村上裕徳 日本現代舞踊の起源4

川上貞奴は日本橋両替町で書籍商と両替商を兼業し、町役人もつとめる小山久次郎・タカ夫妻の十二番目の子として、明治四年七月十八日に生まれた。本名は貞である(以下しばらく「貞」と記す)。貞は七歳の時に家が没落したために、口減(くちべらし)として日本橋住吉町で芸者置屋『浜田屋』を経営する浜田可免(かめ)の養女になった。可免は二十九から後家を通して来たしっかり者で、置屋の女主(おんなあるじ)になる前は亀吉という強情とお侠(きゃん)でならした木遣(きゃり)のうまい芳町(よしまち)芸者であった。貞は養女としての期待もあって、幼時からあらゆる稽古事を厳しく仕込まれ、十二歳で雛妓(おしゃく 半玉)に出て子奴(こやっこ)、十六歳で一本立ちとなって奴(やっこ)を名乗った。
 ここで断っておかなければならないのは、貞は芸者であって遊女ではない。生家の家庭事情で置屋の養女になったとは言いながら、また、生家に幾ばくかの金銭が支払われた事は確かだと思われながらも、借金のカタとして売買され、返金が終わるまでの年季奉公(ねんきぼうこう)をしているわけではない。芸者にも売淫(ばいいん)は付物だが、遊郭の花魁(おいらん)を含めた娼妓(しょうぎ)(註1)のように廓(くるわ 土や石のかこい)の中に幽閉されている《性の奴隷》ではない。あくまで芸が建前(たてまえ)であり、仕事さえ熟(こな)されておれば自由のきく立場で、一般人と何ら変わりない《芸者》という職業にすぎない。わけても芳町の「奴」という名前は新橋の「ぽんた」とならんで、花柳界(芸者の世界)でもキワメツケの芸者にしか与えられない名跡(みょうせき)である。初代の奴は、論客であった福地桜痴(ふくちおうち)(註2)に愛されたが、結核のために早逝(そうせい)している。名妓(めいぎ)の名はヤスヤスと後継者には継がせないのが花柳界の慣習(しきたり)だった。その名を襲名するに当たっては名跡を恥ずかしめぬ容貌と芸の技量の他に、しかるべき後盾(うしろだて)を必要とした。そのため養母の可免は、贔屓筋(ひいきすじ)の政財界の御歴々(ごれきれき)の中から時の総理伊藤博文を選び出す。
 当時は現代と違い、政財界人の色事に関するゴシップは新聞を賑(にぎわ)す日常茶飯の記事(スクープされるほどの事件ではない)であり、御用新聞ではない赤新聞(註3)の政治批判の好餌(こうじ)ではあったが、それは現在のように秘密を暴露するスキャンダルではなく、週刊誌の芸能記事のように、いたって公然のものであった。わけても当時の伊藤博文は北里柴三郎と並んで、花柳界の漁色家の代表であった。この二人ともに相手の容貌には一切無頓着の質より量の豪傑で、芸者を総揚げしたら、順ぐりにブルドーザーなみの総浚(そうざら)いで、まだ生娘(きむすめ)の半玉(はんぎょく)などは蒲団部屋に隠れなければならないような乱痴気騒ぎの常習犯であったというから、今風に言えば少し困った明るい助平親父(すけべおやじ)であったわけである。むろん、これらの事はとりたてて新聞種にもならないし、伊藤側でも隠そうとしない、誰もが巷(ちまた)の噂で公然と知っている、当時の普通の政治家らしい不行状(ふぎょうじょう)であった。明治という時代は、酒乱のイキオイで理由なしに妻を斬殺してしまった黒田清隆(註4)くらいでないと《事件》にならないような、いたってルーズな時代であったのだ。政治家は政治面は別として私事に関しては、芸能人と同じようにプライバシーの存在しない、毀誉褒貶さまざまな人気稼業であった。
 こうして雛妓であった子奴は水あげ(註5)された伊藤を後盾として奴となり、わがままいっぱいの芳町芸者として育っていく。その自由奔放さは留まる事を知らず、馬車屋から馬を借りて乗り廻す、役者狂いはする(註6)、玉突き・花札賭博(とばく)はアタリマエ。隅田川で女だてらに「水泳ぎ」までする御転婆(おてんば)ぶり。しかも当時は日本製の水着など存在せず、白昼堂々と裸に晒(さらし)を巻いたような姿(なり)で貞奴は平気だが、周囲はあわてざるをえない。伊藤はなかば面白がっていたのだろうが、「下ばきに、長袖つきのワンピースを組み合わせたような、舶来物の水着」を買い与え、欧米渡りのハイカラな避暑法であり健康法として有閑階級で流行のきざしが見えてきた海水浴を貞奴に提案し、別荘のあった大磯の濤竜館に連れて行く事が多くなった。韓国統監を決めるような、国家の一大事の決議の席にも芸者をはべらせるのが当時の通だったようだから、これは批難するほどでもないかも知れないが、大日本帝国憲法草案作成のおり(明治二十年夏)にも、伊藤は神奈川県夏島の別荘に貞奴をともなっている。

註1──売淫を公許された公娼(こうしょう)。無許可のモグリは私娼(ししょう)であり、「娼妓」とも「遊女」とも呼ばない。一般に後者は「売笑婦」と呼ばれた。公娼の廓(くるわ)のある地域を赤線、私娼窟のある地域を青線と呼んだのは、この時代より光年の事である。

註2──本名は源一郎。明治初期から末期にかけての小説家・劇作家・ジャーナリスト。衆院議員など肩書き多数。十五歳より蘭学を学び江戸へ出て英学を修得。幕府に出仕して通訳・翻訳に従事。明治元年佐幕派(さばくは)の新聞『江湖(こうこ)新聞』発刊。新政府から逮捕されて発禁。三年に渋澤栄一の紹介で伊藤博文に会い意気投合。伊藤の渡米に随行。四年の岩倉具視の米欧巡遊にも書記官として参加。七年東京新聞主筆となり自由民権派批判の筆をふるう。御用新聞という悪評の反面、社説は好評。十五年立憲帝政党を組織。以降の政財界活動は省略。二十二年歌舞伎改良を提唱し歌舞伎座を建築し座主となる。九代目団十郎と意気投合し、改良史劇を続々発表。明治三十九年没。

註3──マルクス主義とは直接の関係はない。新聞購読料を低廉(ていれん)にするために、各新聞が競って安価販売合戦を繰り返した結果、だんだん紙質が悪くなり紙面の地色(ぢいろ)が赤かったのが名前の由来。日本の探偵小説の開祖のひとりである黒岩涙香(るいこう)(※)が社主であった萬朝報(まんちょうほう)(ヨロズ重宝のシャレ)などが代表的。通称「マンチョー」の主筆は涙香であったが、涙香の他に多くの論説を執筆したのは幸徳秋水である。
※明治を代表するジャーナリスト。本名は周六。「まむしの周六」と呼ばれるほど、その筆鋒は鋭く、政財界から恐れられた。『噫無情(ああむじょう)』『巌窟王』を代表作として、『死美人』『白髪鬼』『幽霊塔』などの翻案探偵小説、SF小説の魁(さきがけ)である『暗黒星』などの他、『天人論』『小野小町論』など著作多数。都々逸(どどいつ)や連珠(れんじゅ)(五目ならべ)の大衆普及にも貢献した。音二郎の選挙落選を「河原者のぶんざいで‥‥」と涙香がクサしたため、逆上した音二郎がピストルで涙香を暗殺しようとつけ狙った事件もあったが、伊藤博文の金庫番の金子堅太郎男爵(音二郎・貞奴の仲人)の説諭で事なきを得ている。

註4──戊辰・西南戦争の官軍参謀。北海道・樺太の開拓長官を経て、農相・逓相・首相・枢密院議長を歴任。黒田を含めて、井上馨・井上毅・西園寺公望や若き日の牧野伸顕なども貞奴の贔屓客であった。

註5──花柳界の伝統で《処女》を売買する経済制度。買手は多額の水あげ料を支払い、多くの場合、いわゆる芸者の旦那(だんな)になる。

註6──芸者はパトロンの独占ではないから、貞奴の場合も伊藤の体面を損ねないかぎり、かなり寛大に見られた。中村芝翫(しかん)(後の歌右衛門)、尾上栄三郎(後の梅幸)や横綱小錦などと、浮名を流す。