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村上裕徳 日本現代舞踊の起源10

音二郎の悪戦苦闘のこの時代が、前にも記したように貞奴が博文の愛妾時代である。博文は明治十八年に初代首相に就任。同年の《今日新聞》が公募した人気投票『現今日本十傑』で一位が諭吉、二位が桜痴、三位が博文の、人気も上(のぼ)り調子の時期である。貞奴は十九年の一五才の時に十八才の桃介に袖にされ、二十年に囲い者としてでなく現役芸者のまま博文の愛人となった。博文は四十六才、鹿鳴館(明治十六年落成)のトップ・スターだった夫人の梅子は三十九才。長女の生子が十八才で、貞奴の方が娘より若かった。
 博文は施した貞奴の経済面での待遇は不明だが、後に愛妾となった貞奴より七才若い大阪北の新地の芸者小吉について。高群逸枝の『女性の歴史』は、月手当が三百円で二年間の寵愛を受け、夫人梅子にも可愛がられ、私邸出入も自由であったと伝えている。梅子は元芸者だけに、非常にサバけた面倒見の良い賢夫人であったらしい。おそらく貞奴も同様の待遇であったと想像される。ちなみに明治二十四年の官報に従えば首相の年俸九千六百円、各省大臣六千円、枢密院議長五千円、次官四千円であるから、次官なみの収入が保証されていた事になる。当時の独身官吏が二十円位の月給であり、現在の通貨価値で一万倍前後と想像される。単純計算だと博文の収入の半分近くを貞奴が貰っていた事になるが、当然政治家の収入は年俸のみではない。つまり政治的裏金が莫大に有った。貞奴にしても芸者を続けているから、その上に芸者の花代が加算される。
 当時の芸者の等級は新橋が一等で花代一円。貞奴等の芳町芸者は、日本橋・新富町・数寄屋橋と並んで二等の八十銭から三等の五十銭。烏森・吉原が三等で五十銭。深川・神楽坂が四等の三十銭。赤坂が五等であったという。雛妓(おしゃく)はその各半分の料金であった。誤解されるとイケナイので断っておくと、これは《売春》のための料金ではない。揚屋(あげや)や芝居茶屋等の宴席に置屋から芸者を呼んだりした場合の、一定時間の基本料金である。一日何席かの掛持のうえ、当然気前のよい御祝儀もあり、そこから芸者置屋への紹介料を差引いても、かなりの収入(みいり)だったと思われる。演劇界は昭和二十二年四月号の安部豊の一文によれば、貞奴の一日に稼ぎは御祝儀を含めて二円四、五十銭だったという。おそらく日に二、三席をこなしていたのであろう。
 当時の一般庶民は事業主でないかぎり高額所得者であっても、紳士録に載せて参政権を得たいと思う者以外は税を納めていなかった。そのため宵越しの金は持たない江戸っ子気質(かたぎ)の芸人や芸者などは、有れば有るだけ湯水のごとくその収入を使っていた。堅気(かたぎ)と違って金銭感覚が麻痺しているために《氷(アイス)》と呼ばれた高利貸しの好餌(カモ)にされる場合もあったが、売れっ子芸者のあるかぎり、身を持崩す事も無かったらしい。貞奴も御多分に漏れず、小奴時代の御転婆(おてんば)に拍車がかかり柔道・玉突き・花札・コップ酒と、とどまるところを知らない。ただし貞奴には一途な面があって、乗馬や水泳にしても熱中するだけでなく、自分の技術としてキッチリ修得する手堅さが有った。いわゆる三日ボウズではない。馬術の腕前は、十メートルの白布を地面に着かないように靡(なび)かせ走る古風な馬術《母衣引(ぼろびき)》・競技会に出場するほどの技量であった。水練(すいれん)も得意で、海水浴も富岡海岸で博文と井上毅(こわし)が手をとって教えたという。幕末期に白刃(はくじん)をくぐって来た刀傷だらけの無骨な裸の男二人にはさまれて、バチャバチャやっている十六才の貞奴を想像すると、ほほえましい気がしないでもない。大磯の旅館涛龍館(とうりゅうかん)の浴室で、当時まだ珍しかった石鹸をふんだんに使い、あたりかまわず泡だらけにして、他の泊まり客から羨望含みの顰蹙(ひんしゅく)を買う傍若無人ぶりも、貞奴の無邪気から来る子供らしさと言えるであろう。
 十代頃の貞奴について明治四十四年十一月十四日の《国民新聞》は、「鼻筋の通った顔立ち、やや赤みを持った髪の毛、腰下の長い体格、男のする様な荒っぽいことを好む性質、誰いうとなく、混血児(あいのこ)だという噂がパッと立って、変り者の奴の評判がねんねん愈々高く、お歴々の座敷数が増えだした。我儘が却って面白いとあって人気が高まる」──と記している。貞奴の子供じみたワガママを通せば通すほど人気が出るという《花柳界》とは不思議な世界であった。

 意外な点は、西洋人の混血と間違われ、《女西郷》と腕白ぶりから呼ばれた貞奴が、写真の均整のとれた体躯(たいく)から想像するよりはるかに小柄な百四十八センチの身長だった事である。比較のために活躍期が重なる貞奴より十三才年少の奇術師天勝が、女性としては大柄な百六十センチ弱。博文が当時の男性の中肉中背で百五十八センチであった。貞奴の小柄な点も、特に後年のヨーロッパでのアイドル的な人気に大きく貢献したと思われる。

 貞奴は二十三年頃まで博文の寵愛を受け、以降は自由の身になった。前年に憲法が発布され、二十三年に国会が開設される時期に当たる。この音二郎に出会う以前、見落とされがちな記録だが、早くも貞奴は役者として舞台に立っている。素人芝居という自覚のために《女優》として貞奴には認識されていないが、五代目菊五郎に教えを請うたほどだから、演劇史の上で見逃すわけにはいくまい。

 事の起りは明治十九年、博文の娘生子の夫・末松謙澄が主唱し、外山正一・福地桜痴・森有礼・渋沢栄一らが発起人となって設立された《演劇改良会》に端を発する。詳細を記すイトマは無いが、末松の、諸外国を参考にした洋風建築の大劇場の新設、興業時間の短縮、花道の不要、チョボ(浄瑠璃)の廃止、装置改良などを主眼とする『演劇改良意見』(明治十九年刊)に、外山の、茶屋制度(註1)・女形・黒衣の廃止と俳優の品行是正、狂言の上品化などの意見を付加した『演劇改良論私考』(明治十九年刊)を中心課題とする、当時の歌舞伎しか無い日本の演劇界にとって驚天動地の急進的意見が、その運動目的であった。しかもこれは個人的結社の意見ではなく、明治政府の鹿鳴館に代表される欧化政策の、ゼガヒでも成しとげねばならぬ意向を背景とした運動体であった。特筆すべきは欧米に倣(なら)い、日本では地位の低かった劇作家の重用を強調している点で、演出家すら居なかった旧劇の世界では画期的な事であった。この演劇改良会の運動に、芸者芝居が関わっているのである。
 この演劇改革は数々の反発と無理もあり、修正を重ねて、民間の協力も仰ぎ、ひとまず目的を達するのに四半世紀を用している。歌舞伎座・帝国劇場の新設なども、その一連の成果であった。音二郎の演劇改革も、これを基盤としているが後述するのでここでは触れない。いずれにしても近代国家日本を誇示し、欧米人に観せて恥かしくない日本の代表的演劇と劇場を造りあげる事が急務とされ、歌舞伎という芸能からエロ(男色趣味・嗜虐趣味・芝居茶屋の遊廓的要素)・グロ(女形・黒衣の異様さ)・ゲテ(花道・外連や怪奇趣味・勧善懲悪のバカバカしさ)を排除し、飲食しながら参観できる古代の饗宴的空間の猥雑さを除去する事が意図された。それらは皮肉な事に、ロシアやヨーロッパの前衛劇が二十世紀初頭に歌舞伎から窃取(せっしゅ)したほぼすべてであった。
 
 註1──大劇場での芝居の升席や、そこでの弁当・酒(当時は飲食しながら観劇していた)の手配、幕間や芝居前後の休憩、早朝から深夜まで(朝六時から夜十時頃までの事もあった。そのため欧米なみの時間帯導入が、改革の目的とされた)の公演のための宿泊、贔屓役者との連絡や饗宴の手配等々、芝居に関るすべての事は芝居茶屋を通さねば出来なかった。一週間日替わりの通し狂言などでは、その期間泊まり込むのが当然だった。《戯場》を「しばい」と読ませたように、役者はもとより芸者や幇間も呼んで遊べる劇場と合体した《遊廓》と考えればテットリ早い。有名役者と接触するためには、下足番から風呂番・売子にいたる五十近い《職種》の劇場および芝居茶屋関係者=《芝居者(しばいもの)》にチップをはずむのが常識だったから、大変な散財であり、《役者買い》(※1)ともなると資産が傾くほどの高額を要した。茶屋制度の廃止は、こうした淫靡で猥雑な影の部分を分離する事も目論まれたと考えられる。

※1──金銭で金満家の有閑夫人が役者や芸人を愛人とするシステム。有夫の場合には法的には姦通罪(※2)該当するが、《役者》は社会的地位として《人間以下》と考えられていたため、相手を《間男》として起訴する事は《役者ふぜい》と対等にはり合う事であり、それは《間男された事》よりも恥かしい事であった。そのため起訴によって成立する姦通罪は、芸人や役者にはほとんど適用されないに等しかった。《役者買い》は芸者などの玄人をはじめ政財界や資産家の夫人・令嬢などによってなかば公然と行われ、そのために芝居茶屋が文字通り遊廓として機能した。むろん歌舞伎の裏面である江戸伝来の陰間(かげま)茶屋として利用されたのは申すまでもない。営業の一端は、こうした裏面にまつわる少なからぬ収入によって成立していたのである。
※2──妻を夫の所有する《物》として財産と見なす法律によって出来た犯罪。窃盗罪と同様に起訴によって成立し、重罪であった。北原白秋の例に従えば、白秋は二年間《入獄》している。有島武郎の心中原因も、愛人の夫から姦通罪をチラつかされたためで、もし起訴されれば有島個人の《入獄》と爵位の放棄にとどまらず、累(るい)が一族全体に及ぶ可能性が有った。相手が藤原義江のような《芸人》のドン・ファンならば、婦人の夫が華族であっても、マッタク問題にされない《罪》だったのである。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源11

話を芸者芝居に戻せば、演劇改良会の運動の一環として、渋沢栄一・大倉喜八郎・福地桜痴などと地元有力者の協力で、貞奴の住む浜田家に近い蠣殻町に有楽館という演芸場が新設されたのが明治二十二年六月。その落成式に慈善芝居が企画され、女形の廃止を主張する会の趣旨に従い芸者達に出演が求められた。貞奴十八才の時である。演目は『曽我討入(そがうちいり)』貞奴は五郎役であった。
 この公演は恒例となり歳末公演が定着し、貞奴は芸者芝居に熱中する。『菊畑』の鬼一法眼、『寿曽我対面』の五郎と敵(かたき)役の工藤祐経、『八幡太郎伝授鼓』の源義家、『川連館(かわつらやかた)』(『義経千本桜』四段目)の狐忠信、『廓文章』の藤屋伊左衛門など、男役の、しかも主役ばかりを貞奴が演じている。五代目菊五郎に教えを受けたのは『菊畑』であるらしい。明治四十四年二月号の『演芸画報』の貞奴の回想によれば、「立役が好きで、いつも他人(ひと)さんが厭がる立役は背負い込んで納っていたものです」──という。どうやら当時は男装が、羞恥につながるかなりエロティックなニュアンスが有った事を感じさせる発言である。同時代の大女優サラ・ベルナールの男装癖などと比較しても、大変に興味ぶかい。「千円位の切符は引受けて、自腹を切って芝居に出て嬉しがって居たものです」──という発言もあり、かなりの入れ込みようが窺える。千円のリスクは当時の中級官吏の約三年分の収入に相当するが、その金額も貞奴には痛手にならない額であったようだ。有楽館は明治二十七年に経営難で閉館しているから、五年間に六公演の芸者衆による≪女歌舞伎≫が演じられていた事になる。確証は無いが、貞奴と同じ芳町芸者の米八が千歳米坡(ちとせよねは)として、二十四年に最初の男女混合劇を企てた≪済美館≫に出演している事から、後に女役者になった米坡が、この芸者芝居に参加している可能性は充分に考えられる。≪済美館≫結成にあたり脚本家の依田学海(よだがっかい)が、舞台経験の無いズブの素人を≪女優≫に仕立てあげたとは考えられないのである。
 また芸者芝居の時代は、貞奴が歌舞伎役者を浮名を流した頃と重なっている。五代目中村歌右衛門の回想に、「あの女は我まま者で、気に入らぬことがあると。どんな名士のお座敷でもサッサと引上げて帰りました。あの女は私と遊ぶ時、いざ勘定となると算盤を取寄せて自分ではじき、必ず割勘にしておりました。人におごって貰いたくないのです」──とあり、ある種の金銭に細かい律儀さに閉口している口吻(くちぶり)だが、俗に言う≪役者買い≫の、芸者の側が役者に貢ぐという間柄でなかった事が読みとれる。歌右衛門が福助時代には貞奴との結婚話もあったらしい。六代目梅幸とも親密だったから、貞奴が仮にどちらかと所帯を持っていたら女優貞奴は誕生しないが、百年以上を経た今日では、歌舞伎界の大名跡(ビッグネーム)のかなりの人々が貞奴の末裔(ちすじ)に成っていたであろう。
 それはさておき、戦後に帝劇で秦豊吉(はたとよきち)(註1)が上演した『マダム貞奴』(註2)では待合で歌右衛門と逢引していた貞奴が、音二郎の部屋に間違って入ったのが初対面という筋書きらしい。いかにも有りそうな話だが、これはフィクション。『旅芸人始末書』では大倉邸の一件をナレソメとしているが、データーが不充分。しかも、どの研究書に当っても、この一件が何年なのかがわからない。『女優貞奴』(山口玲子著)で幾つかの証言をもとに、関東へ進出して来た音二郎一座をタマタマ見た貞奴が、音二郎に興味を持ち、宴席でも顔を合わせるようになり、そのうち貞奴の方が音二郎に夢中になったという論旨だが、事実関係がかなりアイマイで想像の域を出ない。音二郎と貞奴の回想の齟齬(そご)のみならず、数種の貞奴自身の証言にも食い違いや不明瞭な点が多いためだが、その理由が、気恥しさやモノ忘れといった通俗な事に起因するのでなく、何か無理に帳尻を合わせている感じが証言の中にするのである。それが山口著にも波及し、二人の初対面あるいはその後のイキサツについて歯切れの悪さを感じさせる。憶測を最小限度に押さえなければならない評伝のツライところである。
 ただし同著には、川上一座の筆頭幹部であった藤沢浅二郎の、「音二郎が芸者遊びの妙味をたのしみながらも、貞と契りを交わしたのは、中村座の三の替りのあと、宇都宮の大川座へ巡業した時」──という証言があり、少くとも、この時期以前から二人が親しかった事がわかる。時期が確定できる最も古い証言が、この記述なのである。中村座公演が二十四年十月まで二の替り、三の替りを立て続けに上演しているから、現代風に言うと二人の初エッチは二十四年の暮れあたりと考えてよかろう。大倉邸に三日間立籠(たてもこ)る一件は、それ以降と考えるのが、まず順当な推測と思われる(註3)。なぜこうもアリバイ崩しめいた瑣末事(さまつじ)にこだわるかと言えば、同じ頃に貞奴は、五年ぶり東京支店に転勤となった桃介と会っている。愛憎交々(こもごも)の桃介への感情と、音二郎に傾いていく貞奴の心理を解析するのは残された資料のみでは不充分だが、資料を自分なりに秩序だて仮説を立てる事は可能である。そうしないと、何が貞奴をひきつけたかという音二郎の魅力とともに、音二郎が選んだ貞奴とう気丈な女の決意は希薄になると考えるからなのだ。貞奴が《野合(やごう)》でないと強調し抗弁するように──という事は一般的に野合と見られた事を意味するが、捨鉢な済崩(なしくずし)で音二郎と一緒になったわけではないのである。

 貞奴は「満二十歳になったある日」、御座敷で桃介の名前を小耳にはさむ。桃介は二十二年に米国から帰国し、結婚後に北海道に赴任。二十四年一月に長男が生まれ、東京へ転勤になっていた。貞奴は七月十八日生まれのため「満二十歳」なら二十四年七月以降にあたる。「そんな折」(山口著の表記に従う。二十四年七月以降と考えられる)上野池之端で催された母衣引(ほろびき)の競技会で、貞奴の騎乗する馬が引く布製の母衣(ほろ)が池畔の柳にからまり、煽(あお)りをくらって貞奴は落馬してしまう。幸い怪我は無く脳震盪(のうしんとう)だけであったが、そこに居合わせたのが桃介であったらしい。『女優貞奴』ではこの場面のみ出典が明記されず、しかも、「思いがけない再会に、貞は痛みを忘れた。目を閉じた貞の耳に、近くのテントまで静かに運ぶように指図する桃介の声がきこえ、暫く休むと自力で歩けた」──という風に内的心理まで描かれる小説風の表現になっている。山口の評伝としての認識に疑問を感じるし、「初恋の桃介は、貞が当面する結婚問題の相談相手になりかわった」──という結論にも、客観性が感じられず疑問が残るが、桃介との邂逅(かいこう)は事実であるらしい。
 

註1──明治二十五年生まれ。七世松本幸四郎の甥。東宝を経て帝劇社長。翻訳家・随筆家としても著名。『西部戦線異状なし』『ファウスト』の名訳の他、丸木砂土(まるきさど)の筆名で西洋ダネの好色随筆多数。芸能、特に見せ物に造詣が深く『昭和の名人芸』『明治奇術師』など研究書も多い。誤解防止に、戦前の翻訳家、特にフランスや中国文学者の多くは帝大教授を含めて、好色随筆が得意であった。秦だけが特異なわけではなく、多くの大家が艶笑小咄やポルノグラフィーを、むしろ誇らしく紹介していた。

註2──越路吹雪・古川緑波(ロッパ)は浅草軽演劇《笑いの王国》出身。本名は加藤姓で養子だが男爵。生家は浜尾家。父浜尾新(あらた)は子爵で貴族院議員。その浜尾四郎は検事で探偵作家。緑波の兄の息子が侍従長であった浜尾実。
註3──「以降」とすると、連載六回目の、大倉邸の一件を初対面の可能性アリとする私見と矛盾するが、矛盾はそのままに残す。貞奴の証言が、二人の馴初に関してかなり作為的なために、謎めいた食違いをきたす事にも起因する。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源12

 『演芸画報』明治四十一年一○月号掲載『名家真相録』の貞奴の談話によれば、「私も一風変って居りましたので、殊に書生肌の人が好きでもありましたし、川上ならば生涯役者をしても居まいと思いましたのです、又私の身分で真面目な所へ行こうと言った所が、先き様で貰って下さりますまいから、一層何だかわけの分らないような人の所へ行きたいと言う決心もありました」──と語っている。また同じ発言中で、音二郎を知ったのは『板垣君遭難実記』(明治二四年)を養母と見に行ってから──とする一方で、音二郎と《いっしょになってしまった》のは明治二三年だとも言っている。二三年なら横浜と芝開盛座公演で別演目である。「女優貞奴」の著者山口玲子はわずかに《疑念》をさしはさみながらも、「その折に知り合った可能性もあるけれども、これは多分貞の記憶違いであろう」──とし、そして「音二郎という存在を知るなり、殆ど間髪をおかず、恰も電光石火の如く「いっしょになってしまった」」──と続けている。その理由を、芸者という職業を環境から、政府高官や実業界の名士あるいは梨園(歌舞伎界)の御曹司達のような名声も地位もある人間よりも「素寒貧の名もなき『書生』といっしょになって、わが手で一人前の男に仕立てるのが、芸者育ちの貞の夢であった」──とし、その理想像にピッタリだったとする音二郎の「荒けずりで硬骨漢」の未完成な魅力を強調する一方で、「けれども貞が音二郎に惹かれたのは、そうした後から考える理由づけ以上に、直感と無分別に衝き動かされてのことだったかもしれない。とにかく貞は音二郎を見るや、たちまちにして、その魅力のとりこになってしまった。音二郎のどこにに惹かれたのでもなく、まして新演劇の『板垣君遭難実記』や『オッペケペ』を認めたのでもなく、音二郎という年限の出来合いに、絶大な関心を持って、体当たりしていった。強いて言えば、音二郎の標榜しちゃ『書生演劇』の書生という自称に、多少引っかかった気味がないでもなかった」──という、どう読んでも破綻した結論を導き出す。しかし情報を鵜呑にして二人の経緯を追っていくと、どうしても矛盾やはじょう破綻が生じて来るのだ。これは山口のせいばかりではない。貞奴の発言に従うならば、書生上りの地位も財産も無い、ほとんどの青年が魅力的な対象となってしまう。しかも貞奴は生娘ならね一流の芸者なのである。その貞奴が急に音二郎に夢中になったのだから、下世話な理由からだとは思えない。他に無い魅力か、あるいは、その急変に、別サイドの理由付けが必要となって来る。
 劇作家の長谷川時雨は、貞奴が福助(後の歌右衛門)から音二郎に乗り替えたという下卑た巷説を打ち消すように、讃仰おしみない貞女として貞奴を謳(うた)いあげた『近代美人伝』(昭和十一年)で、「金子男(だん)が、伊藤総理大臣の秘書官のおり、ある宴席で川上の芝居を見物するように奴にすすめて、口をきわめて川上に快男子であることを説いた。そうした予備知識を持って、はじめて川上を見た奴は、上流貴顕の婦人に招かれても、決して川上が応じてゆかないということなども聴いて、その折は面白半分の興味も手伝ったのであったが、友達芸妓の小照と一緒に川上を招いて饗応(きょうおう)したことがある。それが縁で浜田家へも出入するようになり、伊藤公にも公然許されて相愛に仲となり、金子男の肝入りで夫妻となるように纏(まとま)った仲である。」──と、面識も有った貞奴が読む事を意識した上で、破綻なく二人の経緯を書き記す。時雨の文面の表層を読むかぎりは、いささかの彼女の疑念も感じとれない。しかし穿(うが)った見方をすれば、むしろ理路整然としすぎている。あるいは時雨が文章の表層を裏腹に、読者の裏目読みを期待して表(おもて)の平仄(ひょうそく)を合わせているかに思えてくるほどである。
 金子堅太郎男爵(註1)は音二郎と同郷の福岡出身で、おそらく以前から音二郎の後援者であったと思われる。注意すべきはこの経緯を鵜呑にするにしても、音二郎・貞奴の出会いが金子の御膳立によるもので、背後に伊藤の意向がうかがえる。秘書であった金子が伊藤に相談なしに単独行動をとっているとは思えない。明らかに、ある計画性が感じられる。その事に気付かない時雨では無いし、裏目読みをするとキッチリ無駄なくそのように書いてある。
 さて、これより以前に桃介との再会があったと仮定し、焼けぼっくりに火がついた場合を想定して、私の仮説をおし進めてみよう。桃介は計算高くはあるが物事に淡泊で、それでいて冷血漢でもなく、貞奴に対する愛情も男性中心的見解をのぞいては嘘ではない。ただしその場合、愛人としての限界が、《正妻》ではなく妾宅に囲われる身である事は明らかであり、前途は有望ながらもまだ二十二、三才の桃介は、貞奴を囲い者にするには経済的に無理が有った。一方、愛人の契約が終ったとは言いながら、博文が貞奴の後盾であるには違いなく、少々諭吉に怨みの有る伊藤としては、自分の傘下の貞奴を諭吉の養子の桃介に取られ、巷の話題となる事は、何としても防ぎたかった筈である。養母の可免にしても、もうすぐ適齢期を過ぎようとしている貞奴だけは《妾》でなく《正妻》にして、ゆくゆくは花柳界の外へ出したい考えが強く有った。数年前に貞奴を袖にされた母親としての恨み辛(つら)みも累積されており、気丈で気位の高い可免が、桃介と貞奴の関係の再燃を許すとは考えられない。博文を可免の利害はすべての面で一致していた。そして貞奴の愛情の対象を桃介からそらすために夫の候補者として立てられたのが、かつての桜痴の帝政党の党員の音二郎であったと考えられる。音二郎は寺の小僧から諭吉に引きとられ福沢家に寄宿する慶應義塾の学生となった経歴もあるが、門限破りに加担して方遂された事も有って、諭吉との関係は切れていた。桃介よりも四才年長の音二郎は、役者ながら演劇を《手段》と考え、役者で終るつもりは毛頭なく血気盛んである。政財界の老獪(ろうかい)で捕え所のない老人達や、趣味は洗練されながらも芸者には見慣れた歌舞伎役者達には無い、荒けずりながら明快な音二郎の気質を、貞奴には新鮮な驚きであり魅力であった。他に、後年音二郎の劇作も書いた桜痴の後押しが有った事も考えられる。この計画をうまく誂(あつら)え浦で演出したのが金子男爵であった。そして貞奴の桃介への思いを断たせるために、金子・可免・音二郎・貞奴の膝詰談判で立籠(たてもこも)ったのが大倉の別邸の一件だったと考えられる(註2)。そこでは金子・可免による貞奴の説得はもとより、今後の音二郎の展望や、伊藤・金子人脈による援助の相談、歌舞伎役者等との浮名の精算も含めた、以前から音二郎と親しい関係が有ったとする、偽のアリバイ作りめいた口裏合わせ等が成されたと私は考えている。何度かの行き来が有ったにせよ、二人の婚約が急転直下であった事に間違いは無い。音二郎・貞奴ともに赤新聞のゴシップ記事の好餌であったから、現代のアイドルと同じで世間の眼を逃れて交際が有ったとは考えられないし、隠す必要も無かったのだから、交際期間も短く、逢瀬も数少なかったのが本当であろう。このように仮説を立てると、実証は不可能だが、ほとんどの矛盾は解けて来る。残る疑問は、貞奴が入れ揚げるまでになってしまう音二郎の魅力である。
 

註1──明治二十五年生まれ。七世松本幸四郎の甥。東宝を経て帝劇社長。翻訳家・随筆家としても著名。『西部戦線異状なし』『ファウスト』の名訳の他、丸木砂土(まるきさど)の筆名で西洋ダネの好色随筆多数。芸能、特に見せ物に造詣が深く『昭和の名人芸』『明治奇術師』など研究書も多い。誤解防止に、戦前の翻訳家、特にフランスや中国文学者の多くは帝大教授を含めて、好色随筆が得意であった。秦だけが特異なわけではなく、多くの大家が艶笑小咄やポルノグラフィーを、むしろ誇らしく紹介していた。

註2──越路吹雪・古川緑波(ロッパ)は浅草軽演劇《笑いの王国》出身。本名は加藤姓で養子だが男爵。生家は浜尾家。父浜尾新(あらた)は子爵で貴族院議員。その浜尾四郎は検事で探偵作家。緑波の兄の息子が侍従長であった浜尾実。
註3──「以降」とすると、連載六回目の、大倉邸の一件を初対面の可能性アリとする私見と矛盾するが、矛盾はそのままに残す。貞奴の証言が、二人の馴初に関してかなり作為的なために、謎めいた食違いをきたす事にも起因する。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源13

 「あの人は性来非常に陽気な質です。非常に嘘つきで恰度狐を馬に乗せたような人、いまここで嘘を言ったかと思うと又向うで嘘を言うという調子でした。だがあの人は女にかけては一種の魔力とでも言うのですか、それは色男ですよ」──明治四四年十一月十一日『東京日日新聞』掲載の烏森《浜の家》女将の談話による音二郎評である。また劇評家の水谷幻花は、「ヤニを嘗(な)めた青大将の様な顔はしているが、川上もあれで一寸色男」(『演劇風雲録』大正十一年刊)──と評している。
 ところで音二郎は、写真を見てもいわゆる美男子というタイプではない。いつもどこか笑っているような顔は、相手をなごませる愛嬌を感じさせるが、アメリカで日本のプリンスではないかと誤解されたという桃介の俗事から超然としたような気品のある容貌と比べると、メンクイの女性連からは何故に貞奴が夢中になったのかと疑問になって来るであろう。ただし、美男子というなら桃介に限らず貞奴の贔屓(ひいき)客であった歌舞伎役者なども該当するに違いなく、幻花や浜の家女将の言う「色男」ぶりは、それとは別の魅力となって来る。
 ところで一般的な音二郎の評価は現在でも、場当たり的なケレン味と即興の妙味だけの、主に《オッペケペ》だけが当たった、山師でホラ吹きの人物のように考えられて来た。倉田喜弘の『明治大正の民衆娯楽』をのぞいては、本当は時代風潮を先どりし、そうした状況を作りあげたのが音二郎であるにもかかわらず、時代に便乗し歴史に残ったダケのように記述されることが多い。まるで雑芸人のような評価も少なくない。音二郎から十年前後を経て始まる坪内の歌舞伎改革や小山内の新劇運動に比べて、理論的な裏付けが明確でないために、アカデミズムの世界では先駆者として《仕方無く》名を記しても、芸術的評価としては無内容の娯楽、あるいは肯定的見解でも社会風刺の芸能として《処理》される場合がほとんどである。しかし山師もホラ吹きも同時代に数々居ながら、理論より先に行動に移し時代を先どりし、蜘蛛の子を散らすように拡がっていく明治を舞台にした現代劇としての大衆劇を、運動として拡大させる駆動力であり起爆剤であり続けたのは、毀誉褒貶(きよほうへん)ありながらも、やはり音二郎だった。また《オッペケペ》で芸者や権妻(ごんさい)(妾)などの観客を揶揄(やゆ)しながら、そのカラカイの相手からも愛されるような愛嬌のある魅力を、多くの芸人達は持たなかった。それのみならず演劇界を変革するために、劇場そのものから変え、環境を変える事で観客の意識のありようを変え、そこでやっと新たな演劇を作る事が可能になると考えていたのは、当時の日本に数人にすぎない。しかもそれを、最も早く実践したのは音二郎であった。チョンマゲでない断髪の劇を、一般大衆が違和感なく観る基盤を全国に波及させ、音二郎自身にも本邦初演が数あるが、西洋演劇の一般普及に貢献した、言わば音二郎は、そのパイオニアであった。むろん時代状況による限界もあり、時期尚早であったり経済力の面で失敗もあったが、そこを持ちまえのタダでは転ばぬ向上心と、失敗をも次へのステップとする楽天的な陽気さで、音二郎は明治の演劇界をリードしていく。この現状に甘んじないで利害を離れて現実変革を成そうとする新精神は、周囲からホラ吹きや山師と叩かれもしたが、確実に同時代の誰も考ええないような、他の人が持っていない音二郎の魅力であった。また、その大風呂敷のホラも、弁舌さわやかで軽快かつユーモラスな音二郎の話術にかかると、妙に現実的な迫真力を帯びて来る。そうした意味で、金子堅太郎が言うように、まさしく音二郎は「快男児」であった。それらの魅力に、貞奴はコロリと参ったのであろう。
 二人が正式に結婚するのは明治二八年だが、これから貞奴は音二郎の所に通いつめ、芸者勤めを続けながら、一座ぐるみの面倒をみて、晴れて音二郎と結ばれる日を心待ちにする。いっぽう人気者になった音二郎は、堅物と思いきや、後年(明治四三年三月『俳優鑑』)のアンケートに「娯楽──芸者買い」と返答するように、日本橋の小かね、新橋のとん子や清香など、現代で言うとアイドルであった花柳界の名妓と浮名を流し、そのゴシップは新聞を賑す事しきり。貞奴も気がかりであったろうが、藤沢浅二郎(音二郎の片腕)の回想によれば、「奴は世間の嘲笑の的となり、座敷へ出ても冷やかされる。可愛い男を一人前に仕上げなければ私の一分(いちぶ)が立たないと力んで」、浮気については眼をつぶり、音二郎の男気を見込んで身代一切つぎこみ、この何に成るかわからぬ男の野心達成のために、縁の下の力持ちとなって協力する事になる。
この頃の貞奴は、後に自分が女優になろうとなどとは露ほども考えていない。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源14

音二郎たちが開始した演劇は《書生芝居》《壮士芝居》と呼ばれながら、新演劇の基盤となるメソッドがいまだ無いまま、歌舞伎を批判しながら、その見よう見まねから素人が自己流で始めたものであった。そのため、リアルな立廻りや現代物には手本が無いだけにかえって新味がありながら、発声・セリフ廻し・義太夫・囃などなど、すべて旧劇である歌舞伎を踏襲せざるをえなかった。つまり新しもの好きの一般観客からは好評であったが、伝統芸としては技術がともなわず、拙い(つたな)模倣である部分が目立ち、伝統的技術を重んじる劇評家・歌舞伎愛好家からの評価は、かなり手きびしいものだった。明治二六年から舞台評を始めた当時二一才岡鬼太郎(おにたろう)(註1)は、後年の三六年に、川上一座に喝采する手合いは「酸豆腐通(すどうふつう)」と評し、演劇として歯牙にもかけなかったが、鬼太郎と同じく明治五年生まれの岡本綺堂(きどう)(註2)はやや好意的な評価をよせている。
 『明治劇談ランプの下にて』(昭和十年刊)の中で、明治二四年の依田学海作『拾遺後日連枝楠(しゅいごじつのれんじのくすのくき)』を綺堂は、「大勢のなかには顔のこしらえのまずい者や、烏帽子の着用のつん曲がった者や、正面を切って台詞の言えない者や、男か女かわからない者や、種々さまざまな欠点が見出だされないではなかったが、(中略)壮士と名の付いている俳優たちがいわゆるチョボ(浄瑠璃)に乗って芝居をする──それがさのみおかしいとも思われないばかりか、弁の内侍の千代野との別れなどは、チョボを十分に使って一部の観客を泣かせたのである。わたしもさすがに偉いと思った。」──と評している。ただ、この綺堂も二五年公演の熊本神風連騒動を題材とした『ダンナハイケナイワタシハテキズ』には難色を示し、「狂言といい演技といい、俗受け専門、場当たり専門、実にお話しにもならないもので、わたしは苦々しいものを通り越して腹立たしくなった。」──と回想している。当時二十才の綺堂は観劇の翌日、東京日々新聞に出社するとすぐさま劇評にとりかかり、題もわざと『市村座激評』として川上攻撃をしたらしい。温厚な劇評家であった綺堂にしてからサヨウであったから、他の批評家はおおむね否定的であった。ただし綺堂も、「年の若いわたしは、それは却(かえ)って彼等の逆宣伝になることに気がつかなかった」──と回想するように、悪評もかえって大衆心理をアオるあたりが面白い。そんなにヒドい芝居なら、ひとつ話のタネに観ておこうというわけである。
 誹謗(ひぼう)・中傷もはげしく、二四年九月一日の新聞『日本』は、壮士は「天下の一大至毒物」であるとして、座員十七人の経歴をあげ人身攻撃をしかける。座員の動揺もあったが、この時期音二郎は反撃に出ず、ひたすら公演活動に邁進し、じっと耐え抜いた。演劇界に味方は少なかったが、五十八才の演劇改良論者依田学海や『歌舞伎新報』編集者で黙阿弥門下(註3)の久保田彦作も支持者になってくれた。また川上ビイキの弁護士・森肇(後の帝劇女優森律子の父)が、「殺身為仁」の四文字とドクロの絵入りの引幕を送ってくれた事も心の支えとなった。そして二四年の『佐賀暴動記』土方宮内大臣・後藤逓信大臣・有栖川宮の観覧を経て、二五年に金子堅太郎の案内で東京慈恵病院に皇后を観客に迎え『平野次郎』を上演し、《皇后宮台覧》によって、川上演劇の観客を低劣視する批評を一挙に封じこめる。つまり劇評に、音二郎の芝居を批判は出来ても、その観客を「低劣視」した書き方が、まかりまちがえば皇室に対して《不敬》にあたるため、矛先をゆるめねばならなくなったのである。
 倉田喜弘は「明治大衆の民衆娯楽」のなかで、一八八○年を中心に前後十年に明治天皇の地方巡幸がしばしばあり、一八九○年前後数年に芸能の天覧が続出する意図を、次のように分析している。
 かねがね政府は、芸人社会から卑猥性を追放するために躍起となってきた。それにもまして、体制批判や皇室の冒涜に眼を光らせてきた。しかし、どれほど取締りを強化しても、根絶することができない。そこで一転して、天覧という懐柔策を用いたのではないだろうか。
 地方巡幸の場合、各地の有力者に金銀を与え、その徳行(とっこう)を賞揚した。それと同様、芸能各種目のリーダーを選んで、天皇が親しく彼らの芸を謁見する。芸人たちは狂懼(きょうし)感激して一身の光栄にむせび、簡単に体制のわく組みに組み込まれる。しかも芸人たちは、観客の前で天覧をひけらかすから、民衆教化の役にも立つであろう。そうした図式が、天皇制国家の形成期に用意されたと考えられる。
 相撲や歌舞伎や、倉田がこの分析をしている手品の松旭斎天一(しょうきょくさいてんいち)などの天覧がその例だが、皇族による観覧もそれに準じたものであったろう。いわば貴賎の相互補完を権力構造としてより強化する志向だが、音二郎の場合、確かに、その構造にダキ込まれもされながら、シタタカに自分の戦略に利用しているのである。
 伊藤博文の片腕であった金子の明治国民を啓蒙する意図にそいながら、音二郎の立場は彼等と異なり、その啓蒙性も上からの視点と言うより、芸能という芸能当事者からも観客からも文化価値として自覚も認識されていない底辺から意識を覚醒させようとするものであった。つまり娯楽として消費されるのではなく、自覚的表現に向上させ、それによって芸能としての演劇文化マルガカエに音二郎という《芝居者》も社会的に浮上しようとしたのである。そのためには音二郎が海外を、まず自分の眼で観て来る事が必要とされた。
 

註1──劇作家・劇評家。岡鹿之助(洋画家)の父。本人はいたって親切で面倒見のよい好人物であったが、その劇評は名前どおり《鬼》のように辛辣をきわめた。歌舞伎の名題役者(なだいやくしゃ=看板スター)に対しても、針の筵(むしろ)に座らせるような、生きた心地もない批評で恐れられ、「まずまずの出来」──と評価(傍点)されようものなら、鬼の首を取ったような《大金星》であったらしい。明治後期から昭和十年代までの歌舞伎役者は、鬼太郎の批評に《叩かれないため》に、必死の研鑽を積み、人気に慢心する事を免れた。つまり閻魔大王のように恐れられながら演劇界の御意見番として最大の功労者であった。

註2──劇作家・劇評家。『半七捕物帖』の作者で、日本の捕物帖の開祖。歌舞伎・新派の戯曲の他、多数の怪談や怪奇小説の著作がある。二代目左団次と提携して歌舞伎改革に乗出し、『修善寺物語』などによって、従来の歌舞伎と違い西洋近代劇の影響を受けた登場人物の心理に重きを置く脚本で、明治後期以降を代表する劇作家となる。福地桜痴門下。

註3──河竹黙阿弥は幕末から明治期にかけての歌舞伎脚本家。誤解防止に、没年は明治二六年で、代表作の大半は明治期に書かれた懐古的江戸趣味の歌舞伎であり、五代目菊五郎・初代左団次・九代目団十郎とともに、新時代に見合った《明治の歌舞伎》を作りあげた第一人者であった。

平井玄 フリーター階級をめぐって 1

じゃあ皆さん映画(「山谷─やられたらやりかえせ」 監督 佐藤満夫・山岡強一)を観たところで話をしたいと思います。僕はこの映画の作る時には、まあ微力ながら一緒に作ってた側だったんですけども、今こういう上映運動からも、ちょっと離れたところで別の場所で何ができるかという立場になってるんです。今日は何だかよくわからない「フリーター階級をめぐって」っていうようなタイトルで話をしたいと思います。
 たぶん初めてこの映画観られた方がほとんどだと思うんですけども、見たところかなり若い方が多いという感じですね。まあ学生の方が多いでしょうけれども、いわゆる普通のサラリーマンされてる方少ないと思うんです。僕白身が一度もサラリーマンはやった事ない。幸か不幸かそういう生活をしてきまして。それでこの映画作ってた時には自分の実家が新宿にあるんですけども、そこでクリーニング屋をまだやってたんです。それからこの映画に関わる。まあやっぱり今考えると大きな意味で、その磁力にひきずられるようにしては編集・出版関係の、一番下の方で臨時の仕事をやるというような事になる。最近はちょつと大学で話をするというような事もやってますけども、非常勤講師っていうのは喰えたもんじゃあないっていうのは御存じの方は知ってると思います。生活の糧はそっちで得てるとはとてもいえない状態で暮らしているという感じなんですね。
 せっかくこの映画を観た、その余韻の中で話をしてるんですから、その話に続けて今の労働とか、働く事、生活をしていくっていう事が、二〇〇〇年が終わろうとしてるような今、どんな状態になっているのかなという事を、自分の立場も含めて考えたい、その話をしたいと思います。僕は社会学者でもないし、データを集めてそこから分析を積みあげて、それで何かをしゃべるという立場の人間じゃない訳ですね。もっぱら音楽についていろいろ書いたりしてるんです。逆にいうと普通アカデミズムの世界にいる人っていうのは、今起こっている現象を調査して統計としてデータをまず集める。まあ大学なり役所なりいろんな所から出てくる訳ですけども、そういうものを集めて細かな分析を加えて何年か経って、やっとそれをいろんな理論的な手続きを経て分析して発表するという事になる訳ですけれども、発表された頃には世の中もう変わってるというケースが多いんですよね。この映画の中に例えば建設業の団体がやっている会議の議題の写しみたいなものとかですね、いろいろ文書類やデータが出てくると思うんですけども、あれはこの映画を引き継いで二人目の監督として完成させた山岡さん達が、そういう研究者とは別の角度から非常に地味な、足で集めたデータといいますか、いろんな手を使って手に入れたデータと、なおかつ自らが日雇労働者として生きた経験の中で、まあこれは社会学でよく参与観察なんて言い方しますけど、もっと生々しい自分で働いて喰ってくという実感と、そこで動いてる人の流れを追って考えていったその痕跡です。そこから寿町、釜ヶ崎、北九州まで行って、さらに炭鉱まで行くと。それでまた東京に帰ってくる、山谷に帰ってというような構成になってると思います。それはいわゆる学問的な普遍性とか実証性というよりも、もっと直感と生々しい実践的な思惟力といいますか、思考力みたいなもので到達した成果じゃないかなと思います。でまあ僕もいってみれば、山岡さんのようなそういう深みを持ったものはとても考えられないんですけど、自分なりにこの映画できて十何年か経って生きてきたやり方を、いわばこの映画から流れ出すようにして自分なりに考えたいという事があって、今日のような話になっていくと思います。
 お配りした資料、一番右の方が一九九九年の十一月に東京新聞に出たフリーターについての記事ですね。それから左側に出てるのは一ヶ月後に、派遭労働に関するシンポジウムがあった、その報告がやはり東京新聞に出ている。で今度はちょっと読みにくいですけども、つい最近朝日新聞に出た職安、ハローワークを中心にしていろんな派遭会社のホームページや情報も統合するような求人ネットワークのホームページみたいなものを労働省が作ろうとしているという話ですね。まあその三つを基本的な資料として持って来ました。
 でまずそのフリーターと呼ばれる人達の話をするにあたって、実態を押さえるというところから話した方がいいと思うんです。今日フリーター階級というような言葉は全然熟してもいないし、フリーターを階級として捉えるというような捉え方自体、運動の中でも、社会科学の中で一般化してる訳でも全くないですね。ところが一九九五年、今から五年前に日経連という日本の経営者の団体の、シンクタンクのような組織があるんですけども、そこが出した報告書の中で、一部上場企業、二部上場企業というような大会社を対象にしてると思いますけども、正社員を五つ位のランクに分けていこうという提言が出されている。長期に渡って雇用していくようなタイプのいわゆる幹部社員みたいなものを頂点として、その間にいくつものランクを設けて、普通の企業の正社員自体をものすごく流動的な雇用形態に置こうとしている。まあ彼らの言い方で流動的とか、フレキシブルとかいろんな言い方しますけど要するに退職金コストをなるぺくかからないようにして、いつでも首が切れて、かついろんな部署にいつでも配転できて活用がきくようにすると。使い勝手のいい状態にしておこうという言い方がされてるんですね。その為には皆さん自分のお金を使って、例えば英語力を付けるとかコンピューター操作できるようになるとかですね、そういう事をしなさいというような報告書が九五年に出てるんですね。まず一つそれを押さえたい。そういう流れの中で英会話の教室、ノヴァとかイーオンとかいろいろありますけど、ああいう所にサラリーマンやOLの人達が行く時に国や都から補助金が出る制度が作られたり、コンピュータースクールがもう雨後の筍のようにドッとできるというようになっていった訳です。企業の正社員そのものをいわばフリーター化させようとしているという事、これが一つですね。それと一番右の記事の中を少し読んでいくと分かるんですが、フリーターっていうのはリクルートが一九八七年に作った映画のタイトルだった。もちろんフリーアルバイターというのは、フリーが英語でアルバイターがドイツ語ですから実にいいかげんな言葉なんですけども、これはそのリクルートっていう会社が作ったっていうよりも、むしろ現実に働いてる人間が作り出したと言った方がいいんじゃないか。つまりカタカナ言葉の日本語化、定着化っていうのは大体四文字言葉に音便化されるプロセスなんですよね。例えばワードプロセッサーがワープロになる。パーソナルコンピューターがパソコンになるというようなもんですけれども。そういう、言語的変容の過程を経てフリーターつていう言葉ができたんだろうと思うんです。つまり頭だけじゃなくて、人間の体を一度通っている。それを掬い上げる形で映画を作る。だから一企業の枠を越えてドッと流通していく。それがたぶん一九九七年あたり、三年位前という事になりますね。要するにバブルがはじけて不景気になって就職も難しくなってくという状態の中で、フリーターが増えていった訳です。しかし単に波が引いたり満ちたりするような定期的な景気循環の中で、とりあえずアルバイトやってるっていうレベルじゃなくて、景気が多少良くなっても全く引かなくなった。むしろ増えていくという状態になる。たぶん去年あたりから幾何級数的にフリーター人口は多くなっていきます。これからもそういう傾向は強まっていくというふうに言えると思います。
 でこれはまた別のマンパワー開発産業から得た情報なんですけれども、都内の大学の卒業予定者の三分の一位の人が最初から企業への正規雇用を目指すような就職活動をしないという事態になってるらしいですね。さらに首都圏の高校の同じ年の実態調査では約半数の人が、やはり就職活動そのものに熱心では全くないという状態になっています。でこれに対して割合古いタイプの高校や大学では、いややっぱり人間一つの企業に一生懸命働いて全うしなきゃあいけないとか、技術を身につけて働かなくちゃいけないってな事を言って指導してる所もあるんですけれど、多くの大学や高校では既にそれ自体一つの生き方として認めざるを得ない。その中でどういうような生き方ができるかという事を指導するという方向に向かってるようです。そういう傾向が現れてくる上には日経連の一九九五年報告っていうのは非常に大きかったようです。
 さらに例えば私自身の経験を挙げると、東京の都心部、はっきり言うと麹町の近辺にある一部上場企業の編集関係の会社があるんですけれども、そこへ行くと百人位いる社員の内のたぶん正社員は二十人位しかいないんですね。で他の人達はどうかというと、正社員の下といいますか、正社員の脇に長期契約の派遣社員がいる。でさらに短期契約の派遣社員がいる。そして学生アルバイトみたいな人がいる訳です。でさらにフリーターがいるというような、まあフリーターと言いましてもこれは女性専門の派遭会社で一人ひとり来ている人間とアウトソーシングで、例えばコンピューターのオペレーターばかり専門に送り込んでる会社があって、そこと契約してその部門をまるごとアウトソーシングしているとかですね。そういういろんな形態があるし、雇用形態とか給与形態も相当違うと思いますけども、たぶん二割位しか正社員がいないという状態になっています。
 そのいわば一番下辺にフリーターといわれるような人がいるという事態ですね。さらに映画を観て頂いた後ですからその事は実感としてわかると思いますけども、寄せ場日雇い労働者達の環境に近いような雇われ方をしている人達が建設産業界だけじゃなくてビル清掃や水商売など都市の底辺に広がっている。さらにそこからもいろんな条件で働けなくなった人達がホームレスと呼ばれるような境遇になっている。そういう巨大企業の正社員から、ホームレスの人達に至るような大きな労働環境、雇用環境、雇用形態の変化の中でフリーターっていう言葉が焦点化されているというふうに言っていいんじやないかなと思います。そういうふうな大きな変動の見取図を描いておかないと、本当の変化、実際に動いていることが見えてこない。リクルートだけじゃなくて、他のシンクタンクとか企業の研究所みたいな連中が言うのは、なんか生き甲斐を見つけろとか、労働意欲を掻き立てる為になんらかの刺激を与えるべきだとかということです。まあここにも芝居とか音楽とかいろんな事やってる人達いると思いますけれども、そういうアート関係の人達はそれでいいし、安い賃金でがんばって下さいと。しかし一定数はなんとか企業の戦力になるように、もうちょっと専門の技術を付けて欲しいとかですね。いろんな言い方されていく訳ですね。一方でコンビニエンスストアなんかでは既にアジア系の人達が店長になっている。店長といいましてもあくまで雇われ店長に過ぎないので過酷なノルマを強いられて、汲汲として働くという状態だと思いますけれども、例えばインド系の人の店長がいるコンビニとか僕の家の近辺にはありますし、その下で日本人のフリーターが働いている。しかもそのフリーターと呼ばれている人達もけっして十代とか二十代の前半じゃなくて、もう四十代、五十代の人もいるという状態になってますね。そういうアジア的な広がりの中でフリーターっていう言葉があるんだけれども、フリーターだけ取り出すと癒しとか、自己実現とか、はっきり言っていかがわしい言葉によって心の病の問題に解消されてしまう。そういう方向に引き摺られていってしまうので、あえてそうした大きな労働環境の変化をフリーター階級の抬頭と呼びたい。階級っていう言葉は今やもう完全に死語、いわゆる左翼の運動家たちもほとんど使わなくなってますし、それから経済学の世界でも使われにくくなってます。非常に頑固なマルクス主義的な思想を持っていた政治党派の人達なんかも、もはや使わなくなってきつつあるという状態です。その言葉とフリーターという言葉を敢えてぶつけるような形で言っているのは、そういう広がりをみて、癒しとかいかがわしいイデオロギーの濁りを吹き払ってしまおうというような意図がある訳ですね。(続く 二〇〇〇年一二月一七日 於 plan B)

平井玄 フリーター階級をめぐって 2

そのうえポストモダン・プロレタリアというような、さらにもっといかがわしい言い方もしてるんですけども、このポストモダンっていうものの中には、まあ普通ポストモダンっていうと新し物好きのヨーロッパの最新の思想流行を取り込むというようなニュアンスありますけれども、モダンっていう言葉をいわば二十世紀の社会主義全体として、ポストモダンという意味を二十世紀社会主義の実験の失敗の後というふうに考えて、その後に現れてきた階級というニュアンスで捉えて頂ければ、と思います。
 それと、もう一つ強調しておいた方がいいと思うのは、朝日新聞の求人ネットの記事なんですけども、要するにインターネットを使った求人の形態を普及させようと明らかに政府や巨大企業は考えている訳ですね。これは寄せ場のインターネット化とすら言える。つまり携帯電話やインターネットの普及、今やiモードみたいなものが急激に普及している訳ですから、インターネットと携帯電話を分ける意味全くないですけれども、いわば携帯電話の普及とフリーターというような言葉が出現したのは全く同時代の事だったっていう事が、これからはっきりしてくるんじゃないかと思います。例えばレギュラシオン学派という労働の形態とか社会形態と技術の変化みたいなものを、密接に関係したものとして考えるという経済学、社会学の潮流がありますけれども、そういう発想を導入して考えると、携帯とフリーターっていうのは両方で引き合うようにして一挙に二十世紀終わりの社会に蔓延した現象として、しかも日本を出発点として蔓延した現象として記述される時が必ず来ると思うんです。この接術の変容といわゆる労働力のフレキシブル化は全く切り離せない。つまり携帯電話を一人ひとり持ってる訳ですから、一人ひとりの求人とコントロール、管理が可能な訳ですね。明日何時からここ行ってくれって事が、一人ひとりに連絡できると。しかも昨日の夜、あそこへ何時に行ってくれっていった事を今朝変更する事も可能です、どこにいても。もちろんそれは変更にあたっての求人される側の負う負担っていうのを考えないで、無視してっていう事なんですけども。そういうフレキシブルな変更が可能なメディアな訳ですね。
 それともう一つは、家庭の中で携帯電話を一人一台持ってるという状況が、到来していると思うんですけど、ますますそういう状態は加速度を増していくと思うんですよ。つまり家庭、いわゆる父親が外で働いて母親が家庭を切り盛りして、子供達が養われて家庭が成り立つというような家庭の在り方は全然普遍的でも超歴史的でも何でもない。例えば僕白身六〇年代、七〇年代の始めまで家族全員で夜中まで働くという就業形態をしていたものです。フォーディズム家族っていう言い方した方がいいと思いますけども。要するにフォードですね。アメリカの自動車会社のフォードがオートメーションの生産ラインを作って労働者を雇用する。しかもその男性労働者を雇用して女性は家庭で、家庭内の切り盛りをやるというような分業があって、そこでの性差が固定されて、つまりジェンダーですけれど、ジェンダーが固定されて子供達はその場で養われながら一定の労働力として必要な学力を注入されて、次にまた大きくなったら結婚してそういう家族を再生産する。そういう家族の再生産構造はせいぜい一九二〇年代、三〇年代にアメリカやヨーロッパでできて、それが例えば日本の場合、戦後になって爆発的に広まったにすぎない。農民はそういう家族の形態を取ってませんでしたし、都市の自営業者もそんな形を取ってなかったですね。むしろ人口的には、ヨーロッパやアメリカ以外ではそちらの方が多数派だった訳ですから、そういう家族形態、近代家族というよりもむしろ近代の中でもさらにもっと特化してケインズ主義以降の、フォーディズム家族って言った方がいいと思います。その形態が携帯電話の出現によってバラバラになる。もちろん携帯電話だけじゃない、もっと前から。家電に対して個電っていうような言い方をするような人達も出てきてました。それが徹底化されるのが携帯であり、極端に言うと一時間前と一時間後の労働の質が全然違う現場に行かせる事もできる。一人の労働者を多重な人格の中で使うという事も可能になってくる訳ですね。多様な労働力としてその潜在力を引き出すという事も可能になった。いわば多重人格化せざるを得ないというところもある訳です。そういう形でフォーディズム家族も解体し、それから一定の統一した人格を持って、生産–消費活動をして結婚して子供を産んで再生産する、そういう形での近代的な人間概念みたいなものも、テクノロジーを媒介にしてバラバラにされていく。これはもちろんマイナスの意味が非常に強いですよね。それだけ自由に管理できるという事になる訳ですから。当然そうなんですけど、逆に言うとじゃあそういう家族が理想だったのかっていう事は全く言えない訳ですから、別の可能性もある。いずれにせよフリーターと携帯の出現が全く同時代だったことのプラスとマイナスは、明らかになってくる時が近いうちに来ると思います。

平井玄 フリーター階級をめぐって 3

まあそういう「フリーター階級」的状況というのは、それをもちろん労働現場から見ればいいように使われて、いいように使い捨てられるという状態な訳ですから、旧来の労働運動的な在り方で批判していくという事は非常に重要なんですけど、それだけじやなくて逆にそこから別の可能性を作り出していくという事を考えようというのが、フリーター階級とかポストモダン・プロレタリアという言い方の中に込められた合意なんですね。少なくともそれは、企業奴隷的な生き方やエディプス的な家族からの自由でしょう。
 そうするとやっぱり階級って言葉が皆さんにとっては非常にわかりにくい、今どき何で階級なんだっていう、当然ながらそういう疑問がいっぱい出てくると思うんです。最近あちこちに書いてる人で金子勝さんっていう経済学者がいます。この人は東大時代は日本共産党にかなり近かった人ですけども、今どちらかっていうとヨーロッパの社会民主主義的な方向で日本の経済システムをもっと市民的な、民主的な社会の基礎になるような形に変革すべきだと主張している。それでそれなりの説得力と影響力を持ち始めている人です。彼が『市場』という本を去年書きまして、その中で階級否定論を非常に説得的に展開してるんですね。彼が言ってるのは、階級っていうのは単に所得が多い少ないとか、それから所有、つまり生産手段、企業を持ってたり機械を持ってたりして、自ら物を生産する手段を持ってる持ってないとか、そういう事だけでは階級としての意識っていうのは生まれない。実はむしろ宗教的なコミュニティーとか、それからエスニックな少数民族のコミュニティーとかそういうものを前提として初めて生まれるんだというわけです。つまり「労働者階級」というのは、宗教的、民族的なマイノリティの擬態だった。だから今やもう階級って言い方では、資本主義を越える主体はつくりだせないという事を、かなりはっきり書いてるんですよね。でそれはそれなりに説得力があると思います。確かに今日本では沖縄の人達とかアイヌ系の人達とか、あるいは在日朝鮮人の人達を除いては、その種のコミュニティーつていうのは徹底的に解体され尽くしてますから、労働者階級っていう集団性によって次の社会をつくりだす為の人間関係の母体とするというような発想は取りにくいと思います。しかし例えば在日朝鮮人の社会でも階級分化、金持ちとそうでない人との差は非常に大きくなってますし、アイヌ系の人達の中でも、あるいは沖縄の人達の中でも実際にそうなっています。それを考えると確かに金子さんが言うように、共同体的な階級形成っていうのは難しいかもしれませんけれども、逆に言うとバラバラにされた分刻みの個人と言いますかね、もう十九世紀以来の旧来の人間概念では捉えられないような、僕ら自身の生き方の中からもっと身軽で遊動的な、動きが早くて今までの家族とか企業とか学校とか、そういう単位にとらわれないような新しい運動の在り方とか、階級の形成のされ方が在り得るんじやないかと。まあそれをノマド的な階級形成というふうに僕は考えてるんですけれども、そういう事も可能なんじゃないかというふうに最近は思い始めています。いわばそういう合意を含めて、そういう希望的な意味を込めてフリーター階級っていうような事を、とりあえず今投げかけてるというところなんです。
 もう一点、今やグローパリゼーションっていう形でアメリカ的な資本主義の在り方が全世界を覆い尽くそうとしているんですが、例えば仕事で大学間係の出版物を作る仕事に多少関係しているんですけれども、それを読むととにかくIT革命、国際化、英語力、コンピュータの技術を覚えなきゃなんない、というような事ばっかりです。学生数が減り出してますし、あと数年経つと受験人口が百万人を割る。統廃合の嵐の中で大学が生き残っていく為には異常なまでにそういう方面の学部を新設・拡充して、大学に入ったらID番号を与えてブック型コンピュータを貸し出すという状態になってる訳です。大学は少数の大学院大学と一定の中間管理職大学、そして大多数のフリーター大学に三分される。もちろんまだ過半数は高卒なわけで、こういう分化しつつある場所で『ゴーマニズム宣言』は読まれている。そういう中で金子さんや日本でまだそういう資本主義でいいのかというような事を考えている人達は、ヨーロッパ的なゆるやかな形で、それ程の貧富の差も差別もない社会をつくりだそうというような考えを取るようになってるんですね。実際ヨーロッパの多くの国がいわゆる社会民主主義の政権になってます。ネオナチや自由主義史観派を抑止するためには、そういう方向しかないということで、日本でも今まで労働運動や左翼運動をやってた人達は大きくそういう方向になびいている訳ですけど、これは事態の始めにまで戻って考えてみなくてはならない。
 実は一九一八年にマックス・ウェーバーという人が、オーストリア軍の将校団を相
手にした演説をしているんです。これは一九一八年の六月にウェーバーが、職業軍人のエリート達を前にして、第一次大戦後ロシア革命が起こってドイツでも革命が起こるかもしれないというような、非常に逼迫した情勢の中で社会主義批判をやったもの。『社会主義』という演説はそういう内容なんです。彼は、社会主義者達の決定的な誤りは、資本主義であろうと社会主義であろうとサラリーマン層が増大していかざるをえないことが見えていないことだと言うわけです。これだけ複雑な技術と複雑な社会システムになれば、現場で物を作り出す労働者だけではなくて、むしろそれを管理していくサラリーマン層、ホワイトカラー層が拡大するだろうと。そういう人達と労働者の接点がだんだん曖昧になっていって、その社会の全体にいかにして生産を回復し支配と被支配の関係を緩やかにしていくか、その事の方がずっと問題なんだ。従って社会主義は失敗するし、その革命は阻止されなければならないっていう事をオーストリアの将校団を相手に話をするというような筋書きです。まあそこからマックス・ウェーバーは『支配の社会学』というその歴史的な形態を分析するという方向に向かうんですけれども、今ヨーロッパの社会民主主義運動がたどりついたところっていうのは、いわばウェーバーの位置に非常に近いんですね。ウェーバーはこういう時代を予言してたと思っているかもしれない。しかしウェーバーのおもしろさっていうのは、その中に一言限定を付してることなんですね。それはどういう言い方かというと、社会の管理・調整システムが大きくならざるを得ない、そういう人間集団は必要だ、その際、社会主義者達の理想の実現は「現代技術の性質上それは不可能な事である」という言い方をしているんですね。「現代技術の性質上」という留保の言葉を使っているんですね。
 一九一八年っていうのはもちろんコンピュータありませんし、パンチカード方式の会計計算機みたいなのが開発されてきた時代なんですね。つまりカフカみたいな小説家が訳のわからない官僚的な人間やシステムをああいう寓意的な小説に書いた項ですけれども。そういう時代、そういう技術をベースにした官僚システムが肥大してた時代なんですね。しかし二〇世紀の終わりに起こってる事はどういう事かっていうと、例えばドットコム企業とか、いろんな言い方をされてますけども、いわば現代の技術によってそういう中間的な管理システムがだんだん縮小されてきているような生産と労働の環境じゃないのか。つまり一握りの企業家、アントレプレナーみたいな、つまりマイクロソフトの社長みたいな奴ですね、そういう人間と、あとは膨大な数のオペレーターたち。ただひたすら眼精疲労ばかりが重なるようなオペレーター達と一握りのアントレプレナー、それが直結しているような、例えばアマゾン・ドットコムみたいな企業ありますけれど、そういう社会にだんだんなりつつありますね。アメリカナイズされたグローバリゼーションっていうのはまさにそういう世界を目指している訳で、そうなってくるとマックス・ウェーバーの予言は確かに当たったかもしれないけれど、現代技術の制約上っていうその現代技術が変容をしている。つまりウェーバーの予言は的中したが故に外れている。逆に言うとまさに新しいタイプのプロレタリア、新しいタイプの階級がそこに勃興してきて、彼らの技術と創意とですねぇ、自分自身の意思と活動によって物を作り出したり、新しい人間関係をつくりだす、言ってみれば社会の基盤を新しくつくり直すっていう事が可能になるような事がこれから先展望できるかもしれないという状態にあるんじゃないかなと思います。実際、僕らはコンピュータという生産手段・流通手段を持っている。ウェーバーはもちろんそんな事は全然意識して言ってる訳じやないですけれども、その限定を付したという二言にやっぱりウェーバーの非凡さがある。逆に読む事が可能な文章、講演を彼はしてるんですね。
 まあそういう意味を込めて、もちろんこういう事はなんら今現在の段階で運動になって出てきてる訳でも何でもないんですが、例えば去年の一二月、ちょうど一年位前にシアトルで、そういうグローバリゼーションを推し進めようとするような政府や企業の代表者達が集まる会議を、いろんな人達が集まって決議不能に陥れてしまうというような運動が一つあった訳ですね。もう一つ、それからもっと数年前にメキシコのサパティスタという先住民の人達を中心にした運動が生きるための闘いを起こしていく訳ですけれど。サパティスタの人達の運動も、以前の例えば先住民の権利回復運動、もっと昔の言い方だと第三世界的な民族解放運動というふうに捉えるよりも、むしろグローパリゼーション下で起こったポストモダン・プロレタリアの運動というふうに捉えた方がずっと見通しが良くて彼らがそう意識してそういう言葉を使ってるかどうかに関わらず、先が見えやすいような捉え方ができるんじやないかっていう気がしています。まあこういう例にはたぶん事欠かないと思うんですけども。そういうような希望的な観測と自分の生き方、その労働現場を見つめる中で出てきた予見って言いますかね、自分にとって今体を動かしていく大きなモチーフとしてフリーター階級とかポストモダン・プロレタリアートという言葉を語りたいという気持ちが非常に強いですね。
◎平井玄 新刊「暴力と音」──その政治的思考へ
二つの暴力論を語り、「事件」としての音楽を聴き取り新しい「階級」を構想する。
人文書院 075-603-1344