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合田成男 雑話 10

去年の九月二日に四十日間の森の独居を終えて、白州を去ってからちょうど半年あまり、再訪する機会に恵まれた。三月十七日、唐松林を切り開いた露天のけいこ場を舞台に、その前週、plan Bで掛けた桃花村公演、ゴヤ・シリーズ「微笑の計測」が引っ越し上演されることになったからである。
 この企画をチラシを見て知ったとき、即座に、行こう、と決めた。唐松林のけいこ場は、その杭打ちから床張りまでときどき見に行った。森で独居していたからである。工作の進展に立ち会うのは限りなく楽しいことであった。桃花村の若い人たちが力をこめて杭を打ち、精測する姿に接するのも興味深かったけれど、切株の残る緩い傾斜地に、徐々に形を成して来る水平面を目前にして、完成を想像するのはこの上もなく楽しいことであった。既に胃潰瘍を肺気腫に苦しんでいたその時期、大変な慰めでもあった。舞台は田中泯さんの国際的なワークショップのために駆け込みで完成した。林の入口から見ると、ほの暗い唐松林のなかにぽっかりと出現したその空間は、舞台ぎりぎりまで迫った樹木にしっかりと囲まれ、粛然とした気配を漂わせていた。十メートル四方の舞台にそっと上がり、その中心に寝転び見上げると、正方形の天井は青空、雲の流れが刻々と速い。十数メートルの唐松の側壁、いわば深い箱形の底から仰ぎ見る雲の流れは殊更に速いということである。林を潜る風は柔らか、羽虫もつぎつぎと襲って来て、床一面だけ、最初の劇場は多分、こんなふうだったのではないかと思ったものだ。ワークショップを終えて、引き揚げたはずの外国人ダンサーが戻って来て、ひっそりと舞台の隅に立っていたり、カメラ取材に来た芸大生に先客然と招き上げられ、そのまま三、四十分、舞踏について喋ったこともあった。また、傾斜の仕事の合間にだろう、ふらふらと現れた玉井康成君に呼び掛けられ、半ばうっとりとしていた衰弱から助け出された思いも経験した。
 さて、この森の舞台での最初の公演「微笑の計測」は私の予測をいきなり覆してしまった。いきなりとは、会場に着いた途端、舞台上に観客が既に座っていたことに驚いた気持ちそのものなのだ。この予測にはこの舞台に対する私のごく自然な思い入れのほかにもうひとつ別の根拠がある。plan Bで初演されたこの作品に、これまでの桃花村の舞台に見られなかった成果、すなわち共演者相互の関係性、ここでは中心的な存在である玉井に投げかける微笑を、出演者個々が布石された関係性にふさわしく、微笑のさまざまを発見し、表現しようとし、ときに見事に関係性を作り上げていた。その結果として、狭い空間は次第に濃密になり、白っぽい、粉めいた肌合が顕れた。これも桃花村公演では初めての経験のように思われた。泯さんから作品の構成は基本的に変わらない、聞いたのは初演後である。私は、ふたつの舞台の対照的な質の違いから、肌合いを予測から外し、もっぱら踊り手たちの、より明確な微笑の交換を期待した。それはからだの問題に帰結するものの、立ちようによっては舞台空間に救われることもあるのではないか、これが私の予測であった。
 予測が覆されたことは私にとってなんの衝撃にはならなかった。むしろ舞台に座っている観客を見て、一週間前の初演後に予測したそのことを思い出した、というのが実際である。そして、その予測をいま、さらに思い出し書き列ねているのが事実なのだ。いい換えれば、忘れていた予測、この距離(時間)を一挙に縮めて、目の前に展開する表現とからめて構築する(議論化する)ほど、いまの私は器用ではない。だから森の舞台で行われることをひたすら受容しなければならなかった。いま、やっとふたつの「微笑の計測」を見較べ、判断するときがやっと来たように思う。
 「微笑の計測」plan B版が白く粉っぽい肌合を結実させたと先に書いた。その肌合いは、自殺願望を誇示しているかのような男と、それを軽蔑し、結局は幇助者となる(?)女たち(デイナ、石原志保)や関係者でありながら為す策もなく見守る女、あるいは死者(モリーン)らが共有する庶民の領域を内包するものだ。狭い生活空間と親しみのある愚かさとでもいえようか。これに対し、白州版は森の舞台の環境(空間性)に配慮して、この物語を極端に地上的なもの、悲惨に落とし込めようとしたところに作者の意図が強く働いていた。それは三月半ば、標高七百メートルの高原はまだ寒いし、開演時間を夕暮れの迫る五時と設定したあたりにも測られるのだが、作品の前半を舞台奥の林間、草地で上演、後半の首吊りシーン以後は舞台で処理された。小雨まじりの天気だったが、白い衣裳もそれほど汚れず、必死な愚かさにまで降りることはなかった。なぜか。妙に、微笑も潜み、動きも硬く、少し凍えたような不自由なからだが印象に残っている。
 以下は私事である。この半年の間に、何人かの人から、今年の夏も白州に行くのか、と聞かれた。そのたびに否定した。最初で最後と既に決めていたので返事し易いのだが、妙なことに最近になって、白州へ行くこと、殊にあの谷間にはいって行くことが怖い、と感じている自分に気着いた。理由はまったく判らないまま「微笑の計測」白州版を見にゆくことになってしまった。韮崎からの横手ゆきのバスで親しい若い女性たちといっしょになった。はじめ、気楽に言葉を交していたものの、次第に無口になり、長い橋を渡って白州町に入る頃にはすっかり興奮状態となっていた。あと五百メートル、運転手に降りることをいわなければならない。前に席を移した。「あら、降りるんですか」と誰かがいった。バスは小さい橋の袂で停まったものの、運賃の硬貨が掴めず、床に落とした。手の震えを見て運転手が拾ってくれた。やっと道端に立つことができた。手を振る女たちを乗せてバスは走り去った。
 息を拭いて谷にはいった。最初の丸太橋を渡りながら、夏、急流の音しか聞こえなかった川が見通せるのをふしぎな気持ちで見た。坂道にはいって驚いた。森に緑の葉が一枚もない。確かめようと急いで坂を登った。全山、黄色の枯葉に埋まって、からっと明るく、優しく、怪しい線や面を見せていた。私の掘立小屋はドアが倒されていたほか、しっかりと建っていた。テーブルの上に一升瓶が立っていた。突出している異物は小屋とごく近くの苔むした軽トラックの頭の部分(坂口寛敏・野外美術工作物・一九八九)だけ。小屋まで降りてみようかな、と思ったが、なぜか、私の足は一歩も動かなかった。依然として怖いという気分は解消しなかった。
 帰宅して二、三日後、突然、悲鳴という言葉が浮かんだ。悲鳴を上げているからだは意識できない。しかし、それはからだのなかに在る状態なのだと解った。怖いという感情の源なのだ、と判断した。ふと、その悲鳴と微笑の距離はどのくらい、などとできない計測を計測してみることもある。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源1

日本における西洋舞踊の歴史を調べていくと、奇妙な事に気付かされる。記録に残っていない時代は別にして、初期の西洋舞踊(註1)がオペラやオペレッタに必要な技術として日本で成長をとげて来た事は周知の事実であろう。
 それが関東大震災以降のムーラン・ルージュやカジノ・フォーリーあるいは宝塚・松竹両歌劇団が隆盛を極める昭和ともなると、オペレッタのみならず風刺的寸劇(バーレスク)やレビューやボードヴィルの要素も含み、舞踊史ともオペラ史とも演劇史ともつかぬ、芸能全般を俯瞰(ふかん)した視点からでないと、その全体像はつかみがたい。つまり当時の軽演劇の喜劇俳優であるボードヴィリアンは、俳優のみならず歌手であり寄席芸人であり、その多くはダンサーでもあった。
 また大正期の歌舞伎の舞踊技術には、ロシア・バレエの影響が見られるし、同時代の藤蔭静枝(初代)や花柳寿美などの、いわゆる新舞踊には、ロシア・バレエのみならず未来派・ダダイズム・構成派、そしてモダン・ダンスの影響が色濃く表れる。これを日本舞踊つまり邦舞の特異例とのみ片付けるわけにはいくまい。
 それだけならまだよい。大正中期の浅草オペラ全盛期ともなると、俳優個々の前歴が古くは壮士(そうし)芝居に始まり、新劇・新国劇・新派・曽我廼家(そがのや)劇(現在の松竹新喜劇の前身)・小芝居(こしばい 註2)等を次々と経ている場合が大多数なのである。この他に、当時の人気が松井須磨子をも凌(しの)いだ《魔術の女王》松旭斎(しょうきょくさい)天勝一座を加えてもよい。それぞれが俳優の個人史的関係で結ばれているのみならず、現在考えられがちな接触の無い別ジャンルのものではなく、時には商売敵やライバルでありながら、親しい交流もあったのである。たとえば天勝一座のダンス指導は高田雅夫(高田せい子の夫)であったし、浅草芸能人のボスであった曽我廼家五九郎の一座には歌劇部があった。また五九郎の師匠の曽我廼家五郎はヨーロッパ外遊の際に、同行した愛妾をパブロワのダンス・スクールに留学させて帰国している。そう考えると新喜劇の世界にも、オペラやダンスの流行があったとしか思えない。天勝の『サロメ』を演技指導したのは小山内薫であるし、その小山内が常連であった日本で最初のカフェー『プランタン』に女王然としていたのが、まだ新橋の文学芸者であった頃の初代藤蔭静枝である。小山内は常連で親友の吉井勇と語らい、文学の先輩であり同じく常連客の永井荷風をたきつける一方、藤蔭の方へも煽(あお)りを入れて、まんまと二人を結びつけ、後に荷風は親の意向でもらった妻と離縁して藤蔭と夫婦になる。永井荷風は米・仏で本場のオペラをあびるほど観てきた明治時代きってのオペラ通・洋楽通であり、荷風の終生の夢は彼の地で観たオペラを日本で、しかも自分の手で作りあげる事であった。
 ここで小山内の家系についても触れておこう。妹の岡田八千代は黒田清輝の片腕であった洋画家の岡田三郎助夫人。この八千代が長谷川時雨(しぐれ 劇作家。夫は『雪之丞変化(ゆきのうじょうへんげ)』の作者三上於菟吉(おときち))とともに主宰したのが雑誌『女人芸術』であり、大正末から昭和初期のフェミニズムの牙城となる。この『女人芸術』のサロンには女流文学者のみならず、日本オペラ界の最高のプリマであった原信子(帝劇歌劇部の音楽教師。石井漠・伊藤道郎(みちお)・高田雅夫・高田せい子も彼女の弟子。特に高田せい子は妹のように可愛がられ雅夫が亡くなるまで原せい子を名のる。)も常連であった。
 長谷川時雨は大正元年に六世尾上菊五郎と舞踊研究会を始め、大正三年小山内をゲストにスライド映写によるロシア・バレエの紹介『露西亜舞踊講話』を開催。この時雨の『歌舞伎草子』(大正三年)を改題再演したのが藤蔭の新舞踊作品『出雲の阿国』(大正六年)であった。小山内薫・八千代の兄妹の従弟が洋画家の藤田嗣治(つぐじ)。嗣治の長姉の息子がダンスや洋楽の評論家であった葦原英了(あしはらえいりょう)。この三人は同じ家に同居した時代もある親しい血縁者であり、英了は二人の叔父と小父(おじ、英了の表記に従う)に溺愛されて、その影響下で育つ。
 以上のべて来た事は、日本の西洋舞踊史の周辺のささいな問題かも知れない。しかし舞踊史だけの研究では観えて来ない謎の解答も、こうした迂回を経る事で全体像がはっきりと見えて来る可能性がある。まだまだ語るべき事は多く、今回の概略的にのべたエピソードも、舞踊史を解きあかす手がかりの氷山の一角にすぎない。次回は日本で最初の女流ダンサー(ダンサー傍点)であった川上貞奴について──あたりから始めよう。
 
 註1──この場合、鹿鳴館などでの娯楽やコミュニケーションのための社交ダンスではなく、観客を前提とした芸術表現の舞踊。)
 註2──自前の劇場を持つ大歌舞伎(おおかぶき)に対して、大多数の劇場を持たない歌舞伎や大衆演劇を演目とする一座の総称。つまり現在の梅沢富美男などの一座も、もとをただせば小芝居の歌舞伎であった。)

村上裕徳 日本現代舞踊の起源2

ここに一冊の書物がある。外題(げだい)を角書き(つのがき)に『異国遍路』と田の字型に四文字刻んで、本題を『旅藝人始末書』と記されている。著者は別府亀の井ホテルの経営者で宮岡謙二という人である。当初『異国遍歴死面列伝』として昭和二十九年に私家版が少部数刊行され、昭和三十四年に修道社より公刊されたこの本は、幕末から大正末年に至る、有名無名を問わない旅芸人を中心とした日本人の海外渡航列伝である。後に中公文庫に収められ、現代では手軽に読むことが可能になった。好事家の書物にありがちな資料の杜撰(ずさん)さや偏屈さは見られず、アカデミズムがとうてい及ばぬ造詣の深さと、現在では誰も書けなくなった軽妙にして洒楽(しゃらく)な戯作文に裏打ちされた、痛快きわまりない日本人列伝である。海外渡航に関する三千巻にものぼる書物からの知識の集積であるが、それだけに終らず痛切な庶民論や日本と東洋・西洋の関係を深く考察した卓抜な日本人論にも成っている。この手の本としてはおそらく空前絶後のもので、私には神か悪魔でもなければこれほどの本は著せないとすら思われる編年記である。登場する曲芸団つまり現在のサーカスの芸人達、手妻使いつまり手品師、相撲取りなどのスポーツマン、主として邦楽を中心とする音楽家達、講談・浪花節語りなどの寄席芸人、大道芸などを含めた雑芸人、そして万国博などのコンパニオンとして派遣されるの多かった芸者達……。
 場合によっては、それらが渾然一体となって海を渡っているのだ。そのサワリを少し引用すると、<慶応二年の秋、西へ向けて日本を出たもの、すなわち異国を遍路する旅芸人の先頭を切ったのは、アメリカのベンコツに年千両、二年の拘束で買われた独楽(こま)廻し、軽業師、手品師などの男女十四名である。そのなかに、「曲独楽」の十三代松井源水と女房、娘、「自動人形」の隅田川浪五郎、女房の小まん、浪七、「浮かれ蝶」の手品をやる柳川蝶十郎(本名は青木治三郎、初代一蝶斎の弟で二十歳)蝶吉のほか、山本亀吉、同小滝、太郎吉、矢奈川嘉七の名が拾える。八っつと七つの少年もまじる。その道中双六(すごろく)の上りは、もちろんパリの万国博だ。ところが、おもしろいことには、この旅芸人の一行は、幕府がはじめてイギリスに送った留学生十四名──中村敬輔、外山正一、菊地大麓、林薫たち──と、おなじ人数が、しかもおなじ船で、でかけている。あとでは、わすれはてられる旅芸人と、明治文化史に大きくクローズ・アップされる留学生が、下等上等船室の区別こそあれ、たまたま乗合船でいっしょにゆられながら、ヨーロッパに渡っている。これは、まことに奇縁である。《中略》 松井源水は、まずお手のものの「曲独楽」をあれこれと十一種も用意してきている。ヒモとともに目方が七貫二百匁もあるという三尺五寸の大コマを、かるがるとまわす。フィナーレには、そのコマが、まんなかから二つにわれて、娘のおつねがキモノ姿でキョトンととびだす。隅田川浪五郎の連中は、唐子、三番叟などのカラクリ人形を十ばかり、器用にうごかして東洋のエキゾチズムをただよわす。手品の蝶十郎は「バタフライ・トリック」でつくりものの蝶を自由自在に、空中であやつったあげく、最後にほんものの蝶を舞わす。「天地八声蒸籠」では、底抜けの箱から、いろんなもの、とくに、西洋人にはめずらしいウルシ塗りの椀や、タケ細工のかごなどを、それからそれへととりだす。見物はでて来る不思議さより、でてきたものに骨董としての価値をたたえ、目をみひらく、といった具合である。」
 ──少し解説を加えるならば、柳川蝶十郎の「浮かれ蝶」の「バタフライ・トリック」というのは、最近は誰もやらなくなったものだが、私の幼時の記憶によれば、舞台上で薄紙を指先で千切り取るか紙切り細工で瞬時に蝶をしつらえ、扇子の風でまさに本物のように飛ばせるという、かなりポピュラーな伝統芸である。佳境に至ると扇子ふたつで五六匹の蝶を舞わせていたと思うが、明治期にはもっと凄い名人が居た事だろう。ラストには紙細工が本物の蝶になって消え去るというトリックがあった筈だ。風に舞う紙が蝶に変わるというとオカルトじみてくるが、あるいは途中で本物の蝶にすりかえるか、冬眠させた凍蝶(いてちょう)を使って、風で舞わせた後で眠りを覚醒させたのかも知れない。いずれにせよ、見事な技芸であった。  話をもとに戻すと、幕末以来多くの日本人が海を渡った。大半は西洋文明移入のための政府高官や役人あるいは留学生であったが、その中でも特異なものに旅芸人がおり、大正末期までの六十年間には膨大な人数となる。その多くは目的地で好評のばあい当初の計画より長旅となり、渡航先での滞在数年のものも少なくない。ほとんどが無名の人々だが、その中で後世に名を残すほどのスパースターが天勝と貞奴であった。天勝については章を改めて記すので、まずは貞奴である。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源3

無鉄砲にも程がある──という言葉に従うならば、程度をわきまえないケタはずれの無鉄砲は川上音二郎と女房の貞奴であった。やりくり算段の結果、猿や熊や狸まで居る小動物園を併置した洋風建築の川上座を建てたまではよいが、高利貸しに追われるのみならず、座員は給金が低額のための不満から大半が離れてしまう。川上座を抵当にまたしても金を借り入れ国会議員に立候補して起死回生をはかるが、これも落選。せっかく手に入れた川上座ばかりか新居の洋館までも差押さえられてしまった。ここまでなら特別の話ではない。問題はここからだ。門下達の劇団との合同公演の失敗もあって捨鉢になった音二郎は、貞奴をともない商船学校から払下げの十三尺(四メートル)の短艇(ボート)『日本丸』に乗って、あろう事か、海外脱出を成そうとする。音二郎は海外渡航経験が無いわけではないから、正気の沙汰とは思えない。
 面舵(おもかじ)と取舵(とりかじ)の区別もつかないズブの素人の、しかも行先も決めてもいない旅である。明治三十一年九月十日に築地河岸から漕ぎ出したまではよいが、外海に出てからは荒海にもまれ、おりから二百十日の強風もあって小船は膝までの浸水。死を覚悟したあたりで、軍艦『富士』の灯を港と錯覚して横須賀軍港に迷い込み一難を逃れた。軍港部長の説諭(せつゆ)のかいも有らばこそ、猪突猛進(ちょとつもうしん)の二人は密かに『日本丸』に乗り込んで港を脱出。やっと辿り着いた先は伊豆の下田港。音二郎は豆と打撲傷で血だらけの満身創痍、貞奴は腰が抜けた上に差込み襲われる有様。九月十五日の『時事新報』は紙面に、<一葉の扁舟に棹して/川上音二郎米国へ押渡る算段/狂気か暴か判断つかず>──と見出しを掲げ、なかば呆(あき)れ口調で二人の粋狂を論じている。
 それでも二人はその後も航海を続けて、天竜川の河原に打上げられたり、アシカの群に転覆させられそうになったりしながらも、船が神戸港に辿り着いたのは翌年の一月二日。着くや否(いな)や音二郎は大量の吐血をして病院に担(かつ)ぎこまれてしまった。暴挙としか言いようの無い海外脱出計画が、あわや水泡に帰するかと思われたやさき、療養先に国際興行師の櫛引弓人(くしびきゆみんど)から米国巡業の話が持ち込まれる……。
 音二郎・貞奴の伝記を読んでいると、強烈な個性のブツカリ合いのせいも有るのだけれど、絶えずハラハラ・ドキドキの連続で飽きる事がない。急転直下に天と地が入れ替わるジェットコースターなみの人生遍歴である。しかも双六で遊ぶかのように屈託が無く、欧米へのコンプレックスがほとんど感じられず、どんな悲惨な状況でも、妙に陽気で賑やかでドライである。これは天勝・天一のコンビにも共通する芸人独自の気質と言えようか。抱月・須磨子とは正反対である。
 それはさておき、明治期において巡業を含め四度も欧米を視察し、本場仕込みの海外演劇の息吹を最も直接に大衆に伝達したのは、壮士芝居の開祖である川上音二郎をもって嚆矢(こうし)とする。坪内逍遥をはじめほとんどすべての演劇人は本場の舞台を観た事もなく、洋書だけをたよりに沙翁(シェイクスピア)を論じオペラを語り、演劇改革をいまだ画策していた時代の事である。
 旧劇(歌舞伎)に対する新劇(現代演劇)の父でありながら音二郎への歴史的評価は、キワ物めいた山師的側面ばかりが強調されがちであった。音二郎の演劇改革については後で記すとして、出たとこ勝負の腹芸と強運、眼から鼻に抜けるような頭の回転の良さ、わけても貞奴というジャジャ馬を乗りこなす名伯楽(はくらく)ぶりは音二郎一流のものだが、海外での成功の大半はゲイシャ貞奴のアイドル性に負う所が大きい。各国王族・大統領・舞台人・芸術家等々をむこうにまわして国賓なみの歓待と賞賛を受け「ヤッコ・ドレス」まで発売されるまでのブームともなると、単なるジャポニズムだけの興味とは言いがたい。
 海外には<女優>があるのに川上一座に女形しか居ない事を指摘された音二郎は、事のなりゆきから嫌がる女房の貞奴を説き伏せて女優に仕立てあげる。こうして冗談のように海外の地で近代日本演劇史の女優第一号が誕生するのだ。寛永六(一六二九)年将軍家光時代、風紀を乱すとして女舞(おんなまい)・女歌舞伎が禁圧されて二百七十年間、日本演劇に登場する女性はすべて女形が演じてきた──とされるのがアカデミズムの演劇史の定説である(歴史書にはほとんど記されていない貞奴以前の明治期の女歌舞伎については後に別項で記す)。
 日本での貞奴の初舞台はそれから二年後、明治三十六年の明治座公演のシェイクスピアの翻案劇『オセロ』である。ゆくりなくも女優になってしまった貞奴は、明治四十四年音二郎の死とその後七年ばかりの引退興行(大正六年明治座公演『アイーダ』)まで、女優業にいそしむ事となる。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源4

川上貞奴は日本橋両替町で書籍商と両替商を兼業し、町役人もつとめる小山久次郎・タカ夫妻の十二番目の子として、明治四年七月十八日に生まれた。本名は貞である(以下しばらく「貞」と記す)。貞は七歳の時に家が没落したために、口減(くちべらし)として日本橋住吉町で芸者置屋『浜田屋』を経営する浜田可免(かめ)の養女になった。可免は二十九から後家を通して来たしっかり者で、置屋の女主(おんなあるじ)になる前は亀吉という強情とお侠(きゃん)でならした木遣(きゃり)のうまい芳町(よしまち)芸者であった。貞は養女としての期待もあって、幼時からあらゆる稽古事を厳しく仕込まれ、十二歳で雛妓(おしゃく 半玉)に出て子奴(こやっこ)、十六歳で一本立ちとなって奴(やっこ)を名乗った。
 ここで断っておかなければならないのは、貞は芸者であって遊女ではない。生家の家庭事情で置屋の養女になったとは言いながら、また、生家に幾ばくかの金銭が支払われた事は確かだと思われながらも、借金のカタとして売買され、返金が終わるまでの年季奉公(ねんきぼうこう)をしているわけではない。芸者にも売淫(ばいいん)は付物だが、遊郭の花魁(おいらん)を含めた娼妓(しょうぎ)(註1)のように廓(くるわ 土や石のかこい)の中に幽閉されている《性の奴隷》ではない。あくまで芸が建前(たてまえ)であり、仕事さえ熟(こな)されておれば自由のきく立場で、一般人と何ら変わりない《芸者》という職業にすぎない。わけても芳町の「奴」という名前は新橋の「ぽんた」とならんで、花柳界(芸者の世界)でもキワメツケの芸者にしか与えられない名跡(みょうせき)である。初代の奴は、論客であった福地桜痴(ふくちおうち)(註2)に愛されたが、結核のために早逝(そうせい)している。名妓(めいぎ)の名はヤスヤスと後継者には継がせないのが花柳界の慣習(しきたり)だった。その名を襲名するに当たっては名跡を恥ずかしめぬ容貌と芸の技量の他に、しかるべき後盾(うしろだて)を必要とした。そのため養母の可免は、贔屓筋(ひいきすじ)の政財界の御歴々(ごれきれき)の中から時の総理伊藤博文を選び出す。
 当時は現代と違い、政財界人の色事に関するゴシップは新聞を賑(にぎわ)す日常茶飯の記事(スクープされるほどの事件ではない)であり、御用新聞ではない赤新聞(註3)の政治批判の好餌(こうじ)ではあったが、それは現在のように秘密を暴露するスキャンダルではなく、週刊誌の芸能記事のように、いたって公然のものであった。わけても当時の伊藤博文は北里柴三郎と並んで、花柳界の漁色家の代表であった。この二人ともに相手の容貌には一切無頓着の質より量の豪傑で、芸者を総揚げしたら、順ぐりにブルドーザーなみの総浚(そうざら)いで、まだ生娘(きむすめ)の半玉(はんぎょく)などは蒲団部屋に隠れなければならないような乱痴気騒ぎの常習犯であったというから、今風に言えば少し困った明るい助平親父(すけべおやじ)であったわけである。むろん、これらの事はとりたてて新聞種にもならないし、伊藤側でも隠そうとしない、誰もが巷(ちまた)の噂で公然と知っている、当時の普通の政治家らしい不行状(ふぎょうじょう)であった。明治という時代は、酒乱のイキオイで理由なしに妻を斬殺してしまった黒田清隆(註4)くらいでないと《事件》にならないような、いたってルーズな時代であったのだ。政治家は政治面は別として私事に関しては、芸能人と同じようにプライバシーの存在しない、毀誉褒貶さまざまな人気稼業であった。
 こうして雛妓であった子奴は水あげ(註5)された伊藤を後盾として奴となり、わがままいっぱいの芳町芸者として育っていく。その自由奔放さは留まる事を知らず、馬車屋から馬を借りて乗り廻す、役者狂いはする(註6)、玉突き・花札賭博(とばく)はアタリマエ。隅田川で女だてらに「水泳ぎ」までする御転婆(おてんば)ぶり。しかも当時は日本製の水着など存在せず、白昼堂々と裸に晒(さらし)を巻いたような姿(なり)で貞奴は平気だが、周囲はあわてざるをえない。伊藤はなかば面白がっていたのだろうが、「下ばきに、長袖つきのワンピースを組み合わせたような、舶来物の水着」を買い与え、欧米渡りのハイカラな避暑法であり健康法として有閑階級で流行のきざしが見えてきた海水浴を貞奴に提案し、別荘のあった大磯の濤竜館に連れて行く事が多くなった。韓国統監を決めるような、国家の一大事の決議の席にも芸者をはべらせるのが当時の通だったようだから、これは批難するほどでもないかも知れないが、大日本帝国憲法草案作成のおり(明治二十年夏)にも、伊藤は神奈川県夏島の別荘に貞奴をともなっている。

註1──売淫を公許された公娼(こうしょう)。無許可のモグリは私娼(ししょう)であり、「娼妓」とも「遊女」とも呼ばない。一般に後者は「売笑婦」と呼ばれた。公娼の廓(くるわ)のある地域を赤線、私娼窟のある地域を青線と呼んだのは、この時代より光年の事である。

註2──本名は源一郎。明治初期から末期にかけての小説家・劇作家・ジャーナリスト。衆院議員など肩書き多数。十五歳より蘭学を学び江戸へ出て英学を修得。幕府に出仕して通訳・翻訳に従事。明治元年佐幕派(さばくは)の新聞『江湖(こうこ)新聞』発刊。新政府から逮捕されて発禁。三年に渋澤栄一の紹介で伊藤博文に会い意気投合。伊藤の渡米に随行。四年の岩倉具視の米欧巡遊にも書記官として参加。七年東京新聞主筆となり自由民権派批判の筆をふるう。御用新聞という悪評の反面、社説は好評。十五年立憲帝政党を組織。以降の政財界活動は省略。二十二年歌舞伎改良を提唱し歌舞伎座を建築し座主となる。九代目団十郎と意気投合し、改良史劇を続々発表。明治三十九年没。

註3──マルクス主義とは直接の関係はない。新聞購読料を低廉(ていれん)にするために、各新聞が競って安価販売合戦を繰り返した結果、だんだん紙質が悪くなり紙面の地色(ぢいろ)が赤かったのが名前の由来。日本の探偵小説の開祖のひとりである黒岩涙香(るいこう)(※)が社主であった萬朝報(まんちょうほう)(ヨロズ重宝のシャレ)などが代表的。通称「マンチョー」の主筆は涙香であったが、涙香の他に多くの論説を執筆したのは幸徳秋水である。
※明治を代表するジャーナリスト。本名は周六。「まむしの周六」と呼ばれるほど、その筆鋒は鋭く、政財界から恐れられた。『噫無情(ああむじょう)』『巌窟王』を代表作として、『死美人』『白髪鬼』『幽霊塔』などの翻案探偵小説、SF小説の魁(さきがけ)である『暗黒星』などの他、『天人論』『小野小町論』など著作多数。都々逸(どどいつ)や連珠(れんじゅ)(五目ならべ)の大衆普及にも貢献した。音二郎の選挙落選を「河原者のぶんざいで‥‥」と涙香がクサしたため、逆上した音二郎がピストルで涙香を暗殺しようとつけ狙った事件もあったが、伊藤博文の金庫番の金子堅太郎男爵(音二郎・貞奴の仲人)の説諭で事なきを得ている。

註4──戊辰・西南戦争の官軍参謀。北海道・樺太の開拓長官を経て、農相・逓相・首相・枢密院議長を歴任。黒田を含めて、井上馨・井上毅・西園寺公望や若き日の牧野伸顕なども貞奴の贔屓客であった。

註5──花柳界の伝統で《処女》を売買する経済制度。買手は多額の水あげ料を支払い、多くの場合、いわゆる芸者の旦那(だんな)になる。

註6──芸者はパトロンの独占ではないから、貞奴の場合も伊藤の体面を損ねないかぎり、かなり寛大に見られた。中村芝翫(しかん)(後の歌右衛門)、尾上栄三郎(後の梅幸)や横綱小錦などと、浮名を流す。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源5

貞奴の御乱交には実のところ理由があった。気位の高いワガママはもとよりだが、少々捨鉢気味に見えるのには、ある経緯(いきさつ)が有ったのだ。
 貞奴がまだ半玉の頃、成田詣での帰途、野犬の群れに襲われ、騎乗した馬から振落とされそうになった事があった。それを救ってくれたのが慶應義塾の学生・岩崎桃介(ももすけ)であった。この桃介に貞奴は商売ぬきでゾッコンになってしまう。ところがこの桃介、貞奴を憎からず思っていた事は確かだが、遊びはともあれ芸者を女房にしようという気はさらさらない。
 埼玉県荒子村で農業と荒物商を営む家に明治元年生まれた桃介は、将来、大実業家になることを夢見ていた。頭脳明晰・容姿端麗・加うるに実用を重んじ、他の塾生を違って常に洋服を着用していた桃介は、当時の最も進歩的で合理的な学生であった。これは師である福沢諭吉の影響もあるのだが、ある面、非情で功利的あることを意味する。桃介の考えからすれば当然に、妻帯するにあたっても、自身の将来的地位をオトシメぬ然るべき処から‥‥という思いがあった。博文をはじめとする明治の元勲(げんくん)の多くのように、芸者を女房にする時代ではないと考えていた。幸いというべきか、桃介の策謀も有ったのだか、塾長の諭吉の娘ふさ子が桃介に夢中になった。そして暫くジラした後で桃介は、当然のように養子縁組をし、結婚を前提として諭吉を後盾にアメリカ留学をしてしまう。
 渡米した桃介は福沢家の財産を浪費して、女性関係も華やかに遊蕩三昧(ゆうとうざんまい)。その噂も諭吉の耳に入るが、御乱交を隠そうとしない婿養子の度胸に、かえって新時代人の頼もしさを感じたのが実情のようだ。門閥(もんばつ)を持たないがための功利的な理由で福沢桃介になったにしても、その功利主義は諭吉直伝のものであった。一般の父親のように娘への溺愛から状況判断を誤る諭吉ではなかった。また桃介も、遊びは派手であったが福沢家の体面を損なうような男ではなく、万事落度(そつ)無く熟(こな)した。帰国後は諭吉の紹介で北海道炭礦鉄道会社に就職。結婚したふさ子を伴って札幌に就任。その後の桃介は結核などによる人生の浮沈さまざまあれど、さすがに諭吉が見込んだ男だけあって、自力で結核すらも克服。知力と胆力をモトデに明治の戦勝景気の波に乗り、日本屈指の相場師に成り上がる。王子製紙の重役をはじめ数々の要職についたが、特に電力界の雄として斯界(しかい)に君臨する大実業家になった。ついでながら、その膨大な事業のホンの一端が帝国劇場の経営であり、帝劇会長であった事もあった。
 話をもとに戻そう。桃介に袖にされた貞奴は役者狂いも激しくなるばかり。パトロンの博文にしても、貞奴が〈浮気〉の間は大目に見ても居られるのだが、桃介の場合は〈本気〉であり、しかも貞奴が蔑(ないがし)ろにされたこともあっては、後盾としての沽券(こけん)にかかわる事であった。しかも相手は社会的地位もない二十(はたち)にも満たない学生であり、断りの理由が、芸者を妻には出来ぬ──とあっては、芸者を妻にしている博文にとって面白くある筈もなかった。  また私見ではあるが、明治十四年の国会開設に関する政変以降には博文と袂(たもと)を分かった大隈重信一派の参謀と目されたために、博文が政府新聞を、当初予定だった諭吉に任せなかった事情から考えても、桃介に対する博文の思いには、義父である諭吉の裏切りに対する反感も二重になっていたと考えられる。また、かなり込み入った話だが、この政変時に博文一派であった福地桜痴が自由民権派に担ぎ上げられて、民権派の旗手にされてされてしまい、中途で人気絶頂にもかかわらず博文の意向から慌てて矛(ほこ)を納め、もとより反意は無かったために博文の同調者(シンパ)に舞戻る経緯があるのだが、この桜痴の諭吉に対するライバル意識が、少なからず貞奴の一件に関しても影響を与えていると私には考えられる。  貞奴が音二郎と出会ったのは『明治を駆けぬけた女たち』(中村彰彦編著)によれば、失恋の痛手から芝居通いが始まり、貞奴が音二郎を見染めた事になっている。また杉本苑子の小説『マダム貞奴』では、大川で水泳中に溺れかかった貞奴を音二郎が救い出す、きわめて魅力的なトップシーンから幕を開ける。しかし杉本苑子・渡辺淳一対談によれば、この場面は創作であるという。つまり『旅芸人始末書』をはじめ類書にあたっても、二人の初対面が何時何処(いつどこ)であったか記されていないのである。

 ところで、ここからは私の推論だが、二人を結びつけたのは福地桜痴ではないかという説である。桜痴は初代奴の贔屓(ひいき)はもとより、没後に『花柳史上の桜痴居士』という本が出版されるほどの男である。当然、貞奴が芸者時代にも面識があったと考えられる。しかも音二郎は壮士芝居以前の政談演説の弁士時代(明治十六年)には、桜痴などが結成した帝政党の一員だった。帝政党は翌年に解散し、音二郎は自由党に入党し自由童子を名乗るのだが、それからが二転三転。明治二十三年に一座を率いて東京での初公演。人気急上昇で、〈俳優志願者続出に川上音二郎参る〉──という記事が『東京日日新聞』に出たのは二十四年八月。この新聞社は二十一年まで桜痴が社長だから、まんざら無縁とも言えまい。

 私の憶測によれば、貞奴を中に挟んだ桃介と音二郎の一件は、政党以来対立する伊藤を大隈、幕末以来ライバル関係にある福地と福沢の、プライドを懸けた代理戦争であったと思われる。文久元年(一八六一年)遣欧使節で同行以来、福地源一郎(桜痴)と福沢諭吉の二人は翻記官や通訳官として、明治五年頃までに洋行三四回の日本屈指の西洋通であった。その先鞭は万延元年(一八六○年)の威臨丸で渡米の諭吉が一年はやいが、回数なら桜痴が勝る。共に幕臣であり、階級としては七歳下の桜痴の方が上であった。明治十一年に桜痴東京府会議長時代、副議長を辞退したのは諭吉である。しかも諭吉の自伝や著作には、接触の多かったはずの桜痴の名が、タダの一度も登場しない。明らかに眼の上のコブであったのだ。洋行以来の芝居通であった桜痴が演劇改良会を起こすのが明治十九年。諭吉年譜には二十年の項目に、〈新富座で初の芝居見物〉──とあるのは、ただの偶然とは思えない。明治二十二年桜痴は歌舞伎座創設。対するに諭吉の養子桃介は、後年帝劇会長に納まっている。桜痴・諭吉ともに没後であるが、欧化主義者で脱亜論者の諭吉の面目を、実業家の養子である桃介は、こうした形で果たしたのである。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源6

芝居通いをするうちに、いつしか音二郎一座の楽屋にも出入りするようになった貞奴は、ある夜音二郎をともなって向島にある大倉喜八郎の別邸に行き、三日間籠(こも)って相互の気持を確認。以下、中村彰彦の著作に従えば、「奴は養母・可免に音二郎と結婚する、と告げた。可免は伊藤の承諾を得た上で、その秘書官・金子堅太郎に晩酌の労を取ってもらった」──という。場所まで明確だから会合の一件は確かだろうが、それ以前に貞奴が楽屋に出入りするほど音二郎と親しかったかどうかは、いずれの評伝においえも推測の域を出ないと私は考えている。
 大倉喜八郎は財閥解体までの日本屈指の政商で、後の帝劇創設時の役員でもある。その息子の喜七郎(七に傍点)が日本オペラ界のパトロンになるのは、もう少し後の事。いずれにせよ大倉の別邸は、一般人が通常に軽々しく利用できる所ではない。伊藤博文その他の政治家が、しばしば密談に利用していたような場所である。音二郎と夫婦になる事は、貞奴ひとりの対面を繕(つくろ)う私事というより、博文を巻込み、特に勝気な可免のプライドをかけた、桃介へのシッペ返しであったと考える方が、より正確であろう。この頃の桃介は福沢の後盾がありながらも、まだ頭角をあらわす以前の青二才にすぎない。芸人といえども音二郎は、東京きっての人気者に成っていた。おそらく、音二郎が古くからの(古く~ 傍点)馴染であった──という《物語》を捏造しないかぎり、貞奴はもとより、芳町の置屋の女将としての可免の対面は保てなかったのではないかと、私は考える。そうでなければ会合に、なぜ三日も手間取るのかわからないのである。
 以降は音二郎の死に到るまで、桃介の運が向いてくると音二郎が零落し、音二郎が隆盛を極めると桃介の結核が再発する……といった、シーソーゲームのような関係を維持していく。勝気で気位の高い貞奴にしてみれば、心中深くに桃介への未練があるだけに、桃介への対抗意識が後々まで残されるが、音二郎の方のライバル意識は希薄で、人間万事塞翁(さいおう)が馬と慌てず騒がず鷹揚(おうよう)に過ごしている。それがイザ窮地におちいると、無類の勘の良さで方向転換し、明治の荒波を乗越えていく。
 川上音二郎は明治元年(一八六四)に博多で生まれた。十三才で出郷後、寺の小僧、慶應義塾の学僕、裁判所給仕、洋傘直し、巡査などの職を転々として、明治十六年頃に帝政党員となる。ところが政談演説で官憲を謗(そし)ったため入獄。その間に帝政党は解散。出獄した音二郎は、あらためて自由党に入党し、滑稽政談を得意とする「演舌つかい」として自由童子を名乗る。またも懲りずに壇上から「官史」を「官ちゃん」呼ばわりする等、官吏侮辱罪その他で検挙される事百七十数回。実刑二十数回におよび、あらゆる政治活動を禁じられてしまう。明治十九年に大阪の監獄を出た時には、桜井典獄の説諭に従い、丸坊主になり自由童子の名を捨てている。当時の人気がどれほどであったかは、後に、浪速小僧・明治浪人自由童子・国洗坊自由童子・自由浪人・自由狂子などの亜流を多数生み出した事からも想像できよう。
 さて、これからだ。政治活動を禁じられた音二郎は、一般的に蔑(さげす)まれていた芸人の世界に身を投じ、芸能をカクレミノにして世相の憂さを晴らそうとする。明治二十年京都阪井座で歌舞伎役者の中村駒之介座に加入し『東洋のロビンソン 南洋嫁ケ島』を上演。詳細は不明だが、「川上しきりに弁じ」たらしいから、かなりアジ・プロ色の強い芝居(あるいは政談?)であったろう。これが音二郎の芸人としての初舞台である。つづいて神戸の戎(えびす)座で『改良演劇西洋美談 斎武義士自由の旗揚』を上演し、大当たりをとる。音二郎は政談演説のときと同じく、収益のすべてを白米にかえ、京都でも大阪でも生活に苦しむ人々に分け与えた。この後、明治二十二年には岡山市の常盤座で、朝鮮の改革を図ろうとした大井憲太郎らの大阪事件に取材した『美人一滴の血涙』を上演し、その事件に連座した福田英子の自伝『妾(わらわ)の半生涯』によれば、「此芝居見ざれば、人に非ずとまで思はしめ、場内毎日立錐の余地なき盛況」という有様(註1)。

 ところで、ここからは私の推論だが、二人を結びつけたのは福地桜痴ではないかという説である。桜痴は初代奴の贔屓(ひいき)はもとより、没後に『花柳史上の桜痴居士』という本が出版されるほどの男である。当然、貞奴が芸者時代にも面識があったと考えられる。しかも音二郎は壮士芝居以前の政談演説の弁士時代(明治十六年)には、桜痴などが結成した帝政党の一員だった。帝政党は翌年に解散し、音二郎は自由党に入党し自由童子を名乗るのだが、それからが二転三転。明治二十三年に一座を率いて東京での初公演。人気急上昇で、〈俳優志願者続出に川上音二郎参る〉──という記事が『東京日日新聞』に出たのは二十四年八月。この新聞社は二十一年まで桜痴が社長だから、まんざら無縁とも言えまい。

 さて、音二郎と言えば『オッペケペ』だが、これが登場するのは明治二十二年の京都であるらしい。一種の時局風刺の替歌で、明治二十四年から日清戦争にかけて新作も数多く、後年の東京公演でも大評判であった。他の替歌と区別されて、特別に『川上節』とも呼ばれた『オッペケペ』は、単独での上演は無く、かならず人情噺や演劇のあとに付け加えられたもので、観客をリラックスさせ、芝居や噺の印象を際立たせるための、いわばオマケであった。そのオマケの方で名声を博するあたりが芸能の面白いトコロである。

 この頃の音二郎は、人気は鰻登りながらも、いまひとつ腰が座らない。政談・講談・落語・にわか・歌舞伎(註2)の間を転々としている。京都・新京極の笑福亭を本拠に浮世亭○○(まるまる)を名乗り、明治二十三年『時世情談』として『自由艶舌鯉之活作(てまえりょうりこいのいきづくり)』を上演。当時の実在の壮士を主人公に、市民社会の規範や明治青年の心意気を折込み、民主主義の根本理念を語った《話芸》のようである。これが当りに当った。京都市民を沸かせて昼夜の満席状態。席亭は黒字を一万何千円もモウケたというから尋常ではない。現在の一億円以上に相当するであろう。大不況の最中「夷谷(えびすや)座女芝居(註3)と笑福亭川上音二郎一座の落語」だけが大入り(『日出新聞』明治二十三年五月十七日)となり、京都芸人の頂点に音二郎は立った。

 次に目指すは関東制覇である。

註1──彼女自身の批評としては、「一見の値ひなきもの」──と記している。

註2──いまだ新劇としても形にならない状態のものだったため、仮に旧劇の歌舞伎に分類しておく。

註3──年代を見てわかるとおり、ほとんどの演劇史で、この時代には女優が居ない事になっている。すべて女形が演じていたというマコトシヤカな説が常識になっている。ところが大衆に愛されて女芝居つまり女歌舞伎が、大威張りで大衆芸能の王座に君臨していたのである。同時代では西洋魔術のみが女歌舞伎と張合った位であるという。ちなみに再説すれば、貞奴の日本での初舞台はこれより十三年後の明治三十六年である。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源7

~権利幸福嫌いな人に、自由湯(とう)をば飲ましたい。オッペケペ、オッペケペッポーペッポーポー。
 堅い上下(かみしも)かど取れて、マンテルズボンに人力車、いきな束髪ボンネット。貴女(きじょ)に紳士のいでたちで、うわべの飾りはよいけれど、政治の思想が欠乏だ。天地の真理が分からない。心に自由の種を蒔け。オッペケペ、オッペケペッポ、ペッポーポー。
 米価騰貴の今日に、細民困窮見返らず、目深(まぶか)にかぶった高帽子、金の指輪に金時計、権門貴顕に膝を曲げ、芸者太鼓に金をまき、内には米を蔵に積み、同胞兄妹見殺しか、幾ら慈悲なき欲心を、余り非道な薄情な、但し冥土のお土産か、地獄で閻魔に面会し、賄賂使こうて極楽へ、行けるかい、行けないよ。オッペケペ、オッペケペッポーペッポーポー。
 ままになるなら自由の水で国の汚れを落したい。オッペケペ、オッペケ。(中略)
 
 散切(ざんぎり)頭に白鉢巻、陣羽織を着て日の丸を片手に、軽快な七五調でリズミカルに弁じたてるのが『オッペケペ』(『オッペケペ節』とも呼ばれた)である。まずはスタンダードを記したが、時局に合わせて作詞が変わるのはモチロン、おそらくその場の状況で、かなりのアドリブも有ったと考えられる。風刺や煽動にとどまらず、ヒョイと観客に突込みを入れるあたりが音二郎の芸人らしさで、話芸ではないが役者が芝居の中で観客にイキナリ語りかける手口は、歌舞伎の口上にも通じる常套手段であった。(註1)

 このオノマトペともつかぬ『オッペケペ』には、実は前史があり、笑福亭時代には「ヘラヘラ、ハラハラ」という合の手を、音二郎は巧みに使って大受けしたらしい。当時の芸人のヘラヘラ坊万橘の囃(はやし)言葉「ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラへ、オヘケヘッホー、ヘッヘッヘイ」──を単純化し、言わば盗作したものだが、当時は著作権というものは存在しなかった。「鼻下長のお利口連は勿論、丁稚に下婢に番頭に旦那に奥さんに僧侶神主まで、ヘラヘラハラハラといいだす様になって、大流行」(『日出新聞』明治十九年四月十六日)──で、それに改作を加え出来たのが『オッペケペ』らしい。

 こうした時局風刺の話芸は、元禄期前後(十七世紀末)に心中ものの芝居が流行し、それをもとにした絵草紙を売るのに、筋書きを謡や小唄に節をつけて売り歩いたのや、それと同時期に、世間の出来事などを報じた絵入りの『瓦版』(註2)の売り子が、事件のサワリを唄のように節を付けて売歩き『読売』を呼ばれたのを起源する。香具師(やし)の売り口上などもその発展形態だが、『オッペケペ』以降の、壮士くずれが流行歌の歌詞やアジ・プロ的創作歌曲の歌詞を口演しながら売歩いたのも、その系譜に連なるものである。大正期の演歌師・添田唖蝉坊(あぜんぼう)の『ラッパ節』『ノンキ節』などが、その流れと言ってよい。発達史としては『瓦版』以前からある説教師の説教話芸や、特にそれが通俗化した阿呆陀羅経を唱える願人(がんじん)坊主の祭文(さいもん)・ちょんがれ・浪花節などが混入して展開されたものと考えられ、いずれも芸能と商売と政治宗教思想宣伝(プロパガンダ)が混在した、ジャンルとして規定できない行為をともなった話芸(パフォーマンス)であった。

 さて、音二郎一座の関東初見参は、明治二十三年八月横浜蔦座公演『明治二十三年国事犯顛末』と『松田道之名誉裁判』の二本立て。もちろん『オッペケペ』も演じて十五日間満員。『国民新聞』『東京日々』『東京朝日』などが、「書生芝居(註3)・滑稽演劇家川上音二郎大人気」──と、盛況ぶりを報じている。そこを振出しに九月は東京・芝の開盛座・「書生芝居、太鼓を叩きまわる、一行凡そ三十二、三人」(「国民新聞」九月十二日)「芝開盛座、再び停止を喰わば荒事の活劇を覚悟」(同九月二十三日)──と、新聞が過激な記事を掲載。少し注釈を加えれば、前の記事は、公演に際してデモンストレーションとして行った仮装(コス・プレ)によるパレードを報じたもの。当時は相撲巡業の他は《触(ふ)れ太鼓》による到来を告げる公演がなかったため、芝の住民は時ならぬ太鼓の音に、イッセイに大通りに飛び出したらしい。「川上音二郎一座」や「開盛座」などの幟旗(のぼりばた)を押し立て、人力車三十数台に壮士風の一団を連ね、役者名の小旗のはためく中、音二郎は白の毛皮を座席に敷いて、紺のカスリに鳥打帽のイデタチで、自信満々の様子であったという。後の記事は、警視庁の脚本検閲でひともめ有った一件を報じたもの。たとえ《芸能》に名を借りても、政治的主張への官憲の追求はキビしかったのである。

 この開盛座でも十日間の大入りを記録。イキオイをかりて浅草文楽座での演説会も立錐の余地が無い有様。徳富蘇峰(そほう)の『国民の友』は、「演説壇上、滑稽を弄して笑を博し、竹刀を振りて興を添ゆ、講釈師? 演説家? 忽ちにして俳優、忽ちにして鳴物入りの演説家、知らず俳優? 演説家?」──と、驚きの色を隠せない。型破りの新人種(パフォーマー)の出現に、それを発火源として壮士の芸人化がワレモワレモと始まった。壮士伊藤仁太郎転じて政治講談師・伊藤痴遊(ちゆう)などがこうして生まれて来る。四年前のナニワの自由童子の復活である。サア、これからだ。

 
 註1──メイエルホリドなどの二十世紀初頭の前衛劇が、おそらく書物からの知識によって、日本の歌舞伎や雑芸から採り入れたのは、西洋演劇の発想にはない、舞台から垂直に伸びた花道や客席からのカケ声などの、演者と観客の壁を取払う、こうした方法論であった。郡司正勝が『演劇の様式』(昭和二六)の中で言うように、西洋の「頭脳の演劇」と違って日本の歌舞伎は「感覚の演劇」であり、漱石の歌舞伎観(※)を踏まえ、新劇の立場からすれば「きわめて低級な芝居というほかない」──としながらも、その伝統的な手法にある、西洋演劇の発想を越えた歌舞伎の、むしろ古めかしさの中に混在する前衛性を主張するのは、こうした点からであろう。
※──「極めて低級に属する頭脳を有った人類で、同時に比較的芸術心に富んだ人類が、同程度の人類の要求に応えるために作ったもの。」

註2──粘土板やツゲの版木、あるいは餅やコンニャクなどに文字を彫り、墨を塗って印刷した新聞や宣伝ビラの原型。語源は素焼き粘土板のカワラからという説と、四条河原での芝居を知らせる摺り物に、こうしたものが多かったからという説。また売り歩く多くの者が、役者等の《河原者》であったからという説などがある。

註3──いまだ新劇が成立していない時期のため、書生あがり・壮士くずれが演じる素人芝居を書生芝居・壮士芝居と呼んだ。自称・他称の場合がそれぞれにあるが、画然とした相違が有るわけではなく、新聞表記などでも同じ公演に二つの名称が各誌バラバラの無手勝流で記されることが多い。一般的には両者を壮士芝居と総称する。評伝『女優貞奴』の著者・山口玲子は、音二郎が《自称》したとしているが、根拠とするデータが新聞記事だけのため確証とは言えない。ただし書生あがりの壮士くずれである音二郎の自称とすれば、旧時代人の「くずれ」より新時代人の「あがり」の好印象の方を、ネーミングとして採用したことであろう事は確かである。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源8

壮士芝居の歴史は明治二十一年十二月角藤定憲(すどうさだのり)が、中江兆民などを顧問とし《日本改良演劇》と銘打って旗揚げしたのが最初とされている。劇団名も《大日本芸劇矯風会》と大変イカメしい。演目は『耐忍之書生貞操の佳人』『勤王美談上野曙』の二作品。翌年の京都公演の頃にはユニフォームも揃いの黒紋附に白縮緬の兵児帯、白布のうしろ鉢巻という壮士風のスタイルに定着する。以来角藤は《新演劇元祖》や《元祖大日本壮士改良演劇会》を名乗りつづける。
 ズブの素人が演じる芝居だから、かねて角藤が写実の巧者と私淑する中村宗十郎に演技の教えを乞うたが、「堅気の人間は毛をたてて恐がって居る転(ごろ)つき壮士だから」と最初は断られる。しかし弟子の中村丸昇が演技指導を代行する事になった。明治の市井の出来事をリアルに活写するのが角藤の意図だったから、車夫役は三日も市中で俥(くるま)を引廻し、按摩役・乞食役それぞれ実地体験していく演技収得法であったらしい。官憲の圧迫を逃れ芝居に仕組んだ政治宣伝を意図とし、いっぽうで無職の青年壮士に職を与え救済するという涙ぐましい目的もあった。ところが関西ではかなりの成功を収めた角藤の壮士芝居も、関東での公演まぎわに政治的圧力でお流れになり、初東上の二十七年には、すでに音二郎一座が地盤を固め、それを追い抜く力を持たなくなっていた。そうした角藤を音二郎はツブサに観察し、観客の反応を研究して来た筈である。
 私見によれば角藤の関西での成功は、土佐を中心とする自由民権思想の普及が関西以西では根強かった事、演技の未熟さにくらべリアルな生真面目さが好意的(場合によっては滑稽)に受けとめられた事があげられると思う。それがすぐさま関東で受け入れられなかったのは、地元贔屓(びいき)が得られない事と、自由民権思想の普及力の違い。壮士劇の未熟なギコチ無さが洗練を要求する東京の排他的な庶民文化の中でヤボったく見えた事。壮士劇の強面(こわもて)な体質が女性客を集めなかった事。そして最大の原因は、演技力とは別に要求される、或時(あるとき)は高圧的に或時は謙(へりくだ)る芸能的センスと、バラエティーに富んだエンターティメント性の欠如であったと思われる。
 角藤の持ちえなかったそうした技量を、音二郎は確かに持っていた。明治二十四年、音二郎は浅草の大劇場中村座で『板垣君遭難実記』を上演する。当然オッペケペも唄い、清元もうなり、大切りでは役者連総出のステテコ踊りの賑やかさ。観客に芸者衆なども交えて、東京中の話題となるほどの大盛況。演目は中幕に『監獄写真鏡』をはさんで二番狂言『勧懲美談児手柏(かんちょうびだんこのでかしわ』大切り『花柳噂存廃(はなやなぎうわさのあるなし』で全幕。歌舞伎と同じ配列だがすべて新狂言である。「さあさあ、板垣君遭難実記、岐阜中教院玄関の場がはじまるよッ、板垣退助に扮するは、いま売り出しの青柳捨三郎、刺客相原が川上音二郎ッ、板垣死すとも自由は死せず、手に汗にぎる殺し場だあ、さあ幕があくよッ、はいったはいったァ」—-呼び込みの声に従って、当時の中村座を覗いてみよう。引用は杉本苑子の『マダム貞奴』から、改行無しの大車輪(はやおくり)。
 
 川上扮するところの刺客相原は、おどりかかって板垣を刺す。ここで例の、/「板垣死すとも自由は死せず」/をやるのかと思うと、そうではない。組んでは倒れ、起きあがってはまた組みつき、五度も六度も格闘をくり返すあいまあいまに、自由民権思想について両人が、泡をとばして論じ合うのである。(中略)相原が板垣の髪の毛をひっつかむ、それを下から板垣が二間も先へはねとばす。ドシーンと舞台の板が鳴る。様式化した歌舞伎の立ち廻りにくらべると写実そのものだ。(中略)—-ところへ珍事が突発した。板垣が、/「ろうぜき者ッ、出あえ」と声をあげるのを聞いて、中教院の中からばらばら人がとび出し、相原と大乱闘のさなか、巡査二人をしたがえて警部が花道を駆け出してきたのだ。そのまたあとを、中村座の頭取があわてふためいて追ってくる‥‥。(中略)平土間の見物は床板をふみ鳴らし、/「官憲横暴ッ」/と絶叫しながら、花道めがけて殺到しようとした。/舞台番が、泡をくってとび出してきた。/「頭取さん、ちがうよッ、ちがう。そのお巡りは役者だ。狂言だよッ」

 杉山誠の論文(註1)では開場初日のハプニングらしいが、杉本の小説では頭取と舞台番まで含めた全員がグルの《演出》になっている。あるいは初日の客の反応から、音二郎によって新しく書き加えられた趣向かも知れない。他にも『マダム貞奴』には役者の扮した巡査が、刺客相原の公判場面で平土間の観客(実はサクラ)に、「こらッ、公判傍聴中に、帽子をかぶるちゅうことがあるのかッ」—-と叱り、「へい、ごめんなさい」—–と帽子を脱いで、場内の割れんばかりの拍手喝采もあったらしいから、これを杉本の創作でないとすれば、こうした演出は意外さをねらった物ではあっても、日本の芸能では前衛的というより従来よりの常套手段であった気配が読みとられる。前出の杉山論文『新派劇』には、「頭の床を打つ音、ドンゴツンと遠き桟敷にまで聞ゆる程(中略)実地活歴もここまで遣って見せて貰えば見物も確かに合点するなり」—-という、出典記載の無い文章があり、おそらく生傷の耐えないリアルな舞台であった事が想像される。そうした雰囲気をデータの集積の上に空想を交えて、場合によっては事実以上に本当らしく杉本の『マダム貞奴』は伝えている。それが大変に面白い。

 いずれにせよ音二郎の成功によって、演劇といえば歌舞伎に限られ、役者の一族が特別のコネでも無ければ役者になれないと考えられて来たのが一変し、素人でも役者になれる時代が到来した。数多くの俳優志願者が音二郎の下に集まって来る。その中には後の新派の名優になる伊井蓉峰も居た。

註1──『演劇の様式』昭和二十六年河出書房刊所収『新派劇』

村上裕徳 日本現代舞踊の起源9

壮士芝居について、もう少し触れておこう。
 その開祖である角藤(すどう)定憲は慶応三年(一八六四年)岡山県で生まれた。元冶元年生まれの音二郎より三才若い。京都府巡査の後、中江兆民の演説に感動し、大阪で兆民が社主の≪東雲(しののめ)新聞≫の記者となった。その角藤に兆民が、寺の境内で政談演説するより舞台上の方が効果的と、思想性を盛り込んだ演説活動をすすめ、これが壮士芝居の先駆けとなった。兆民は反政府的言動から、尾崎行雄や星亨(とおる)とともに明治二十年の保安条例で東京四里以内退去を命じられていた。そのために官憲の眼をかいくぐって関東にまで波及するほどの強力なアジテーターを必要としていたのである。角藤は女形と立役の両方をこなし、女形姿も美しかったらしい《註1》が、そこは素人の悲しさ。裾さばきが上手く出来ず、裾を踏んでひっくり返る事もしばしば。毛脛(ずね)を曝(さら)してバタつくので桟敷の客はドッと笑うが、芝居は滅茶苦茶。パッと裾をまくって、これを愛敬と居直ってしまい、楽屋に引込むのが、まだ素人芝居だからと許された壮士芝居の黎明期であった。角藤は何事にも大雑把で無頓着だが打算的でないサッパリした気性であったらしく、それが角藤の人望にもつながっていた。この角藤一座も名古屋公演で官憲とぶつかり、関東上陸を阻(はば)まれて関西各地で低迷状態であったが、音二郎の関東での人気に刺激され、浪花座で息を吹きかえす。川上音二郎何するものぞ、角藤定憲は壮士劇元祖である――というのが彼の自負(プライド)であった。
 もうひとり特筆すべきは、二十五年七月に浅草市村座で『明治裁判弁護誉』を上演した山口定雄である。四国の徳島市かごや町の小間物屋出身の山口は、大阪へ丁稚奉公の後に歌舞伎界に入り、十一代片岡仁左衛門≪当時我当(がとう)≫の弟子として我若(がじゃく)を名乗る元女形であった。門閥が無ければ出世できない歌舞伎界を逃れて壮士芝居に転じたものである。それだけに基礎も確かで、立役、女形、かたき役、老役(ふけやく)と何でも達者にこなした。泥酔を装い交番の前で立小便をして巡査と大ゲンカを始め、ヤジ馬が集まった頃合を見計らって、「諸君、我が山口演劇は民衆教化の運動を目的とした芝居で、即ち営利のみを考えていない」――と一席ぶつような、奇抜な前宣伝を常套としたらしい。また歌舞伎界出身だけに現代劇に限らず歌舞伎も上演したが、『伽藍先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』の愁嘆場(しゅうたんば)で観客は涙をしぼっている最中(さなか)、劇中の息子千松(せんまつ)を死なせてしまい悲しむ母の政岡(まさおか)がイキナリ、「諸君よ、即ち諸君よ。わが山口演劇は」――と芝居をそっちのけにしてしまう珍妙な演説癖が有ったらしい。ほかにも豆電球がカラダに巻いて宙乗りするような外連(けれん)《註2》を得意とし、「ハア、パッパッ」の合図の声で光を点滅させながら空中を闊歩(かっぽ)して消えていたらしいから何とも愉快である。もっとも電気の導線の不首尾から感電して肉まで焼く生傷が絶えない、かなり危険な荒事(あらごと)でもあった。
 現在では猿之助の専売のようになった宙乗りも、当時の小芝居(こしばい)ではかなりポピュラーな演出である。大歌舞伎(おおかぶき)でも品の良いものとして評価はされていなかったが五代目菊五郎も宙乗りをしたし、上方歌舞伎《註3》の市川右団次(うだんじ)や父の斎入が最も得意としたのも宙返りや早替りであった。こうした外連は幕末以前からのものだが、歌舞伎を伝統技能として≪高級に≫認知させていくなかで、宙乗りは明治以降じょじょに下手(げこ)な演出として大歌舞伎では敬遠されて来た。猿しかやらぬサーカス歌舞伎と陰口を囁(ささや)かれもしてきた。しかし宙乗りに代表される外連は、それが本質でないにしても、歌舞伎が歌舞伎本来の活力を持った猥雑で如何(いかがわ)しいものであるための重大な要素であった。明治以来、猥雑であるからこそ歌舞伎であったパワフルな芸能が洗練された芸術を目差したのである。
 話をもとに戻すと、以上の角藤に山口と音二郎を加えた三人が壮士芝居三羽鴉である。ほとんどの新生劇団は、歌舞伎からの派生をのぞき、この三劇団から分化して生まれてくる。他にも後の≪新派≫の原形のようなものが出来つつあった。二十四年に漢学者で劇作家の依田学海(よだがっかい)の提唱で改良演劇の実践として男女合同による劇団≪済美館≫を結成する。後に音二郎門下にもなる伊井蓉峰はこの劇団が初舞台であった。女優は千歳米坡(ちとせよねは)≪芳町(よしちょう)の芸者米八≫が務めたが、こうした男女混合の≪実験演劇≫は、いまだ時機尚早で、二、三回の公演のみで自然解散し、そこに出演していた伊井や水野好美は川上一座に合流する。

 いっぽう『板垣君遭難実記』を音二郎の煽(おだ)てに乗って中村座へプロデュースした浅草の芝居茶屋≪丸鉄≫の息子福井茂兵衛が、あそらく借金を棒引きにさせるための音二郎の煽てに乗せられ、生来の芝居好きもあって川上一座に参加。後、貸した大金を音二郎が返済しなかったため音二郎から離れ一座を結成。四番目の旗頭になる。福井は万延元年(一八六〇年)生まれで音二郎より四才上。十二、三才で落語家の弟子となり、五明楼玉若を名乗って十六才で真打ち。ひっぱりだこのかけもちで忙しく、人力車で走りまわっていたのを人力車ごとひっくり返され、片足を骨折。後遺症で正座が出来ず引退。≪自由新聞≫の記者となり星亨の知遇を得る。横浜で星の秘密通信員になった後に壮士集団≪住民苦楽部≫を組織して政治活動に活躍。後に役者に転じた。足の不自由なのは桟敷からでもわかるのだが、粋な所作や敏捷さがそれをカバーし、歯切れの良い口跡(こうせき)が観客を魅了するほど粒立ちの良い発声であったらしい。元壮士ながら壮士ぶりを売り物にせず、渋い芸風で面白い芝居をする事が好まれ、初期新派の名優となる。

 また伊井や水野も佐藤歳三と川上一座を離脱し≪伊佐水(いさみ)演劇≫を結成。後に分かれ三者三様に活躍。水野は劇団≪奨励会≫を名乗り浅草常盤座を本拠に三十年代に全盛を迎える。一座の女形は山口門下出身の河合武雄であった。河合は歌舞伎役者大谷馬十の息子である。伊井の親しい後輩に山口門下の喜多村緑郎(ろくろう)がおり、伊井・喜多村に河合を加えた三人が、現在≪新派≫と言われているものの原形を作っていく。いずれも女形を得意とする名優で、後に喜多村門下から花柳章太郎が生まれて来る。

 
註1──容貌魁偉(かいい)であったという異説もある。『浅草喜劇事始』≪丸川賀世子≫では角藤の容貌は次のように記される。「眼と眉のせまった彼の顔は、見るからに利かん気な志士風だが、色白のふっくらした頬のあたりには、若衆の色気が漂っていた。」

註2──江戸時代からある宙乗りや早替りなどの、客を驚かせる派手な演出。宙乗りは縦移動の宙吊りではなく横移動も含み、空中を歩いたり浮遊したりする状態をロープやピアノ線で吊って表現するもの。

註3──東京の荒事を芸風とする江戸歌舞伎に対して関西の和事を芸風とする歌舞伎。片岡仁左衛門・中村鴈二郎(がんじろう)・市村右団次・中村梅玉(ばいぎょく)・中村福助などが大名跡(だいみょうせき)。中村福助は江戸と上方に東西二人居た。上方の福助が梅玉を襲名するのは通例だが、江戸歌舞伎の福助が梅玉になる事はありえない。あるとするなら簒奪(さんだつ)以外の何物でもない。右団次は仁左衛門の名相方で屋号は高島屋。父の斎入は気むずかしやで名高い先々代仁左衛門も、一目置くほどの名優であったらしい。