村上裕徳 日本現代舞踊の起源9

壮士芝居について、もう少し触れておこう。
 その開祖である角藤(すどう)定憲は慶応三年(一八六四年)岡山県で生まれた。元冶元年生まれの音二郎より三才若い。京都府巡査の後、中江兆民の演説に感動し、大阪で兆民が社主の≪東雲(しののめ)新聞≫の記者となった。その角藤に兆民が、寺の境内で政談演説するより舞台上の方が効果的と、思想性を盛り込んだ演説活動をすすめ、これが壮士芝居の先駆けとなった。兆民は反政府的言動から、尾崎行雄や星亨(とおる)とともに明治二十年の保安条例で東京四里以内退去を命じられていた。そのために官憲の眼をかいくぐって関東にまで波及するほどの強力なアジテーターを必要としていたのである。角藤は女形と立役の両方をこなし、女形姿も美しかったらしい《註1》が、そこは素人の悲しさ。裾さばきが上手く出来ず、裾を踏んでひっくり返る事もしばしば。毛脛(ずね)を曝(さら)してバタつくので桟敷の客はドッと笑うが、芝居は滅茶苦茶。パッと裾をまくって、これを愛敬と居直ってしまい、楽屋に引込むのが、まだ素人芝居だからと許された壮士芝居の黎明期であった。角藤は何事にも大雑把で無頓着だが打算的でないサッパリした気性であったらしく、それが角藤の人望にもつながっていた。この角藤一座も名古屋公演で官憲とぶつかり、関東上陸を阻(はば)まれて関西各地で低迷状態であったが、音二郎の関東での人気に刺激され、浪花座で息を吹きかえす。川上音二郎何するものぞ、角藤定憲は壮士劇元祖である――というのが彼の自負(プライド)であった。
 もうひとり特筆すべきは、二十五年七月に浅草市村座で『明治裁判弁護誉』を上演した山口定雄である。四国の徳島市かごや町の小間物屋出身の山口は、大阪へ丁稚奉公の後に歌舞伎界に入り、十一代片岡仁左衛門≪当時我当(がとう)≫の弟子として我若(がじゃく)を名乗る元女形であった。門閥が無ければ出世できない歌舞伎界を逃れて壮士芝居に転じたものである。それだけに基礎も確かで、立役、女形、かたき役、老役(ふけやく)と何でも達者にこなした。泥酔を装い交番の前で立小便をして巡査と大ゲンカを始め、ヤジ馬が集まった頃合を見計らって、「諸君、我が山口演劇は民衆教化の運動を目的とした芝居で、即ち営利のみを考えていない」――と一席ぶつような、奇抜な前宣伝を常套としたらしい。また歌舞伎界出身だけに現代劇に限らず歌舞伎も上演したが、『伽藍先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』の愁嘆場(しゅうたんば)で観客は涙をしぼっている最中(さなか)、劇中の息子千松(せんまつ)を死なせてしまい悲しむ母の政岡(まさおか)がイキナリ、「諸君よ、即ち諸君よ。わが山口演劇は」――と芝居をそっちのけにしてしまう珍妙な演説癖が有ったらしい。ほかにも豆電球がカラダに巻いて宙乗りするような外連(けれん)《註2》を得意とし、「ハア、パッパッ」の合図の声で光を点滅させながら空中を闊歩(かっぽ)して消えていたらしいから何とも愉快である。もっとも電気の導線の不首尾から感電して肉まで焼く生傷が絶えない、かなり危険な荒事(あらごと)でもあった。
 現在では猿之助の専売のようになった宙乗りも、当時の小芝居(こしばい)ではかなりポピュラーな演出である。大歌舞伎(おおかぶき)でも品の良いものとして評価はされていなかったが五代目菊五郎も宙乗りをしたし、上方歌舞伎《註3》の市川右団次(うだんじ)や父の斎入が最も得意としたのも宙返りや早替りであった。こうした外連は幕末以前からのものだが、歌舞伎を伝統技能として≪高級に≫認知させていくなかで、宙乗りは明治以降じょじょに下手(げこ)な演出として大歌舞伎では敬遠されて来た。猿しかやらぬサーカス歌舞伎と陰口を囁(ささや)かれもしてきた。しかし宙乗りに代表される外連は、それが本質でないにしても、歌舞伎が歌舞伎本来の活力を持った猥雑で如何(いかがわ)しいものであるための重大な要素であった。明治以来、猥雑であるからこそ歌舞伎であったパワフルな芸能が洗練された芸術を目差したのである。
 話をもとに戻すと、以上の角藤に山口と音二郎を加えた三人が壮士芝居三羽鴉である。ほとんどの新生劇団は、歌舞伎からの派生をのぞき、この三劇団から分化して生まれてくる。他にも後の≪新派≫の原形のようなものが出来つつあった。二十四年に漢学者で劇作家の依田学海(よだがっかい)の提唱で改良演劇の実践として男女合同による劇団≪済美館≫を結成する。後に音二郎門下にもなる伊井蓉峰はこの劇団が初舞台であった。女優は千歳米坡(ちとせよねは)≪芳町(よしちょう)の芸者米八≫が務めたが、こうした男女混合の≪実験演劇≫は、いまだ時機尚早で、二、三回の公演のみで自然解散し、そこに出演していた伊井や水野好美は川上一座に合流する。

 いっぽう『板垣君遭難実記』を音二郎の煽(おだ)てに乗って中村座へプロデュースした浅草の芝居茶屋≪丸鉄≫の息子福井茂兵衛が、あそらく借金を棒引きにさせるための音二郎の煽てに乗せられ、生来の芝居好きもあって川上一座に参加。後、貸した大金を音二郎が返済しなかったため音二郎から離れ一座を結成。四番目の旗頭になる。福井は万延元年(一八六〇年)生まれで音二郎より四才上。十二、三才で落語家の弟子となり、五明楼玉若を名乗って十六才で真打ち。ひっぱりだこのかけもちで忙しく、人力車で走りまわっていたのを人力車ごとひっくり返され、片足を骨折。後遺症で正座が出来ず引退。≪自由新聞≫の記者となり星亨の知遇を得る。横浜で星の秘密通信員になった後に壮士集団≪住民苦楽部≫を組織して政治活動に活躍。後に役者に転じた。足の不自由なのは桟敷からでもわかるのだが、粋な所作や敏捷さがそれをカバーし、歯切れの良い口跡(こうせき)が観客を魅了するほど粒立ちの良い発声であったらしい。元壮士ながら壮士ぶりを売り物にせず、渋い芸風で面白い芝居をする事が好まれ、初期新派の名優となる。

 また伊井や水野も佐藤歳三と川上一座を離脱し≪伊佐水(いさみ)演劇≫を結成。後に分かれ三者三様に活躍。水野は劇団≪奨励会≫を名乗り浅草常盤座を本拠に三十年代に全盛を迎える。一座の女形は山口門下出身の河合武雄であった。河合は歌舞伎役者大谷馬十の息子である。伊井の親しい後輩に山口門下の喜多村緑郎(ろくろう)がおり、伊井・喜多村に河合を加えた三人が、現在≪新派≫と言われているものの原形を作っていく。いずれも女形を得意とする名優で、後に喜多村門下から花柳章太郎が生まれて来る。

 
註1──容貌魁偉(かいい)であったという異説もある。『浅草喜劇事始』≪丸川賀世子≫では角藤の容貌は次のように記される。「眼と眉のせまった彼の顔は、見るからに利かん気な志士風だが、色白のふっくらした頬のあたりには、若衆の色気が漂っていた。」

註2──江戸時代からある宙乗りや早替りなどの、客を驚かせる派手な演出。宙乗りは縦移動の宙吊りではなく横移動も含み、空中を歩いたり浮遊したりする状態をロープやピアノ線で吊って表現するもの。

註3──東京の荒事を芸風とする江戸歌舞伎に対して関西の和事を芸風とする歌舞伎。片岡仁左衛門・中村鴈二郎(がんじろう)・市村右団次・中村梅玉(ばいぎょく)・中村福助などが大名跡(だいみょうせき)。中村福助は江戸と上方に東西二人居た。上方の福助が梅玉を襲名するのは通例だが、江戸歌舞伎の福助が梅玉になる事はありえない。あるとするなら簒奪(さんだつ)以外の何物でもない。右団次は仁左衛門の名相方で屋号は高島屋。父の斎入は気むずかしやで名高い先々代仁左衛門も、一目置くほどの名優であったらしい。