音二郎の悪戦苦闘のこの時代が、前にも記したように貞奴が博文の愛妾時代である。博文は明治十八年に初代首相に就任。同年の《今日新聞》が公募した人気投票『現今日本十傑』で一位が諭吉、二位が桜痴、三位が博文の、人気も上(のぼ)り調子の時期である。貞奴は十九年の一五才の時に十八才の桃介に袖にされ、二十年に囲い者としてでなく現役芸者のまま博文の愛人となった。博文は四十六才、鹿鳴館(明治十六年落成)のトップ・スターだった夫人の梅子は三十九才。長女の生子が十八才で、貞奴の方が娘より若かった。
博文は施した貞奴の経済面での待遇は不明だが、後に愛妾となった貞奴より七才若い大阪北の新地の芸者小吉について。高群逸枝の『女性の歴史』は、月手当が三百円で二年間の寵愛を受け、夫人梅子にも可愛がられ、私邸出入も自由であったと伝えている。梅子は元芸者だけに、非常にサバけた面倒見の良い賢夫人であったらしい。おそらく貞奴も同様の待遇であったと想像される。ちなみに明治二十四年の官報に従えば首相の年俸九千六百円、各省大臣六千円、枢密院議長五千円、次官四千円であるから、次官なみの収入が保証されていた事になる。当時の独身官吏が二十円位の月給であり、現在の通貨価値で一万倍前後と想像される。単純計算だと博文の収入の半分近くを貞奴が貰っていた事になるが、当然政治家の収入は年俸のみではない。つまり政治的裏金が莫大に有った。貞奴にしても芸者を続けているから、その上に芸者の花代が加算される。
当時の芸者の等級は新橋が一等で花代一円。貞奴等の芳町芸者は、日本橋・新富町・数寄屋橋と並んで二等の八十銭から三等の五十銭。烏森・吉原が三等で五十銭。深川・神楽坂が四等の三十銭。赤坂が五等であったという。雛妓(おしゃく)はその各半分の料金であった。誤解されるとイケナイので断っておくと、これは《売春》のための料金ではない。揚屋(あげや)や芝居茶屋等の宴席に置屋から芸者を呼んだりした場合の、一定時間の基本料金である。一日何席かの掛持のうえ、当然気前のよい御祝儀もあり、そこから芸者置屋への紹介料を差引いても、かなりの収入(みいり)だったと思われる。演劇界は昭和二十二年四月号の安部豊の一文によれば、貞奴の一日に稼ぎは御祝儀を含めて二円四、五十銭だったという。おそらく日に二、三席をこなしていたのであろう。
当時の一般庶民は事業主でないかぎり高額所得者であっても、紳士録に載せて参政権を得たいと思う者以外は税を納めていなかった。そのため宵越しの金は持たない江戸っ子気質(かたぎ)の芸人や芸者などは、有れば有るだけ湯水のごとくその収入を使っていた。堅気(かたぎ)と違って金銭感覚が麻痺しているために《氷(アイス)》と呼ばれた高利貸しの好餌(カモ)にされる場合もあったが、売れっ子芸者のあるかぎり、身を持崩す事も無かったらしい。貞奴も御多分に漏れず、小奴時代の御転婆(おてんば)に拍車がかかり柔道・玉突き・花札・コップ酒と、とどまるところを知らない。ただし貞奴には一途な面があって、乗馬や水泳にしても熱中するだけでなく、自分の技術としてキッチリ修得する手堅さが有った。いわゆる三日ボウズではない。馬術の腕前は、十メートルの白布を地面に着かないように靡(なび)かせ走る古風な馬術《母衣引(ぼろびき)》・競技会に出場するほどの技量であった。水練(すいれん)も得意で、海水浴も富岡海岸で博文と井上毅(こわし)が手をとって教えたという。幕末期に白刃(はくじん)をくぐって来た刀傷だらけの無骨な裸の男二人にはさまれて、バチャバチャやっている十六才の貞奴を想像すると、ほほえましい気がしないでもない。大磯の旅館涛龍館(とうりゅうかん)の浴室で、当時まだ珍しかった石鹸をふんだんに使い、あたりかまわず泡だらけにして、他の泊まり客から羨望含みの顰蹙(ひんしゅく)を買う傍若無人ぶりも、貞奴の無邪気から来る子供らしさと言えるであろう。
十代頃の貞奴について明治四十四年十一月十四日の《国民新聞》は、「鼻筋の通った顔立ち、やや赤みを持った髪の毛、腰下の長い体格、男のする様な荒っぽいことを好む性質、誰いうとなく、混血児(あいのこ)だという噂がパッと立って、変り者の奴の評判がねんねん愈々高く、お歴々の座敷数が増えだした。我儘が却って面白いとあって人気が高まる」──と記している。貞奴の子供じみたワガママを通せば通すほど人気が出るという《花柳界》とは不思議な世界であった。
意外な点は、西洋人の混血と間違われ、《女西郷》と腕白ぶりから呼ばれた貞奴が、写真の均整のとれた体躯(たいく)から想像するよりはるかに小柄な百四十八センチの身長だった事である。比較のために活躍期が重なる貞奴より十三才年少の奇術師天勝が、女性としては大柄な百六十センチ弱。博文が当時の男性の中肉中背で百五十八センチであった。貞奴の小柄な点も、特に後年のヨーロッパでのアイドル的な人気に大きく貢献したと思われる。
貞奴は二十三年頃まで博文の寵愛を受け、以降は自由の身になった。前年に憲法が発布され、二十三年に国会が開設される時期に当たる。この音二郎に出会う以前、見落とされがちな記録だが、早くも貞奴は役者として舞台に立っている。素人芝居という自覚のために《女優》として貞奴には認識されていないが、五代目菊五郎に教えを請うたほどだから、演劇史の上で見逃すわけにはいくまい。
事の起りは明治十九年、博文の娘生子の夫・末松謙澄が主唱し、外山正一・福地桜痴・森有礼・渋沢栄一らが発起人となって設立された《演劇改良会》に端を発する。詳細を記すイトマは無いが、末松の、諸外国を参考にした洋風建築の大劇場の新設、興業時間の短縮、花道の不要、チョボ(浄瑠璃)の廃止、装置改良などを主眼とする『演劇改良意見』(明治十九年刊)に、外山の、茶屋制度(註1)・女形・黒衣の廃止と俳優の品行是正、狂言の上品化などの意見を付加した『演劇改良論私考』(明治十九年刊)を中心課題とする、当時の歌舞伎しか無い日本の演劇界にとって驚天動地の急進的意見が、その運動目的であった。しかもこれは個人的結社の意見ではなく、明治政府の鹿鳴館に代表される欧化政策の、ゼガヒでも成しとげねばならぬ意向を背景とした運動体であった。特筆すべきは欧米に倣(なら)い、日本では地位の低かった劇作家の重用を強調している点で、演出家すら居なかった旧劇の世界では画期的な事であった。この演劇改良会の運動に、芸者芝居が関わっているのである。
この演劇改革は数々の反発と無理もあり、修正を重ねて、民間の協力も仰ぎ、ひとまず目的を達するのに四半世紀を用している。歌舞伎座・帝国劇場の新設なども、その一連の成果であった。音二郎の演劇改革も、これを基盤としているが後述するのでここでは触れない。いずれにしても近代国家日本を誇示し、欧米人に観せて恥かしくない日本の代表的演劇と劇場を造りあげる事が急務とされ、歌舞伎という芸能からエロ(男色趣味・嗜虐趣味・芝居茶屋の遊廓的要素)・グロ(女形・黒衣の異様さ)・ゲテ(花道・外連や怪奇趣味・勧善懲悪のバカバカしさ)を排除し、飲食しながら参観できる古代の饗宴的空間の猥雑さを除去する事が意図された。それらは皮肉な事に、ロシアやヨーロッパの前衛劇が二十世紀初頭に歌舞伎から窃取(せっしゅ)したほぼすべてであった。
註1──大劇場での芝居の升席や、そこでの弁当・酒(当時は飲食しながら観劇していた)の手配、幕間や芝居前後の休憩、早朝から深夜まで(朝六時から夜十時頃までの事もあった。そのため欧米なみの時間帯導入が、改革の目的とされた)の公演のための宿泊、贔屓役者との連絡や饗宴の手配等々、芝居に関るすべての事は芝居茶屋を通さねば出来なかった。一週間日替わりの通し狂言などでは、その期間泊まり込むのが当然だった。《戯場》を「しばい」と読ませたように、役者はもとより芸者や幇間も呼んで遊べる劇場と合体した《遊廓》と考えればテットリ早い。有名役者と接触するためには、下足番から風呂番・売子にいたる五十近い《職種》の劇場および芝居茶屋関係者=《芝居者(しばいもの)》にチップをはずむのが常識だったから、大変な散財であり、《役者買い》(※1)ともなると資産が傾くほどの高額を要した。茶屋制度の廃止は、こうした淫靡で猥雑な影の部分を分離する事も目論まれたと考えられる。
※1──金銭で金満家の有閑夫人が役者や芸人を愛人とするシステム。有夫の場合には法的には姦通罪(※2)該当するが、《役者》は社会的地位として《人間以下》と考えられていたため、相手を《間男》として起訴する事は《役者ふぜい》と対等にはり合う事であり、それは《間男された事》よりも恥かしい事であった。そのため起訴によって成立する姦通罪は、芸人や役者にはほとんど適用されないに等しかった。《役者買い》は芸者などの玄人をはじめ政財界や資産家の夫人・令嬢などによってなかば公然と行われ、そのために芝居茶屋が文字通り遊廓として機能した。むろん歌舞伎の裏面である江戸伝来の陰間(かげま)茶屋として利用されたのは申すまでもない。営業の一端は、こうした裏面にまつわる少なからぬ収入によって成立していたのである。
※2──妻を夫の所有する《物》として財産と見なす法律によって出来た犯罪。窃盗罪と同様に起訴によって成立し、重罪であった。北原白秋の例に従えば、白秋は二年間《入獄》している。有島武郎の心中原因も、愛人の夫から姦通罪をチラつかされたためで、もし起訴されれば有島個人の《入獄》と爵位の放棄にとどまらず、累(るい)が一族全体に及ぶ可能性が有った。相手が藤原義江のような《芸人》のドン・ファンならば、婦人の夫が華族であっても、マッタク問題にされない《罪》だったのである。