Re:Membering - Next of Japan

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カタログエッセイ

≫ 1.高橋瑞木(水戸芸術館現代美術センター学芸員)
≫ 2.住友文彦(ヨコハマ国際映像祭2009ディレクター)

 

「不可能性の時代」のアート:諸行無常のポストモダニズムにおける実存の試み
高橋瑞木(水戸芸術館現代美術センター学芸員)

情報と移動の加速により、モノやヒトの単一の帰属性が、疑問視されてひさしい。グローバリゼーションという言葉に食傷気味なのが何よりもその証拠だ。このような状況の中で、日本という局所の現代美術を語ることの意義とは、おそらく「現代美術」というグローバルな概念(あるいは帝国的な概念とも言えるのかもしれないが)を共有する他者に対して事例を紹介し、対話を誘発することにある。
社会学者の見田宗介はバブル経済の繁栄を享受し、高度消費社会に向けて邁進した日本の80年代を「虚構の時代」と呼び(注1)、それを受けて大澤真幸はバブル経済崩壊、阪神淡路大震災、そしてオウム真理教による地下鉄サリン事件など、自然と人災によって脆弱な社会構造が露呈し、人びとがアパシー状態に陥った90年代を「不可能性の時代」と呼ぶ。(注2)その「不可能性の時代」に成人を迎えた世代を、世間では「ロストジェネレーション」と呼ぶそうだ。「そうだ」と人ごとのように言う私も、そのロストジェネレーションのど真ん中に入る世代で、バブル経済を謳歌するには当時自分は若すぎ、将来を真剣に考えるときには経済と社会構造が機能不全に陥っていた。こういうと、ロストジェネレーションはあらかじめ未来や希望が失われていて、理想を描くことすら難しいかわいそうな世代、ということなのかもしれない。では、この世代のアーティストたちは具体的にどのような困難に直面しているのだろうか。世代論は世代間の差異を強調することで断絶と諍いを促進し、その結果本来批判されるべき中心的システムへの注視をそらすように作用する場合が少なくないが、それを回避することができるような議論は果して可能だろうか?

ベルリンの壁の崩壊から、バブル経済の崩壊、阪神淡路大震災、オウム真理教の地下鉄サリン事件、そしてアメリカで勃発した同時多発テロからイラク戦争と、国内外の社会の混乱は言うまでもなく日本人の精神構造に作用したが、とりわけ視覚芸術家にとって強いイメージを刻印したのは、おそらくその後に目の当たりにした破壊の光景の数々ではないだろうか。阪神淡路大震災での家屋や高速道路の倒壊現場や(注3)飛行機の衝突後にワールドトレードセンターが白い煙をあげて倒壊してゆく様子、そしてアフガニスタンのタリバーンによるバーミヤン石窟の大仏爆破の場面などがそれだ。その中でも日系アメリカ人、ミノル・ヤマサキ設計のワールドトレードセンターは近代化が生んだ国際様式の代表的建築、バーミヤン石窟の大仏は歴史的に重要な文化遺産として知られ、どちらとも公に保護されるべきものでこそあれ、人為的に破壊されるべき対象とは誰の思いもよらなかっただろう。このとき人々は、これまで蓄積された人智、理念、様式、技術、歴史が保護され、未来に伝承されるべきだという意識化の共同倫理が、自分たちと同時代に生きる人間の手によって灰燼に帰した瞬間を目撃し、記憶したのである。

とはいえ、この破壊の同時代に作家たちは、世界に絶望して虚脱状態になるでもなく、着実に現代美術作家としてのキャリアを重ねていた。日本画、アニメ、マンガ、グラフィックデザイン、現代美術を並列することで日本の視覚芸術に一貫する美学、あるいはジャンルの平等性を例証した村上隆(1962‐)は、「スーパーフラット」のキーワードを掲げ、欧米中心のアートワールドに着床した。また、同時期に奈良美智(1959‐)のペインティングの非言語的な未成熟の美的価値はロジカルな欧米のアートワールドで新鮮に迎えられた。一方小沢剛(1965‐)は韓国、台湾、タイなどアジア諸国を中心に積極的に旅をし、そこで異なる文化を背景とした人々とのコミュニケーションを作品化し、多元文化主義を象徴するアジアの作家として注目を浴びるようになった。やなぎみわ(1967‐)は、当初日本特有のデパートガールという職種に注目した写真作品を制作していたが、少女性や老いといった普遍的なテーマに取り組むことで、アートの地政学的な分類から逃れながら活躍の場を国際的に拡げることに成功した。これらの作家の作品に共通するのは、内容ではなく、作品の表面の仕上げに代表されるような、物質的なクオリティの完成度へのこだわりである。それは彼らが「作品」というオブジェに対していかに信頼を寄せているか、ということを証明するものでもある。また、解釈の多様性は承認されているものの、日本の伝統的美学、未成熟の美、異文化間での共生、老いとジェンダーの関係性など、イデオロギーに対するテーマ設定が明確で、その根底には発信すべき作家の強固な意思、つまり主体性が明確に見てとれる。(注4)美術評論家の椹木野衣は、1989年のベルリンの壁の崩壊が象徴的に示した東西対立項の消失に連動し、アメリカ先導型のアートの中心軸も失われたため、作家が「いま、ここ」という瞬間的な実存に縋るようになったと指摘しているが、前述の4名が20代を迎えるころには、ヴェニスビエンナーレでは若手作家を紹介するアペルト部門が設けられ(1980年)、日本では佐賀町エキジビットスペース(1983年)、レントゲン藝術研究所(1991年)など現代美術に特化したアートセンターがオープンし、彼らの活躍の発表の場が開かれた時期でもあった。そのため、1985年の冷戦構造の崩壊は、それ以後の世界情勢の混乱への序章としてではなく、緊張関係から解放と、21世紀という新しい時代の幕開けとして前向きに理解されたのではないだろうか。事実、彼らはこの追い風に乗るかのごとく、日本国外のアートシーンに活躍の場を広げた。(注5)興味深いのは、村上たちの前例が踏襲される間もなく、美術批評家の松井みどりが述べているように、1990年代後半に日本の現代美術が次世代を迎えたことである。松井はこの次世代の芸術を「マイクロポップ」と呼び、以下のように定義している「マイクロポップとは、制度的な倫理や主要なイデオロギーに頼らず、様々なところから集めた断片を統合して、独自の生き方の道筋や美学を作り出す姿勢を意味している。それは主要な文化に対して「マイナー」(周縁的)な位置にある人々の創造性である。主要な文化のなかで機能することを強いられながら、そのための十分な道具を持たない人々は、手に入る物で間に合わせながら、彼らの物質的欠落や社会的に弱い立場を、想像力の遊びによって埋め合わせようとする。」(注6)マイクロポップと見なされた作家の作品の特徴としては、手軽なメディウムで即興的な表現が可能なドローイングの重視や、本来的な機能や役割から解放した日用品を作品素材として再構成し、美的な価値を付与することなどが挙げられる。(注7)

マイクロポップ以後の日本の若手作家の作品にも、このマイクロポップの影響を色濃く残しているものが多々見られるが、松井の定義から若干ずれが生じている。そのずれとは、作家が「制度的な倫理や主要なイデオロギーに頼らず」という主体的な抵抗の態度から「制度的な倫理や主要なイデオロギーに頼ることができない」という、主体性がくじかれた消極的な態度へと変貌したことだろう。それは彼らの作品の中で、構築と解体、創出と抹消という、相反する運動が同居していることからうかがうことができる。例えば、金氏徹平はカラフルなガジェットを組み合わせた立体に白い石膏を滴らせることで、色とりどりの立体の存在を打ち消す。また、2009年3月に横浜美術館で開催された個展では人骨標本のおもちゃを使った立体作品を発表した。人体の形に組上がっている人骨のパーツをそれぞれバラバラにし、それを再度組み上げた作品だったが、それらの作品群と共に、完成作品の構造の脆さを暗示するかのように、組み上げる前のバラバラな状態の人骨標本のおもちゃも展示されていた。田口和奈の近作は、被写体であるポートレートの人物像が消滅してゆく写真だ。田口行弘の映像作品は、部屋から外された床がベルリンのあちこちで構築と解体を繰り返すが、結局はまた部屋の中へと戻ってゆく。

文筆家であり、現代美術作家としても活躍するヴィクター・バーギンは、その著書で、現代美術とはそれを世間に定着させる言葉(理論や批評)と共犯関係を結ぶことなしに成立することはない、と述べた。(注8)そのことはつまり、言説を構築する環境の中の諸制度(市場、美術館、マスメディア)のパワーゲームから逃れて芸術の自律性を保つことはできないということである。現在を常に批判的に更新することが半ば義務とも考えられている現代美術の支柱が、実は制度という批判の対象に深く根ざしているというこのパラドックスは、たしかに現代美術にとって「不可能性の時代」にふさわしい。つまり、ロストジェネレーションの作品の困難とは、作家もそれを論じる人々も、表現活動や作品に対する絶対的な確信を非常に持ちづらいということにある。それは作家にとって制度や体制という挑むべき単一で明確な対抗軸が消失していることと、精神的、あるいは物理的な芸術の永続性に対する無条件の信頼の喪失に由来する。加えて1980年代には美術史家によって「美術」という制度そのものが、日本の近代化の過程で欧米から輸入したものであることが論じられてしまったために、日本人の作家は自らのアイデンティティを、制度として、また個人として二重に模索しなくてはならなくなってしまった。しかし、そのような状況下で美術作品が単にある特定の時代や社会現象の写し鏡としてのみ機能し、私たちもそのように解釈するにとどまるのなら、テレビのニュース番組と何が違うのだろうか?作品が刹那に視覚的な快楽や興奮を人々にあたえ、人々がそれを享受したとしても、その瞬間は日々現実の慌ただしさの中に埋もれ、記憶に残ることすら怪しい。だからこそ、私たちがすべきなのは諸行無常(注9)のポストモダンの隘路の中でもがきながら、それでも創り続ける彼らの勇気を何度でも語り、共に時代の未来を開拓してゆくことなのである。なぜならそれこそが失われた世代(ロストジェネレーション)が実存を模索する唯一の手段だからである。

注1 見田宗介『社会学入門』岩波新書、2006年
注2 大澤真幸『不可能性の時代』岩波新書、2008年
注3:阪神淡路大震災の倒壊現場の風景を作品化した作家として米田知子(1965‐)、島袋道浩(1969‐)、高嶺格(1969‐)などが挙げられる。
注4: しかし、この中で岡本一太郎、二太郎、三太郎という架空の作家を生みだし作品の内容、様式共に従来のスタイルの「崩し」に挑戦している小沢剛は、20世紀から21世紀への移行期の社会的変動に特に敏感だった例として別の機会に考察するに値する。
注5:奈良美智は1990年代にドイツに在住していたため、日本の状況に直接影響を受けたとは言えないが、奈良を日本でサポートしたのは1996年に佐賀町エキジビットスペースと同じ建物内にオープンした小山登美夫ギャラリー だったため、間接的な影響関係は指摘できるだろう。
注6:松井みどり『マイクロポップの時代:夏への扉』、パルコ出版、2007年、pp6-7。ちなみに本展に参加している泉太郎もマイクロポップの作家として本書で論じられている。
注7:おそらくこの「マイクロポップ」は、一時的な現象に留まらず、トライヴァルな美的概念、あるいは様式として今後も消えることなく存続してゆくことだろう。なぜなら、それは生活様式や、受容美学にも応用可能な感受性の概念だからでもある。
注8:ヴィクター・バーギン『現代美術の迷路』、室井尚、酒井信雄訳、勁草書房、1994年
注9:「諸行無常」とは、仏教用語で、この世の存在は姿も形も留まることなく、常に流動的に変化をしてゆくものであり、同一性を保持することはできないという意味。

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親愛なるJSと、韓国の友人たちへ――Re:日本の1990年代以降の社会とアートについて
2009年4月12日
住友文彦

私がはじめて韓国を訪れてから7年が経ちました。その間、オルタナティヴスペースLOOPやSAMUSOといった団体の展覧会やシンポジウムなどに関わりながら、それぞれの社会やアートの共通点や違いを知り、経験をもとにして考えてきたことは間違いなく私がキュレーターとして仕事をしてきたなかに大きな影響を及ぼしています。それは日本と韓国の地理的、文化的な近さが、ほかの地域とはまったく違うかたちで重要性を持つからにほかなりません。
そして、今回はじめて日本の若手のアーティストだけを20名紹介する展覧会を企画する機会を得たことにとても感謝をしています。そして、私が伝えたいことを記そうとするときに、記述の方法について考えたことがあります。ある世代による区切り、そして日本の、という地域による区切りがあるときに、検証を踏まえた包括的な視点で記述するよりも経験的な記述のほうが実態に近寄れるのでないかと考えたことと、前述した個人的に経験してきたことが明確には認識されないレベルで関わってくるのではないかと考え、今回はこのような形式の文章をカタログに寄せることにしました。

さて、まず個人的な記憶をたどるうえで述べておきたいのは、1989年のことです。私があと3ヶ月足らずで大学受験に臨むという11月に「ベルリンの壁崩壊」というニュースが飛び込んできました。その顛末が重要な歴史のひとコマになるという事実や、頑強な政治体制を組んでいるはずの社会主義国家について学んできたことが変化することで受験生として動揺をしましたが、もっと大きな興奮が心を動かしていたと思います。おそらく、大きな政治体制の転覆を経験している韓国の人々には想像もつかないほど、この国は政治体制が固定化され、大きな変動にさらされる機会に慣れていません。安定していた秩序が音を立てて崩れていく現実感は、受験勉強という管理社会の根幹を成す現場においては余りにも生々しかったはずですが、それはやはりバブル経済の余韻が残る東洋の島国においてはテレビのなかの出来事としてどこか遠くにあったような気がします。
しかし、その後の1995年ははっきりと人々の心に変化の兆候を刻みます。阪神淡路大震災とオウム真理教のサリン事件によって、それまでの右肩上がりの経済成長が醸し出す多幸感に終わりを告げたのです。今回の展覧会に作品をだしているアーティストたちは、このときに10代から20歳を過ぎたくらいの年齢です。
日本の社会の変化をみつめる視線において大きな断絶が生じるとすれば、それまでの経済成長から1990年代の経済的停滞への転換を、不幸の時代としてみなすために原因探しにやっきになるか、そもそも成長のシナリオ自体をイデオロギー神話としてそこで抑圧されてきた多元的な価値のあり方がむしろ浮上することになったと考えるか、という点にあるのではないでしょうか。というのは、私は自分自身が就職の機会に恵まれないという心配はあるにしても、政治家の権力シンボルか不動産投資のような美術館設立にはうんざりしていたため、地域や設立者によって多様な美術館のあり方が模索されるようになったことを好ましく感じていています。しかも、それと同時に、これは日本という特殊な地域に限った変化ではなく、そもそもマスコミや政治家のような声の大きな人たちではなく、一般市民の声が立ち上がっていくという、ある意味では1960年代に起きた体制への異議申し立てがようやく実現するかのような大きなうねりのなかで起きたひとつの出来事であるという認識もかすかにありました。それが、インターネットの普及によって知が伝達されていく方法が変わっていくという感覚とどこかでつながっていると感じられました。
日常的に接する情報の流通については深い考察を要すると思います。マスメディアや資本によって喚起される「アクチュアリティ」は強靭であり、魅力的でもある事実は否定できず、私たちの生はそこに無媒介にさられてきたのに対して、いまやはっきりと批判的で冷静な眼差しを向ける態度が可能になってきているのではないでしょうか。否定のためにそれらを退けるのではなくて、社会の伝達機能としての役割を認めながら、ある種のエスノグラフィーとして参加をしつつ、観察をするような態度です。そこにははっきりと受容者や消費者としての固定的な立場からの変化がみられると言えます。私は、テレビや映画、雑誌の複製画像を素材とした今回展示をしている作品のいくつかに見出すことができるそうした感性を、これまでのいわゆるメディア批判的な歴史的文脈とは違う傾向のものとしてみてみたいとも思っています。
かつてそうしたメディアの情報が与えてくれるものとは、自分たちにとって未知のものだったでしょう。しかし、いまやけっして知り得ないものとして外部に留まり続ける対象を見つけるのは難しくなっています。表現をするという行為も、そうした対象に向かっていくことで「新しさ」を産出してきたわけですが、もはやそれは不可能な時代です。上の世代にとっては「内向き」にみえる特徴が指摘されるのはこうした点を指しているわけですが、その分、表現する者が自分自身の個別性をみいだす機会には恵まれてきているような気もします。そこに、他には置き換えがたいものとして独自の身体性が発揮される可能性があるのではないでしょうか。身体はつねにもっとも身近な他者であり続けます。望まないにしても現代社会を生きるうえで、社会的なプロセスが要求する自己同一性をつくりあげなければならないときに、自分に近づき自己を固有化することを試み、それでも馴染めないもの、超越的なものがあるという二重性があり、意味のあるものと、無意味に見えるものとの間を往復する運動をするのです。目に見える形や社会のありかたに意味を見出しつつも、それを無意味化するような作品のなかには、この運動が立てる音が響いているようにも感じられます。
この価値が流動化していく感覚は、もっと現象的なものへの関心へと向かう場合もあるでしょう。極めて非言語的な出来事を受け止める場として脱自己固有化された身体は有用な導き手です。それは表現者自身のものである場合もあれば、鑑賞者のものである場合もあるでしょう。表現の中に潜在する時間の流れと、鑑賞体験としての時間が、微細に日常を見つめるように感じられることが多くの作品を特徴付けています。
それから、時間に関して考えるときには、過去との関係についてもこれまでとは異なる特徴を指摘できるのではないでしょうか。「新しさ」のアクチュアリティに支えられてきた時代には、過去との断絶が意識されてきましたが、むしろこの世代の表現では郷愁とは異なる過去への応答がなされます。それは、時間が入れ替わるようにして更新されていくのではなく、むしろ異なる時間の層が折り重なって現在があるかのような認識と言えばいいでしょうか。過去を自己のものとして自己同一性の礎にするのでもなく、むしろ他者として留まり続けるものとして応答をしていこうとしているように思えます。
日本のアーティストたちは、社会的な問題などを主題にして表現をするような傾向を持つものはけっして多くありません。ここには自己への批判性が欠如していると考えられる点もあります。しかし、これまで記述してきたような応答的な思考が増えていくなかで、自己と社会を見つめなおしていく可能性が新しいかたちで生まれつつあるようにも感じてもいます。既知の社会的な問題をわざわざ主題にしなくても、個人的な問題がいつも政治性を孕んでいることを、身近な周囲との関係性のなかから感じ取ることも可能なはずです。いずれにしても社会を俯瞰的に眺めるような視点ではなく、日常の細部を自分自身の皮膚感との間に生じる違和感と共感とのあいだを往復しながら、少しずつ表現を積み上げていくような手法が多いと言えます。そういう方法で、ここに自分がいることを刻み込むような表現として、20人のアーティストの作品があなたの前に示されているのです。
信じられるイデオロギーがなくなり多元的な価値を求めていく現代社会の方向性はおそらく不可逆的なものです。しかし、その過渡期には、政治や経済において迅速な変化が達成されないために、個人の価値観と社会との間に齟齬が生まれ、現在のような過酷な現実をもたらしています。個人の感覚においては、社会が望ましい方向へ変わっていくことはほとんど手に余るような、自分とは関係のないところで起きるような出来事として受け止められます。しかし、実際には両者の間は断絶しているのではなく、明らかに連続しているものです。しかし、そのことを実感するのは思いのほか難しく、自分以外の他者に向けて表現を届けようとする者が、津常に避雷針のようにして社会の変化を感じ取る能力にこそ、芸術が果たして来た社会的な役割があったのだと思えば、その役割の重要性は増すことはあっても減ることはないと言えるでしょう。
そうして、タイトルにはなるべく端的にこうして考えてみたことを表して込めてみました。彼/女たちは、無からの創造主のようにして全能感を発揮するのではなく、自分が身を置く環境や過去の時間に対して応答するようにして表現をすることを、情報メディアで親しんだ表記方法として「Re:」と記しました。そして、イデオロギーを信じることがもはや不必要になり、そうした同質性の強い共同体的なつながりよりも、他者性を違和感として取り込むような傾向を「membering」と呼んでみたいと思いました。この言葉には、事後的に変更できないような個人の帰属性を問わない、ゆるやかな関係性が想起されています。自己の同一性を歴史や場所によって確保するような本質的な態度ではなく、応答的なメッセージの交換によって、ここにあったこと、ここで起きた出来事が記憶される(remenbering)ような手段として表現をみなすことはできないか、と考えたのです。
そして、これは名詞ではなく、動詞であることで、なんらかの名称を与えるのではなく、現象を指し示すものとしてあればよいとも考えました。

最後に、ちょっと一緒に考えていただきたいことも記しておきたいと思いました。私が近年アジアで仕事しているときにしばしば思うのは、欧米を中心に発達してきたアートの制度がここまでアジアの地域でもしぶとく浸透しているのはなぜだろうということです。ここにはひとつの希望と、それとは別の注意を喚起する思いが交錯します。まずは、表現と伝達の方法が各地域や共同体固有のコードをもとに安定した表象を持ちえた時代を経て異文化との接触がそれを揺るがす経験した西欧が、政治や経済とは別に、他者と共存してくための重要な機能を文化の領域に託し、それを保障するための制度を作り上げてきたことが今のアートの基盤にはあるとみなすと、現在の東アジアで独裁政権の崩壊や経済の発達によって個人の単独性を認めていくことの大切さが社会に広く受け入れられていくにつれ、アートがそうした場所として必要とされていくには必然があると私には考えられます。しかし、そのいっぽうで、国際化の流れは情報や資本によって後押しされ、そういうときには国家的なものや地域的なものが優先される傾向があります。美術館やアカデミー、そして市場は、国民国家や資本主義の体制と相性があまりに良いのです。そうしたものの見方を排除し、お互いの表現について、記号的な受け取り方ではなく、もっと応答的な関係性を作り上げていくことはできないのでしょうか?
その意味では、アートは情報の受け取りに回収できるものではなく、具体的な表現者や鑑賞者の個別の経験からできあがっているものです。だからこそ、信じるに足るものですよね。
この展覧会で眼にした作品は、あなたにはどう映りましたか?何をやっているのか、動機も目的も分からないような表現もあるかもしれません。そこに少しでもあなたの注意を向けられることも、ひとつの応答なのです。
私たちは純粋に見る、ということが不可能だということを知っています。眼差しの政治性からは、どうやったら自由になれるのでしょうか。
そうしたことを話せる機会としてこの展覧会をとても楽しみにしています。

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