行った。森で独居していたからである。工作の進展に立ち会うのは限りなく楽しいことであった。桃花村の若い人たちが力をこめて杭を打ち、精測する姿に接するのも興味深かったけれど、切株の残る緩い傾斜地に、徐々に形を成して来る水平面を目前にして、完成を想像するのはこの上もなく楽しいことであった。既に胃潰瘍を肺気腫に苦しんでいたその時期、大変な慰めでもあった。舞台は田中泯さんの国際的なワークショップのために駆け込みで完成した。林の入口から見ると、ほの暗い唐松林のなかにぽっかりと出現したその空間は、舞台ぎりぎりまで迫った樹木にしっかりと囲まれ、粛然とした気配を漂わせていた。十メートル四方の舞台にそっと上がり、その中心に寝転び見上げると、正方形の天井は青空、雲の流れが刻々と速い。十数メートルの唐松の側壁、いわば深い箱形の底から仰ぎ見る雲の流れは殊更に速いということである。林を潜る風は柔らか、羽虫もつぎつぎと襲って来て、床一面だけ、最初の劇場は多分、こんなふうだったのではないかと思ったものだ。ワークショップを終えて、引き揚げたはずの外国人ダンサーが戻って来て、ひっそりと舞台の隅に立っていたり、カメラ取材に来た芸大生に先客然と招き上げられ、そのまま三、四十分、舞踏について喋ったこともあった。また、傾斜の仕事の合間にだろう、ふらふらと現れた玉井康成君に呼び掛けられ、半ばうっとりとしていた衰弱から助け出された思いも経験した。
さて、この森の舞台での最初の公演「微笑の計測」は私の予測をいきなり覆してしまった。いきなりとは、会場に着いた途端、舞台上に観客が既に座っていたことに驚いた気持ちそのものなのだ。この予測にはこの舞台に対する私のごく自然な思い入れのほかにもうひとつ別の根拠がある。plan Bで初演されたこの作品に、これまでの桃花村の舞台に見られなかった成果、すなわち共演者相互の関係性、ここでは中心的な存在である玉井に投げかける微笑を、出演者個々が布石された関係性にふさわしく、微笑のさまざまを発見し、表現しようとし、ときに見事に関係性を作り上げていた。その結果として、狭い空間は次第に濃密になり、白っぽい、粉めいた肌合が顕れた。これも桃花村公演では初めての経験のように思われた。泯さんから作品の構成は基本的に変わらない、聞いたのは初演後である。私は、ふたつの舞台の対照的な質の違いから、肌合いを予測から外し、もっぱら踊り手たちの、より明確な微笑の交換を期待した。それはからだの問題に帰結するものの、立ちようによっては舞台空間に救われることもあるのではないか、これが私の予測であった。
予測が覆されたことは私にとってなんの衝撃にはならなかった。むしろ舞台に座っている観客を見て、一週間前の初演後に予測したそのことを思い出した、というのが実際である。そして、その予測をいま、さらに思い出し書き列ねているのが事実なのだ。いい換えれば、忘れていた予測、この距離(時間)を一挙に縮めて、目の前に展開する表現とからめて構築する(議論化する)ほど、いまの私は器用ではない。だから森の舞台で行われることをひたすら受容しなければならなかった。いま、やっとふたつの「微笑の計測」を見較べ、判断するときがやっと来たように思う。
「微笑の計測」plan B版が白く粉っぽい肌合を結実させたと先に書いた。その肌合いは、自殺願望を誇示しているかのような男と、それを軽蔑し、結局は幇助者となる(?)女たち(デイナ、石原志保)や関係者でありながら為す策もなく見守る女、あるいは死者(モリーン)らが共有する庶民の領域を内包するものだ。狭い生活空間と親しみのある愚かさとでもいえようか。これに対し、白州版は森の舞台の環境(空間性)に配慮して、この物語を極端に地上的なもの、悲惨に落とし込めようとしたところに作者の意図が強く働いていた。それは三月半ば、標高七百メートルの高原はまだ寒いし、開演時間を夕暮れの迫る五時と設定したあたりにも測られるのだが、作品の前半を舞台奥の林間、草地で上演、後半の首吊りシーン以後は舞台で処理された。小雨まじりの天気だったが、白い衣裳もそれほど汚れず、必死な愚かさにまで降りることはなかった。なぜか。妙に、微笑も潜み、動きも硬く、少し凍えたような不自由なからだが印象に残っている。
以下は私事である。この半年の間に、何人かの人から、今年の夏も白州に行くのか、と聞かれた。そのたびに否定した。最初で最後と既に決めていたので返事し易いのだが、妙なことに最近になって、白州へ行くこと、殊にあの谷間にはいって行くことが怖い、と感じている自分に気着いた。理由はまったく判らないまま「微笑の計測」白州版を見にゆくことになってしまった。韮崎からの横手ゆきのバスで親しい若い女性たちといっしょになった。はじめ、気楽に言葉を交していたものの、次第に無口になり、長い橋を渡って白州町に入る頃にはすっかり興奮状態となっていた。あと五百メートル、運転手に降りることをいわなければならない。前に席を移した。「あら、降りるんですか」と誰かがいった。バスは小さい橋の袂で停まったものの、運賃の硬貨が掴めず、床に落とした。手の震えを見て運転手が拾ってくれた。やっと道端に立つことができた。手を振る女たちを乗せてバスは走り去った。
息を拭いて谷にはいった。最初の丸太橋を渡りながら、夏、急流の音しか聞こえなかった川が見通せるのをふしぎな気持ちで見た。坂道にはいって驚いた。森に緑の葉が一枚もない。確かめようと急いで坂を登った。全山、黄色の枯葉に埋まって、からっと明るく、優しく、怪しい線や面を見せていた。私の掘立小屋はドアが倒されていたほか、しっかりと建っていた。テーブルの上に一升瓶が立っていた。突出している異物は小屋とごく近くの苔むした軽トラックの頭の部分(坂口寛敏・野外美術工作物・一九八九)だけ。小屋まで降りてみようかな、と思ったが、なぜか、私の足は一歩も動かなかった。依然として怖いという気分は解消しなかった。
帰宅して二、三日後、突然、悲鳴という言葉が浮かんだ。悲鳴を上げているからだは意識できない。しかし、それはからだのなかに在る状態なのだと解った。怖いという感情の源なのだ、と判断した。ふと、その悲鳴と微笑の距離はどのくらい、などとできない計測を計測してみることもある。