芝居通いをするうちに、いつしか音二郎一座の楽屋にも出入りするようになった貞奴は、ある夜音二郎をともなって向島にある大倉喜八郎の別邸に行き、三日間籠(こも)って相互の気持を確認。以下、中村彰彦の著作に従えば、「奴は養母・可免に音二郎と結婚する、と告げた。可免は伊藤の承諾を得た上で、その秘書官・金子堅太郎に晩酌の労を取ってもらった」──という。場所まで明確だから会合の一件は確かだろうが、それ以前に貞奴が楽屋に出入りするほど音二郎と親しかったかどうかは、いずれの評伝においえも推測の域を出ないと私は考えている。
大倉喜八郎は財閥解体までの日本屈指の政商で、後の帝劇創設時の役員でもある。その息子の喜七郎(七に傍点)が日本オペラ界のパトロンになるのは、もう少し後の事。いずれにせよ大倉の別邸は、一般人が通常に軽々しく利用できる所ではない。伊藤博文その他の政治家が、しばしば密談に利用していたような場所である。音二郎と夫婦になる事は、貞奴ひとりの対面を繕(つくろ)う私事というより、博文を巻込み、特に勝気な可免のプライドをかけた、桃介へのシッペ返しであったと考える方が、より正確であろう。この頃の桃介は福沢の後盾がありながらも、まだ頭角をあらわす以前の青二才にすぎない。芸人といえども音二郎は、東京きっての人気者に成っていた。おそらく、音二郎が古くからの(古く~ 傍点)馴染であった──という《物語》を捏造しないかぎり、貞奴はもとより、芳町の置屋の女将としての可免の対面は保てなかったのではないかと、私は考える。そうでなければ会合に、なぜ三日も手間取るのかわからないのである。
以降は音二郎の死に到るまで、桃介の運が向いてくると音二郎が零落し、音二郎が隆盛を極めると桃介の結核が再発する……といった、シーソーゲームのような関係を維持していく。勝気で気位の高い貞奴にしてみれば、心中深くに桃介への未練があるだけに、桃介への対抗意識が後々まで残されるが、音二郎の方のライバル意識は希薄で、人間万事塞翁(さいおう)が馬と慌てず騒がず鷹揚(おうよう)に過ごしている。それがイザ窮地におちいると、無類の勘の良さで方向転換し、明治の荒波を乗越えていく。
川上音二郎は明治元年(一八六四)に博多で生まれた。十三才で出郷後、寺の小僧、慶應義塾の学僕、裁判所給仕、洋傘直し、巡査などの職を転々として、明治十六年頃に帝政党員となる。ところが政談演説で官憲を謗(そし)ったため入獄。その間に帝政党は解散。出獄した音二郎は、あらためて自由党に入党し、滑稽政談を得意とする「演舌つかい」として自由童子を名乗る。またも懲りずに壇上から「官史」を「官ちゃん」呼ばわりする等、官吏侮辱罪その他で検挙される事百七十数回。実刑二十数回におよび、あらゆる政治活動を禁じられてしまう。明治十九年に大阪の監獄を出た時には、桜井典獄の説諭に従い、丸坊主になり自由童子の名を捨てている。当時の人気がどれほどであったかは、後に、浪速小僧・明治浪人自由童子・国洗坊自由童子・自由浪人・自由狂子などの亜流を多数生み出した事からも想像できよう。
さて、これからだ。政治活動を禁じられた音二郎は、一般的に蔑(さげす)まれていた芸人の世界に身を投じ、芸能をカクレミノにして世相の憂さを晴らそうとする。明治二十年京都阪井座で歌舞伎役者の中村駒之介座に加入し『東洋のロビンソン 南洋嫁ケ島』を上演。詳細は不明だが、「川上しきりに弁じ」たらしいから、かなりアジ・プロ色の強い芝居(あるいは政談?)であったろう。これが音二郎の芸人としての初舞台である。つづいて神戸の戎(えびす)座で『改良演劇西洋美談 斎武義士自由の旗揚』を上演し、大当たりをとる。音二郎は政談演説のときと同じく、収益のすべてを白米にかえ、京都でも大阪でも生活に苦しむ人々に分け与えた。この後、明治二十二年には岡山市の常盤座で、朝鮮の改革を図ろうとした大井憲太郎らの大阪事件に取材した『美人一滴の血涙』を上演し、その事件に連座した福田英子の自伝『妾(わらわ)の半生涯』によれば、「此芝居見ざれば、人に非ずとまで思はしめ、場内毎日立錐の余地なき盛況」という有様(註1)。
ところで、ここからは私の推論だが、二人を結びつけたのは福地桜痴ではないかという説である。桜痴は初代奴の贔屓(ひいき)はもとより、没後に『花柳史上の桜痴居士』という本が出版されるほどの男である。当然、貞奴が芸者時代にも面識があったと考えられる。しかも音二郎は壮士芝居以前の政談演説の弁士時代(明治十六年)には、桜痴などが結成した帝政党の一員だった。帝政党は翌年に解散し、音二郎は自由党に入党し自由童子を名乗るのだが、それからが二転三転。明治二十三年に一座を率いて東京での初公演。人気急上昇で、〈俳優志願者続出に川上音二郎参る〉──という記事が『東京日日新聞』に出たのは二十四年八月。この新聞社は二十一年まで桜痴が社長だから、まんざら無縁とも言えまい。
さて、音二郎と言えば『オッペケペ』だが、これが登場するのは明治二十二年の京都であるらしい。一種の時局風刺の替歌で、明治二十四年から日清戦争にかけて新作も数多く、後年の東京公演でも大評判であった。他の替歌と区別されて、特別に『川上節』とも呼ばれた『オッペケペ』は、単独での上演は無く、かならず人情噺や演劇のあとに付け加えられたもので、観客をリラックスさせ、芝居や噺の印象を際立たせるための、いわばオマケであった。そのオマケの方で名声を博するあたりが芸能の面白いトコロである。
この頃の音二郎は、人気は鰻登りながらも、いまひとつ腰が座らない。政談・講談・落語・にわか・歌舞伎(註2)の間を転々としている。京都・新京極の笑福亭を本拠に浮世亭○○(まるまる)を名乗り、明治二十三年『時世情談』として『自由艶舌鯉之活作(てまえりょうりこいのいきづくり)』を上演。当時の実在の壮士を主人公に、市民社会の規範や明治青年の心意気を折込み、民主主義の根本理念を語った《話芸》のようである。これが当りに当った。京都市民を沸かせて昼夜の満席状態。席亭は黒字を一万何千円もモウケたというから尋常ではない。現在の一億円以上に相当するであろう。大不況の最中「夷谷(えびすや)座女芝居(註3)と笑福亭川上音二郎一座の落語」だけが大入り(『日出新聞』明治二十三年五月十七日)となり、京都芸人の頂点に音二郎は立った。
次に目指すは関東制覇である。
註1──彼女自身の批評としては、「一見の値ひなきもの」──と記している。
註2──いまだ新劇としても形にならない状態のものだったため、仮に旧劇の歌舞伎に分類しておく。
註3──年代を見てわかるとおり、ほとんどの演劇史で、この時代には女優が居ない事になっている。すべて女形が演じていたというマコトシヤカな説が常識になっている。ところが大衆に愛されて女芝居つまり女歌舞伎が、大威張りで大衆芸能の王座に君臨していたのである。同時代では西洋魔術のみが女歌舞伎と張合った位であるという。ちなみに再説すれば、貞奴の日本での初舞台はこれより十三年後の明治三十六年である。